第5話 育児の孤独
海斗が生まれてから、七海の世界は一変した。今まで当たり前だったことが、全て変わってしまったのだ。
まず身体の変化に戸惑った。妊娠、出産でお尻は大きくなり今まで履いていたタイトスカートやパンツは膝で止まってしまいそれ以上あがらない。
ショックだったのは、産後も体重があまり減らなかったことだ。産後すぐに体重計に乗った時の衝撃は今でも覚えている。
子どもと胎盤、羊水と重みのあるものは身体から出たはずなのに3キロほどしか減っていない。どっしりと贅肉がついたおなかや太もも、二の腕、二重あご、自分の姿を鏡を見るたびにため息をつくようになった。
また産後のホルモンバランスの乱れや寝不足からか、些細なことでイライラしたり急に悲しくなったり、感情のコントロールが難しくなった。
常に頭はぼーっとして、体は鉛のように重かった。 体と心が自分のものではなくなってしまったかのように制御不能だった。
精神的にも大きな変化があった。
初めての育児は分からないことだらけで、常に不安だった。「ちゃんと育てられているのだろうか」「赤ちゃん 泣き止まない 対処法」など不安なことがあるとスマートフォンで検索ばかりしていた。
今まで当たり前だった外出も、海斗中心の生活になり自由に出かけることができなくなった。
七海は本を読むことが好きだった。図書館で話題の新作を借りたり、喫茶店でジャズの音楽とコーヒーの香りを楽しみながら読書をするのが至福の時だった。
しかし、今は一日中部屋で我が子の泣き声を聞きながら過ごしている。大好きだった図書館や喫茶店も店や周りのお客さんに申し訳ないのでとても連れていけない。
行くのは児童館、必要最低限で済むように週1回のスーパーだけだった。
海斗が泣き止まずに心が折れたときは、泣きじゃくった顔を見せたくなかったのと、何か優しい言葉をかけられたら崩れてしまいそうで誰にも会いたくなくて家にひきこもるようになった。七海は、社会から取り残されたような孤独を感じるようになった。
そして七海にとって一番辛かったのは、夫の春樹との関係が変わったことだった。
実家や友人の前ではイクメンを演じる春樹だが、家では育児に全く協力的ではない。
七海が大変だと訴えても、「母親ってそういうもの」と一蹴されるだけ。まるで壁に向かって話しているようだった。欲しかったのは、労いの言葉や少しの優しさだった。
付き合っていた頃や結婚したばかりの春樹の優しさを求めていた。あの頃は、些細なことでも気遣い、いつも優しく微笑んでくれた。
まるで別人のようになってしまった春樹に、七海は戸惑いを隠せなかった。
ある日、海斗がいつもより長く寝てくれていたので春樹と二人の時間が出来た。
七海は、少しでも以前の関係を取り戻せるかもしれないとかすかな希望を抱きながらソファに座る春樹の横に座った。
そして、そっと手を握った。
「春くん、最近ごめんね…。私も子どもが泣いていたら一生懸命になるのは親として当たり前だと思っているの。でも、寝不足や産後の痛みも収まっていない状態では自分の身体もいっぱいいっぱいで…。毎日、大人と話すこともなく赤ちゃんの泣き声を聞いているとおかしくなりそうなの。だから、こうして海斗が寝ていて静かな時は夫婦二人だった時のように楽しく話をしたりしたいな。」
最近、口調が強かったのがいけなかったのかもしれないと思い七海は少し甘えた口調で言ってみた。
しかし、春樹から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「七海はもう母親になったんだよ。夫婦の頃のような時とか甘えたこと言っていないでもっと母親としての自覚を持って欲しい。」
春樹は、七海の手を振り払ってリビングを出て行ってしまった。まるで冷たい水を頭からかけられたように七海の体は冷え切った。
七海の目から大粒の涙が溢れ出した。
春樹の言葉は、鋭いナイフで心を刺されたように深く深く傷つけた。
いや、ナイフで刺されたという表現では足りない。もっと深く、もっと残酷に、切り刻まれたり抉られたような痛みだった。もし、心の傷を目に見える形で表すことができるのならば、七海の心は血の涙で溢れかえり今にも出血多量で心肺停止になりそうなほど、深く深く傷ついているだろう。息苦しく耐え難かった。
その夜、七海は海斗を寝かしつけてから一人リビングに戻りぼんやりと座っていた。窓の外は暗く静かだった。
昼間の春樹からの言葉が何度も何度頭の中で復唱されていた。「もっと母親としての自覚を持って欲しい」その言葉がまるで呪いのように七海の心を締め付けていた。
今だけでなく、この先もずっとこの孤独を抱えて生きていくのだろうか。まるで暗いトンネルの中に閉じ込められたように出口が見えない。世界から一人取り残されたように深い孤独を感じた。
「私の居場所は、どこにあるんだろう…」
七海は心の中で呟いた。
それは誰に届くこともない悲痛な叫びだった。かつての大好きだった春樹の姿はなく、いつしかこんなにも深い溝ができてしまっていた。
もうあの頃の幸せで楽しかった夫婦としての関係には二度と戻れないのかもしれない。そう思った瞬間、七海の心は深い悲しみに沈んでいった。大切な何かを永遠に失ってしまったような深い喪失感に襲われた。
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