組合事務所①

 組合の事務所は仮粧町けわいまち通り商店街にあった。


 仮粧町商店街ビルという、商店街の振興組合が所有している建物があり、その二階と三階が事務所になっている。二階には振興組合の事務員をしている祖師谷そしがやさんという、いつも置物みたいに寝ているように見える、おじいさんかおばあさんかもわからないお年寄りがいて、商店街に関する仕事をしている。ときどき商店街の会長がいるのも、会長と話をしに商店街の人が来るのも二階で、三階へ上がってくるのは特別な事情がある人に限られる。


 事務所が商店街振興組合所有のビルにあることからわかるように、商店街の会長は異形種共同組合の理事でもあった。


 商店街のある仮粧町けわいまちは昔は職人町で、化粧板・化粧金具・化粧瓦などをつくる職人が多く住んでいたことから仮粧町と呼ばれるようになった、と一般には説明されている。しかしさらに時代をさかのぼれば化生坂けしょうざかと呼ばれていた地で、化生の字を嫌って仮粧坂けしょうざかと変え、後に栄えて仮粧町けわいまちとなった。名前の方が先なのである。


 化生けしょうとは化けて生きるもののこと。つまり人間の振りをして生きる、人ならざるもののことを意味する。


 エンジュがこの事務所に駐在することになっているのも、そういう事情が背景にあってのことだった。揉め事仲裁の現場担当者である当番員が、組合員である化生の者が多く集まっている近くにいると、相談する方にしてもされる方にしても都合がよい。


 しかしエンジュはあまりこの事務所を気に入っていなかった。無理矢理やらされている仕事で気が向かないというのもあるし、部屋で一人やることもなくぼーっとしているのも性に合わない。ユウマと一緒のときは仕方なくここで暇を潰していたりもするが、見回りと称して不在にしていることも多かった。




 エンジュと二人で商店街ビルに戻ってきたユウマは、うなだれて階段を昇った。


「酷い目にあった……」


 思わずそう溜め息をついてしまうのも無理はなかった。


 洋食喫茶『セルパン』での鶴牧夫妻と八五郎との揉め事は無事に解決した。それはよかった。急に呼び出されるような事態は珍しかったが、双方納得してくれたし、特段恐ろしい目に合うということもなかった。最近の仕事の中ではかなりうまくいった方だといえる。


 しかしその後がよくなかった。エンジュが八五郎とやりあった──というよりも一方的に投げ飛ばしまくって、そのせいで店の中がボロボロになってしまった──ということで、結局、その損害は組合で弁償することになった。その上、店の片付けやら何やらまで手伝わされた。怪力乱神を体現したようなエンジュがいるのでそう時間はかからなかったが、苦手な肉体労働でユウマはすっかり疲れ切ってしまった。


 一方のエンジュは疲れを知らない様子で笑っていた。


「あのくらいで音を上げるなよ。相変わらずひ弱だな」

「エンジュの基準だと全人類がひ弱になってしまうよね」

「そうでもないぞ。オレから見てもこいつすげー体力バカだなって思う人間もときどきいる」

「そんな化け物と比べないでくれるかな……」


 三階まで昇ると、エンジュは事務所の入り口に掛かった『外出中』の札を『在室』に変えた。それからドアノブを手にする。


「まぁそうぶつくさ言うなよ。丸く収まったんだからよかったじゃねぇか」


 そう言いながら事務所に入ろうとすると、それまでわりと機嫌よさそうにしていたエンジュの表情が、とたんに不機嫌なものに変わった。露骨にチッと舌打ちする。


「一体どこが丸く収まったのかしら」


 事務所内から、酷薄な調子のする声が出迎えた。


 ユウマがエンジュの肩越しに見ると、中で待っていたのは、黒いセーラー服の女子高生だった。この近くにある山白菊学園という、明治期からの伝統ある女子校の制服で、それに身を包んだ女性は、前髪の揃った長い黒髪に、恐ろしく整った顔立ちをしている。しかしその見目は麗しいと形容するだけでは十分とはいえず、微笑みにさえ慄然りつぜんとしてしまうところがあるほどの容貌だった。


「出たな烏女」


 エンジュが吐き捨てるように言った。


「あらご機嫌ななめね鬼畜少女」

「畜は余計だろうが!」

「まあ怖い。鬼の形相で睨まないでくれるかしら。あなたと違って育ちがいいから、殺伐としたのは苦手なの」

紅葉もみじさん、来てたんですか」


 ユウマは慌てて口を挟んだ。


「お茶でも淹れますよ。緑茶でいいですか。昨日ちょうど堀越園さんのとこで新しい茶葉が出てて──」

「お茶が出るなんて、黒江くろえくんが来てくれたおかげで、すっかりここも文化的になったわね」

「ユウマ。茶なんか出さなくていいぞ」

「あら、どうして」

「茶は来客用だ。お前は客じゃねーだろ」


 エンジュの言う通り、彼女は客ではなかった。客というのも変かもしれないが、揉め事を抱えて相談にきた組合員ではない。羽合あわせ紅葉もみじは異形種共同組合の常任の役員で、主に当番員との連絡や情報収集を担当している。いやな言い方をすればエンジュのお目付け役とも言えた。


「でも」紅葉は異見を唱えた。「そうとは限らないんじゃない? 相談に乗ってもらいに来たかもしれないでしょう」

「なんの相談だよ」

「可能性の話よ。別に相談に乗ってもらいに来たわけじゃないわ」

「ユウマ塩持ってこい。袋の、でっけーやつ」

「やだ、すぐ暴力に訴えようとする。野蛮」


 くすくすと笑っていた紅葉の目が、すっと冷たくなった。


「そんなことだから、組合費を云十万と無駄にすることになるのよ。たった半日の労賃どうこうくらいの話で」


 歯をむいて怒っていたエンジュは、ぴたりと真顔になった。


 紅葉が言っているのが先ほどの『セルパン』でのことなのは明らかだった。どこから見ていたのだろう。ユウマにはまったくわからなかったが、どこかで監視していたのでなければ、ついさっきの出来事をこんな具体的に指摘できるはずはなかった。


 紅葉が冷ややかな態度を示すのは当然と言える。組合の運営は組合員から集めた組合費で成り立っている。どこからか無尽にお金が湧いてくるわけではない。経費の内訳は組合員への説明義務があるし、無駄に浪費していいものではない。


 だけど──ユウマはエンジュの横顔を見た。エンジュは何も無闇に暴れたわけでない。力自慢の大入道といえど、八五郎とエンジュとには大きな力の差があった。それも体格差を無視して足四の字固めをかけられるくらいに。なのに八五郎を投げ飛ばしたのだとしたら、それは間違いなくわざとだ。


 そしてその理由は、ユウマには察しがついていた。


「店で暴れてる男がいるから来てほしいって言われて、駆けつけたほうがそれ以上に暴れるなんて、何を考えてるの」

「いやそれは」


 とがめだてる紅葉に、ユウマが口を挟もうとすると、


「余計なこと言うなっ」


 エンジュが腹にパンチを入れた。


 ユウマは思わずもんどり打って倒れそうになる。

 倒れなかったのは、崩れ落ちるユウマを紅葉が抱きとめたからだった。


「あ、あなた! 黒江くんになんてことするの!」


 ユウマは紅葉の腕の中でぐったりくずおれていた。それもそのはず。パンチを腹に受けて、背中から1メートルくらい後ろまで衝撃が抜けた。


「あることないこと言おうとするからだよ」

「……あなたもしかして、他にもなにかしでかしたんじゃないでしょうね」

「さーな。知りたきゃ調べろよ。それがテメェの仕事だろ。で、結局何しに来たんだ。わざわざ嫌味を言いに来たのか?」

「事実確認を嫌味と感じるのは、後ろめたいからじゃないかしら。用件ならちゃんとあるわよ。『セルパン』に支払う弁償金は、エンジュ、あなたへの給与から差し引きます」

「は!? ふざけんなよ」

「あたりまえでしょう。あれを組合費で払うなんて、他の組合員が納得すると思う?」

「そ、損害賠償金を給料から天引きするのは、違法……」


 紅葉に抱きかかえられたまま、ユウマが息も絶え絶えに声をこぼした。


「そうね。人間のルールでは。でもね黒江くん、知ってると思うけど、私たちの間では私たちの取り決めが優先されるのよ」


 それを耳にしてユウマは力尽きた。


「私だってできればそんなことは避けたいのだけれど。あなたの任期が伸びれば伸びるほど、迷惑をこうむることになるんだから……」

「だったら知らないフリしてろよ」

「どっちにしても、監査のときに目を付けられるだろうから、今問題になるか、後で問題になるかの違いでしかないのよ。残念だけれど」

「笑顔で『残念だけれど』はねーだろ。ちょっとは残念そうな顔をしろ」

「辛いときこそ笑顔が大切なのよ」

「そういうのは自分が辛いときに言え」

「まあ酷い。まるで私がエンジュをいじめてよろこんでるみたいに言うのね」

「その通りだろーが。ったく、何をどうしたらこんな歪んだ性格になるんだ」

「歪んだ鏡に映ると、真っ直ぐなものも歪んで見えるのね。辛いに決まっているじゃない。迷惑かけられるのは私の方なんだから。

 それより大丈夫かしら。黒江くん、さっきから息してないように見えるけれど」

「知らん。心配なら人工呼吸でもしてやれ」

「私が? いいのかしら?」

「嫌がれよ! なんでちょっと嬉しそうなんだよ!」

「あら。だって私、黒江くんのこと好きよ。助けてあげるのに、嫌がる理由なんてないじゃない。でも本当にいいのかしら」

「何がだよ」

「だって私が息を吹くと、吐息が旋風つむじかぜに変わるじゃない?」

「やめろ。ユウマを殺す気か。つうかだったらなんで嬉しそうにしたんだよ」

エンジュがやれっていうから」

「答えになってねえ……」

「あなたがしてあげたら? 人工呼吸」

「は? 嫌に決まってんだろ。誰がするか」

「ふうん、随分冷たいのね」

「大体、大して力こめずに打ったんだ。これくらいで死にやしねーよ」

「衝撃が1メートルくらい後ろにまで抜けていっていた気がするのだけれど」

「本気でやったら内臓が10メートル先まで飛んでる」

「本気かどうかが問題なんじゃなくて、黒江くんにとって致死的かどうかが問題なのよ」

「わかったわかった。じゃあ生きてるか確かめればいいんだろ」

「生きてるか、じゃなくて、生きていることを確かめたいの。それと命に別状がないことを」

「細かいことうるせーな。確かめるよ」

「どうするつもり?」

「まぁ息が止まってるっていうんなら、やっぱ人工呼吸してやるべきだろ。そのためにちょっとこれを借りる」


 エンジュはユウマの懐から携帯電話を取り出した。


「それで?」

「電話をかける」

「ロック、掛かっているんじゃない?」

「知ってるだろ、暗証番号」

「もちろん。たしか同じ学校に通う生徒の誕生日」

「あぁ、なんの数字だよと思ったら、そういうことか」

「知っているのなら聞かないで。それで、どこにかける気?」

「その暗証番号の日に生まれた女」

「電話してどうするの。『お友達の黒江くろえ夕間ゆうまくんが倒れて息をしていないんです。人工呼吸しにすぐ来てください』とでもお願いするの?」

「おう」

「来るわけないじゃない」

「いや、来てくれると思うぞ。見るからに人が好さそうなやつだったから。お前もそう思うだろ?」


 エンジュはそう言って、自分の手から携帯電話を奪い返したユウマに笑いかけた。


「来てくれるわけないだろ」


 ユウマはふくれっ面で答えた。


「来てくれるわけないだろうけど、絶対呼ばないでよ」

「呼ばねーよ。お前が死んだフリとかしなきゃな」

「別に死んだフリしてたわけじゃないんだけど……」

「よかった。黒江くん、無事だったのね」

「紅葉さん僕のこと殺そうとしてましたよね」

「誤解よ。エンジュめられそうになっただけ。私が大切な黒江くんを傷つけるようなことなんてするはずないじゃない」

「倒れ込むところ支えてくれたのはありがとうございました」

「いいのよ。頭を打ちでもしたら大変だから」


 もし「なにが大変なんですか」と聞いたら、「黒江くんの頭までまともに働かなくなったら私が困るじゃない」とでも返ってくるかもしれない、とユウマは思った。


「さて黒江くんも無事に生き返ったことだし、私は帰ることにするわ」

「おー、さっさと帰れ」

「つれないわね。社交辞令でも一応は引き止めるのが礼儀ではなくて?」

「お茶くらい飲んでいってください」

「ありがとう黒江くん。今度二人きりのときにご馳走になるわ」


 紅葉は背中から黒い翼を広げて窓から飛び去ったりはせず、スカートから伸びる黒いタイツに黒いローファーの二本足で、事務所の扉に歩みを向けた。


「そういえば」紅葉は思いついたように振り返った。「知っているかしら。巷で噂の連続殺人事件」

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