喫茶セルパン②
ユウマは息を切らせて走っていた。
大した速さではないがユウマなりには精一杯だった。ただの人間が、エンジュの〝化け物〟みたいな足の速さについていくなんて、無理な話だ。せめて少しでも早く着けるよう、懸命に息を
連絡があったのは
ようやく着いた店の前には、木彫りの看板が出ていた。蛇のような楽器のシルエットの下に、アルファベットで〝SERPENT〟と焼印されてあって、隣には『モーニングサービス/開店~午前11時』と貼り紙が出ている。少し古めかしい、上品な店で、客層も落ち着いた感じの人が多く、ユウマのような高校生くらいの年代にはちょっと入りづらい。通りがかりにそんな印象を抱いていた喫茶店だった。
店に入ろうと扉を開けると、からんころ、とベルが鳴った。
店内は荒れていた。机という机、椅子という椅子は、ひっくり返り、横倒しになり、足が折れているものもあった。テーブルに備え付けてあった物であろう、小瓶や紙ナプキンや銀器類が散乱していた。壁に掛かった棚が傾いて、そこに飾ってあったのか、花瓶や人形が粉々になって落ちている。
その中央ではエンジュが、大男に、足四の字固めをかけていた。
……。
本来、足四の字固めというのは、自分の脚で相手の脚を4の形にロックする技だ。軸足に巻き込むようにして相手の右
大男は苦痛に悶えるしかなかった。脚に抑え込みをするような姿勢になっているエンジュを殴ろうと、上体を起こしかけるが、器用に蹴り返されてしまう。そういう余計なことをすると、エンジュが体を揺さぶって、より激しい痛みに襲われる。
「ギブ! ギブ!」と叫びながら大男は床を叩くが、エンジュは
「放したらまた暴れるだろうが」
「暴れねぇって言ってんだろ!」
「その言い方が信用ならん」
「わかった! わかった! もう暴れません!」
痛い痛いと子供みたいに悲鳴を上げる大男に、エンジュは締めたり緩めたりを繰り返していた。それを呆気にとられたように見ている二人は、店主夫妻だろう。男の方は目を丸くして、女の方は頭痛がするように額に手を当てていた。その気持ちはユウマにもよくわかる。
「エンジュ!」声をかけると、大男の悲鳴が止んだ。
エンジュは技を解くと、寝そべったせいでついたチリを払うように、ヒラヒラの洋服を手で叩いた。その足下で、大男はぐったり横たわっている。
「やっと来たか。おせーよ」
「これでも一生懸命走って来たんだけど……何してたの?」
「こいつが暴れるからよ。お前が来るまで、大人しくさせとかなきゃだろ」
「それにしては……」
ユウマはあらためて店内を見渡した。見るも無残としか言いようのない有様だった。
「抑え込むのに手間取ったんだよ。見た目どおりの馬鹿力だから」
顔には出さなかったが、ユウマは妙に思った。互いに技を受け合うプロレスならともかく、足四の字固めなんかよほど力に差がないとかからない。そんな相手にエンジュが手間取るとは考えづらかったが、ユウマは「なるほど」と返した。
それぞれの話を聞いたところ、経緯は電話で呼ばれたときに聞かされていたのと大筋では変わらなかった。
大入道の八五郎は、うまい酒が欲しかった。いつも仲間内で飲み回している自家製の濁り酒(日本の酒税法では密造にあたる)ではなく、人間の造った清酒を飲みたいと思った。勝手に盗ることは当節では許されないので(多分昔も許されてはいない)、金が要る。金を稼ぐには働かねばならない。そこで洋食喫茶『セルパン』を営む鶴牧夫妻に頼み込んで、雇ってもらうことになった。
接客などもちろんできるはずもないので、鶴牧夫妻は八五郎に倉庫整理のような力仕事を任せることにした。しかし不器用で物覚えが悪く移り気な八五郎は、その仕事もうまくはできなかった。整理するどころか散らかす有様だった。鶴牧夫妻は八五郎を
手際はともかくとして働いたことは働いたのだから労賃を払うべきだというのが八五郎の言い分だった。それに対して鶴牧夫妻(というよりお岸)は、そんな人がましいことはやることをやってから言え、まともな働きもないのに金だけは貰おうなんておこがましい、と突っぱねた。八五郎は激怒し、それに仲蔵が応じた。
「ふーん。そりゃ働かせるだけ働かせておいてお金はあげませんってのは腹立つよな」
「だろ? オレの言うのが道理ってもんだろ?」
と八五郎は鼻息を荒くした。
「でも倉庫ムチャクチャにしておいて金寄越せってのも納得いかないよな」
「こっちが迷惑料払ってもらいたいくらいだよ」
とお岸は
双方三人の話を聞いて、エンジュは腕を組んだ。どちらの言うことにも一理ある。そう言いたげに、眉間に
こうした揉め事を仲裁するのがエンジュの仕事だった。
近年かつてより妖怪だの化け物だのが目撃されることは
それにはいくつかの理由があるが、一つに妖怪たちが人間の振りをして暮らすようになったことが挙げられる。鶴牧夫妻のように店を構えて商売をする妖怪も珍しくはない。人間の暮らしが馴染まない妖怪も、人目に触れないところでひっそりと、酒と宴を楽しんで暮らすようになった。手短に言えば、人間の邪魔をしなくなった。
しかし彼らは人ならざるが故に、人には言えない
そこで、人間の異物を排除しようとする性向が強いことを知っている妖怪たちは、妖怪同士の揉め事は内輪で処理するよう取り決めた。そのためにつくられたのが異形種共同組合──通称『組合』だった。各地に同様の団体があり、人間社会での暮らしを円滑にするため、人ならざるもの全般が組合員になっている。
組合の主な取り組みは組合員の揉め事仲裁だが、一貫した活動の継続や他の組合との
しかしエンジュはこの仕事に向いていなかった。天職というものがあればその反対だと言っていい。組合にもいろいろと
「で、こういうときはどうなんの?」
案の定、エンジュはユウマに水を向けた。
別に呆れたりはしない。ユウマが一緒に来ているのはそのためだ。
「特段の取り決めがない場合は、人間の
ユウマは、エンジュにではなく、鶴牧夫妻と八五郎に向かって言った。三人とも
「じゃあその、人間のルールとやらでは、どうなるんだい」
そう聞いたのがお岸だったので、ユウマは続きを口にしづらくなった。険のある眼差しが怖い。
「えぇまぁ……その、仕事をさせた以上は、お金を払う、ということになってます」
「やった!」
と叫んだのは八五郎だった。
お岸は見るからに不本意そうに目を細め、仲蔵はなんともいえない顔をしている。
「おかしいね。前は仕事もできない役立たずなんて放り出したもんだったけどね」
前っていつだろう。ユウマは
「昔はそうだったかもしれません。今は労働者保護法というのがあって、雇う側の責任が大きくなったんです」
「当節じゃろくな働きがなくても金だけは貰えるってことかい。いい世の中になったもんだね」
「鶴牧さんのような真っ当な経営者にとってはいい迷惑だと思いますが、世の中には悪い人がいて、ちゃんと働いてもお金を払わないということがあるんです。なので、一律で立場の弱い雇われる方を守るようなルールになっていて」
「たまったもんじゃないよ。言われたことすらできるか怪しい飲んだくれの穀潰しを、どうしてもって頼むから、親切心で使ってやったんだ。そんな話だとわかってたら門前払いだよ。ちゃんと働けますって
話のあまりの飛躍ぶりに、ユウマは「はぁ」と曖昧に応じるしかなかった。因果関係の不明なことに「そうだ」とも「そうじゃない」とも言うことはできない。
更にややこしいことに、このやりとりを聞いていた八五郎は、顔を真っ赤にしていた。そりゃ「役立たず」だの「飲んだくれの穀潰し」だの言われて、いい気がするわけがない。
「てめぇ」といきりたった八五郎が、次に「役立たずとはオレのことか」と続けようとしたのか、それとも「そうまで言われちゃ黙ってられねぇ」とでも言おうとしたのかはわからない。次の瞬間にはエンジュからデコピンを食らわされ、八五郎は涙目で頭を抱えるはめになった。
「ばかやろー、お前が怒れた立場か」
ちなみにエンジュのデコピンは
「でもよぅ」
八五郎は
「でもじゃないだろ。鶴牧さんとこの倉庫メチャクチャにしたのは事実なんだから、そこは反省しろよ。それでも給料は払ってくださるって言ってんだから」
目を丸くしたのは八五郎だけではなかった。
「……払ってくださるんですか?」
ユウマの問いに、お岸は「そりゃあねぇ」と嫌そうに応じた。
「何もケチで出し惜しんでるんじゃないんだ。払うのが筋だっていうんなら、きっちり払うよ」
「あ、ありがとうございます!」
「別にあんたに払うわけじゃないよ」
「ごもっともです」
お岸は店の入り口の方へ歩いて行くと、ちゃきんと音を立ててレジを開けた。中から紙幣を何枚か取り出すと、ペンで何やらしたためた茶色の封筒に、それを入れる。
「はい、ご苦労さん。大事に使うんだよ」
『給料』と大書された茶封筒を手渡され、八五郎は子供のように喜んだ。封筒を両手に持ってはにんまりと笑い、明かりに透かしてはまた笑う。
お岸もそれを見ては、仕方ないねとばかりに苦笑していた。
話のわかる人でよかった。ユウマはほっと息をついた。
今回のようにすんなりと話がまとまることばかりではない。取り決めがあるとはいっても、妖怪たちにしてみれば、喜んで守っているわけではないからだ。不承不承に従っているところに、自分に不利な裁定を告げられたら、怒りもするだろう。その怒りを直接的にぶつけられたり一悶着あることも珍しくはない。決まりだからといって素直に言うことを聞いてくれるのは、押し引きを心得た商売人の面目躍如といったところだろうか。お岸のように物分りのいい人ばかりだと助かるんだけど、とユウマはつくづく思う。
「あれだけ無邪気に喜ばれると、怒る気も失せちまうよ」
そう嘆息するお岸は、いかにも人の好さそうなおかみさんだった。きっと日頃はそうなのだろう。いつか客として来てみるのもいいかもしれない。ユウマはそう思った。
「じゃあ僕たちはこの辺で」
エンジュに目配せして、店の出口に向かった。無事に役目を終えた今、長居は無用だ。
「ちょっと待ちなよ。何か忘れてやしないかい」
背中にお岸が呼びかけた。
振り返ると、そこにいるのはさっきまでの人の好さそうなおかみさんではなかった。腕組みをした蛇女が険のある目で冷たく言う。
「この惨状は、誰がどうしてくれるんだい」
店の中は、荒れに荒れていた。
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