喫茶店『マスカルポーネ』へようこそ
桔梗 浬
曇り空とマスカルポーネ
先ほどから降る雨がガラスを叩き、二人のいる場所からも激しい雨音が聞こえていた。
「雨……ですね」
「雨ですね」
「お客さん、来ませんね」
「そうですねぇ……」
ここは知る人ぞ知るカフェ。こじんまりとした雰囲気の店内、エンヤの優しく美しい音楽が流れる空間が訪れた人を魅了する。
そもそも、廃れた街の片隅にある古民家を改装したカフェに、客が来ることもまれなのだが……。
このカフェは、サイフォンで丁寧に淹れる珈琲が魅力の一つだ。
この店の主である心愛は、このまったりとした時間、空間をとても気に入っていた。
「雨……ですね」
「そうですね……」
まったりするにもほどがある。
「する?」と心愛が退屈をもてあまし、チェス板を取りに立ち上がったその時、入り口の鈴がカラ~ンと鳴り響いた。
「あ、やってます?」
傘もささず、ここまでやってきたのだろうか。現れた男は髪も服も濡れていた。
「いらっしゃいませ! もちろんです。どうぞこちらへ」
店員もどきの
「外は寒かったでしょ? まずは体を暖めてください」
「ありがとうございます……」
男は珈琲を注文すると、カウンターに席をとった。
遠くから来たのだろうか? と思わずにはいられないほど、その体はびっしょりと濡れていた。前髪から雫がポタリと落ちる。その先にある長い睫毛、色白な美肌が羨ましいほど美しい。
「エンヤ……好きなんですか?」
「えぇ、母が生前よく聞いていたので。私も子どもの頃から大好きで」
「僕も大好きです。心が落ち着くっていうか、安らぎますよね」
そう言うと男は珈琲カップを手に取り「懐かしい」と呟いた。
その時、心愛がそっと男の前にティラミスを差し出した。
「あの……良かったら、召し上がってみてください」
「えっ? 僕、持ち合わせもなくて」
「いえいえ、私からのほんの気持ちです」
男は不思議な顔をしていたけれど、「僕、大好物なんです」と言い、ティラミスをパクリと口に運んだ。
一口で男の顔に笑顔が広がる。
「う、うまい。これはマスカルポーネで作ったティラミスですね。美味しいです!」
「良かったです。母から教わったレシピなんです。お口にあって良かった。珈琲にも合いますよね」
「うん、とっても美味しいです」
男はまた一口、ティラミスを口に運ぶ。
「君のお母さん、素敵な方なんでしょうね」
「ありがとうございます。そう言って頂けると母も喜ぶと思います」
「
男はカウンターに飾っている、写真に目を奪われ、そう呟いた。
「えっ? あ、あの、大丈夫ですか?」
そして男はボロボロと涙を流し始めたのだ。
「あぁ、だからお店の名前が『マスカルポーネ』なんですね。そうか、僕は帰ってこれたんだ……」
「あ、あの」
「あ……そうか、僕はあの時」
心愛を見つめる男の瞳が優しさで溢れ、身体が光を帯び始める。
「心美……」
男の体が光に包まれ、泡の様に弾けていく。
「ありがとう。待たせてごめん」
「あ……」
あっという間の出来事だった。
光のショーが終わると、男の姿は消え去っていた。そこには空の珈琲カップと、食べかけのティラミス、そして男が大事そうに持っていたアクセサリーがあった。
「心愛、だ、大丈夫です?」
「えっ?」
琥撤の声が遠くに聞こえる。心愛は初めて自分が泣いていたことに気付いた。
「私、どうしちゃったんだろ? このアクセサリー、母と同じ……。あの人は……」
「きっと、彼は心美さんと心愛に会いに来たのですよ」
「そうか……そうですね、きっとそう。昔母が話してくれたの。若いころに、とても大好きだった人がいたって。その人とは結ばれなかったけれど、本当に大好きだったって。その人は嵐の夜に、ご近所のおばあさんを助けるために家を出て……途中で行方が判らなくなってしまったって寂しそうにそう言っていたわ」
心愛の目に涙が溢れる。
「やっと帰ってこれたってことですよ。心愛のティラミスが心美さんと彼を結びつけた。僕はそう思います」
「そうね。ありがとう……」
いつの間にか雨が上がり、窓の外には曇り空が広がっている。
「雨も上がったのね」
「そうですね」
心愛は男が持っていたアクセサリーを、最期に彼が見ていた母の写真の傍に飾る。
「お帰りなさい……」
ここは知る人ぞ知るカフェ。
癒しを求める者たちが立ち寄る場所。
何かに疲れた時、是非思い出してください。美味しいティラミスと珈琲をご用意して待っています。
ご来店、心よりお待ちしています。
END
喫茶店『マスカルポーネ』へようこそ 桔梗 浬 @hareruya0126
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