ヨシュウフクシュウ
佐々井 サイジ
第一章 邪衆(ヨシュウ)
第1話
手のひらに汗が浮き、べたついてしかたない。まだ早朝五時半少し前ですでに蒸し暑い原因は、琵琶湖から蒸発した水分を孕んだ風の影響に違いなかった。
左肩に鋭い痛みが走った。脱衣所の鏡で裸の自分を見た際に、左肩を切り裂くように赤い線が入っていたことを思い出す。薄いグレーの
気づけば深いため息をついていた。かつてこの線路に飛び降りて亡くなった人の亡霊がいるのなら、今すぐその血まみれの手で私を引きずり込んでほしい。このホームに立つたびにそう思うのはもはや習慣になっていた。
水山中学校へ六時半に到着するには、五時二十九分発の草津線で貴生川駅まで行き、そこから近江鉄道の始発で二駅、電車を降りてから十分ほど歩く必要がある。その間、この鞄をずっと肩にかけておかないといけない。口からため息が漏れた。息は小刻みに揺れていた。目の周りや鼻の奥がツンと痛み出す。夏休みが明け、今日からまた鬱屈した毎日が始まる。意思とは関係なく、夏休み前の一日のルーティンが頭に浮かんでしまった。
早朝四時半には起きて支度し、朝の六時半に中学校へ出勤する。時間割が六時間目まであるうち、五時間はひっきりなしにクラス間を移動して授業をおこない、授業がない時間も休む暇はなく、朝に回収した生徒の連絡帳の確認と書き込み、授業準備に追われる。帰りの会が終わると、部活に行く準備に取り掛からなければならない。渚は女子ソフトテニス部の顧問を務めていた。学生時代にソフトテニスをしたことは一度もない。昨年、水山中学校に新卒で赴任した際、校長の
「うん、まあ、検討しとくよ」
歯切れの悪い城本校長の返事に悪い予感がしていたが、まさかソフトテニス部になるとは思わなかった。教員として赴任して早々、不満で胸の中が支配された。バスケットボール部にならなかった理由はすでに顧問数が充足しており、不足していたソフトテニスに回されたということだった。だが、バスケットボール部の顧問の一人は硬式テニスしか経験していなかった。ならばその教員をソフトテニス部に回して自分が入りたいと思ったのだが、意見を言えるような立場も空気もなかった。
二学期も九月中は完全下校の時間は午後の六時までだった。つまり部活動に縛られて業務ができない。明日は休み明けテストがあり、また採点業務が増える。それが終わったとしてもたちまち中間テスト問題作成という大きな業務がある。業務は常に山積で片付くことはない。
結局、午後九時過ぎに学校を出て帰る頃にはいつも十一時前だった。そこから夕食とお風呂を簡単に済ませるが、仕事の積み残しが残っており、結果的にベッドに潜り込むのは日を跨いだ午前一時だった。就寝時間が短く、眠気を取ることはとっくに諦めていた。
またあの日々がやって来る。まばたきすると涙が頬に流れていった。渚は俯くと、すっかり汚れたシューズが目に入った。点字ブロックに足をかけてみる。少しずつ前へとずらしていき、すぐに点字ブロックより前に立った。後ろに立つ中年の男はスマートフォンに視線を落としており、渚が前進したことに気づいていない。その横も、その後ろも。もしくは気づいてはいるが見て見ぬふりをしているだけだろうか。駅員はずっと奥にいて、背中を向けていることだけはわかった。
太腿に振動を感じた。ポケットからスマートフォンを取り出すと、メールの受信通知が一件届いていた。母からだった。「インターネットは詐欺が横行していて危ない」と言って頑なに携帯電話を使い続ける母は、メールの送受信もインターネットを使用していることを理解していない。教えたところで理不尽な癇癪を起こされるのは目に見えているので、見て見ぬふりをする。
『あんた、彼氏できたんか? もうええ歳やろ。彼氏いたら実家に帰って挨拶しなさい』
渚はすぐにメール画面を閉じてスマートフォンをポケットにしまった。過干渉でヒステリックな母親。教師になると話したときも「お前みたいなもんが子どもに教えられるわけないやろ。短大行って事務の仕事してはよ結婚せえ」と昭和の古き悪しき文化を凝縮したような内容を散々言われた。
それに反抗するように猛勉強し、滋賀大学教育学部に進学し、学費を出さない親に頼らないため奨学金を利用して通った。毒親に支配されている自分の子どもがいたら選択肢を広く持たせてあげたいという長年抱いていた志は、洗濯機に紛れ込んだ紙のように細かい破片になった。
柱の上部に設置されたスピーカーから電車の到着を告げるアナウンスが響いた。線路の奥にはくすんだ緑一色の電車の姿がゆっくりと大きくなってくる。さらにもう一歩ホームの端に近づけた。もう一歩進めば線路に落ちる。草津駅へと近づく電車のスピードはいつも遅い。衝突しても即死はできないだろう。線路に乗った胴体は真っ二つになり、激痛のなかでまだ機能する聴覚と脳が乗客たちの「朝から迷惑なんだよ」という声を感知し、罪悪感を抱えながら絶命するのだ。それでも、今の生活から抜け出せることは間違いない。
爪先がホームを少し越えた。あとは身体の重心を前方に預けるだけ。風が背中を撫でた。死ぬことを促している、いや、背中を押してくれているような気分になった。
「危ないのでホームの内側へお寄りください」
奥に小さく見える駅員がマイクを口にあてて渚を見ていた。いや、渚を向いているのか渚の奥に映る電車を見ているのかわからない。線路には枕木のそばに空になったペットボトルのゴミが転がっている。あそこに向かって飛び込めばいい。鼓動が大きくなる。ゆっくりと電車が大きくなってくる。飛び込め、飛び込め。
思い切り空気を吸い込んだ。いつのまにか電車は渚の前をゆっくり流れていた。点字ブロックの内側に足が収まっていた。深いため息が漏れる。わずかに振り返ると五、六人の乗客はみなスマートフォンに目線を落としたままで、渚の存在すら見えていないようであった。この調子なら飛び降りて肉片が飛び散っても気づかれないかもしれない。どうせなら誰かに背中を押してほしかった。しゃがみこみたいのに膝が硬直して立ったままだった。再びポケットに手を突っ込み、スマートフォンでXを開いた。
『今日も死ねなかった』
投稿すると、すぐにタイムラインの先頭に乗った。知り合いの誰も知らない裏アカウント。本当の気持ちをさらけ出せるのはここだけだった。
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