冴島佑月について
湊「行ってきまーす!」
お母さん「いってらっしゃい。」
いつものように挨拶を交わし、
自転車にまたがる。
近頃調査を続けている関係で
長距離移動をすることになり、
なまりきっていた体は
時折筋肉痛になった。
部活をしないようになってから
そろそろちょうど1ヶ月経つ。
筋肉は溶けるように失っているので
筋肉痛になるのも当たり前かと苦笑する。
湊「ふっ、ふっ。」
立ち漕ぎしながら
最近また連絡が入っていたことを思い出す。
スマホには定期的に
こち丸やいろはをはじめ
いろいろな人から連絡が入っていた。
同じクラスだった他の友達からは
「大丈夫?」
「何かあったの?」と、
同じ部活だった友達からは
「湊がいないと寂しいよ!」
「バイトで忙しい?いつか少しだけ顔出しなよ。」
「はよこーい!」と、
同じバイト先だった友達や先輩からは
「嫌なことがあったなら聞くよ。」
「みんなでご飯行こう。」
「やめてほしくないけどその時は言って、
盛大にパーティーするから!」と、
うちが無責任に何も言わずに
姿を消したことに怒る人は
1人としておらず、
皆まるで裏で口を揃えているかのように
優しい言葉ばかりかけてくれた。
それらを全てかわし、
なあなあに返事をする。
心配かけてごめん、今度行こう。
早めに復帰するように善処しとく。
そもそも何も言わずに
未読無視をする。
いろはだけは、何かを知っているかのように
「一段落するか気が済むまで
そっちにいればいいと思うよー」と
突き放すようにもしくは
うちの行動を見守るような連絡が入っていた。
湊「……お言葉に甘えて、かな。」
長期滞在についてはお母さんも何も言わない。
周りの優しく、しかし半分放置するような、
生暖かい環境にしがみつく。
もう大人にならなければ
ならない時期なのに、
周りの人の良さに背を預けすぎていて
自分の未熟さが目につく。
けれど、その未熟さも後ろめたさも
今だけは1度おいて調査に集中する。
湊「今日は…ゆうちゃんのお母さん。」
一昨日役所のおじちゃんに聞いたところ、
旧姓は冴島であることがわかっている。
冴島のおばあちゃんの家が
そういえばうちの家からは
少し離れた場所にあったなと思い、
そこに向かって自転車を走らせていた。
高校生に上がる前、
田舎に住んでいる間は
新年になると挨拶回りに行くのが
うちの家の中では当たり前になっていた。
いつもお世話になっている方々をはじめ、
これまで関わったことのある方々にも
挨拶しに行くのだ。
そのうちの1つが冴島さんの家だった。
当時は面倒な慣習だなと
思う時はあったけれど、
今になってそれに感謝する時が来るとは
思ってもいなかった。
今回もそのていで向かうことにし、
お土産を鞄の中に詰めている。
昔はよく挨拶に行っていたが、
いつからかその機会は減ってしまった。
これまで理由はわからなかったが、
深見大輔さんのことを知ったことで
いくらか明らかになったのだ。
°°°°°
里沙『んー…せやなー…親御さんやろ?昔に何か離婚したとか揉めたとか、そう言うんがあったってとは聞いたな。』
湊「離婚で揉めた。」
里沙『そう。やけどほんまだいぶ前やで。やって──』
---
「大輔のやつ不倫されてんやんか。」
湊「…。」
「それから大輔おかしくなってしもて…ほんま可哀想やったわ。」
湊「おかしく。」
「せや。酒癖悪なってもうてん。昼間から酒酒酒。ずぅっと怒鳴り散らしてて、亮としょっちゅう喧嘩するようになってん。」
°°°°°
湊「多分だけど…不倫した前後か、大輔さんが行方不明になった後くらいから挨拶しなくなったとか。」
そのあたりの記憶は正確ではないが、
中学生になってから
挨拶に行った記憶はほぼない。
それも、大輔さんとうちのお父さんが
喧嘩をするようになり、
和やかな関係性じゃなくなったのが
きっかけだとすれば、
記憶とその原因がぴったり合うように思う。
湊「それか……。」
寒空の下、冷たい風で
耳がきんきんに凍えそうになりながら
てんてんとの最初の会話を思い出す。
°°°°°
里沙「うちさぁ。」
湊「うん。」
里沙「湊がこの町でてったん、お母さんが原因かなとか思っててん。」
湊「え?お母さんが?」
里沙「ほら、一時めっちゃ荒れてたやん?荒れてたって言うか、暗ーいって言うか。」
湊「あぁ、ね。でもあれって小学生とかの時じゃない?」
里沙「高学年やったっけ。中学な気がしてたわ。」
湊「中学の頃も…まあ、長引いてはいたかも…?」
里沙「前あんなに明るかったのにってうちのママも言っててな。マジで心配やってん。」
湊「あらやだぁ心配してくれてたのん?」
里沙「そりゃあするやろ。勝手やけど湊の家ってほんま幸せの象徴やなって思っててん。だからあんたのお父さんがおらんようなって、お母さんも暗なってさ。湊、どうなるんやろうって。」
°°°°°
湊「…お母さんが暗いって言ってた時期と合う…?」
時系列はわからないが、
もしかしたら両家の関係が
悪くなったからではなく、
ただ単にお母さんの体調が
悪化していたから
挨拶できなかった…とか。
さまざまな可能性が考えられるが、
そもそも当時お母さんが
「暗かった」と言われるようになってしまう
原因とはなんだったのだろう。
移動しながら考え事をしていると
思っている以上に集中していたようで
あっという間に町の中心街を通り過ぎ
冴島さんの家にたどり着いていた。
アパートや戸建てが
いくつか乱立しているのだが、
全てが木造であるあたり
この一角は時間が
止まっているように見える。
アパートの階段を登る。
鉄製の床がかつん、かつんと鳴る。
昔ながら、表札を
下げたままの玄関が並ぶ。
最近関東ではこのような風景は
見ないなとぼんやり思う。
個人情報だから、一人暮らししている人や
マンション、アパートに住んでいる人は
表札を用意しないことが増えた、と
上京する時不動産屋さんの人に
言われたのを思い出す。
湊「ここだ。」
冴島、と書かれた表札を見つけた。
家の目の前の柵のような手すりには
ビニール傘が数本かけられたままで、
そのどれもが汚れきっている。
何度も雨晒しにさせられているようだった。
扉についた郵便受けは
いっぱいになっているのだろうか、
口が開いたままになっており、
チラシがいくつか顔を覗かせていた。
こんな状態になるまで
放置するなんて。
普通だったら気になって
チラシを家の中に運ぶんじゃないか。
もしかして。
…。
湊「…。」
不意に、嫌な想像が駆け巡る。
もしかして。
…もしかして?
けれど、役所のおじちゃんは
いつだかすれ違ったと言っていたし…。
…てんてんや役所のおじちゃんは
そういえば最近何をしているかは
わからないって言っていたっけ…?
そんな、まさか。
湊「……いや、考えすぎだよ。」
自分にひと言落として、
震えそうな手でインターホンを押す。
…周りが静かな分、
インターホンの音が
四方八方へと広がっていく。
周りの音がしない。
静かすぎる。
眠っていたのかも。
もう1度、1分ほど待ってから
ボタンを押してみる。
虚しく機会音が鳴り響く。
もしかして、本当に…?
いやいや、仕事…とか。
普通に考えて今日は平日だし、
仕事をしているのなら誰もいないのは
当たり前というか。
なら、どうしてチラシは取っていかないの?
…面倒だから、とか。
激務で最近取れなかった、とか。
…最近だけの量ではないと、
半開きになったポストが物語っている。
扉についたポストは
いくらか溜め込んでおけるよう
受け止め箱のようなものが付いている。
そこがチラシで溢れかえるほど
放置されているのだ。
下手すれば数ヶ月…1年単位で
そのままにされているのではなかろうか。
湊「…っ。」
これで最後。
もう一度インターホンを押した時だった。
「なんや何回もピンポンうるさいなぁ。」
そう言って隣の部屋の扉が開いた。
しゃがれたおじいちゃんの声が
金属バットで殴るように
強くうちに向かって発せられた。
木造の家の関係で、
また周囲があまりに静かすぎて
インターホンの音が
響いてしまっていたらしい。
ちゃんちゃんこを身につけた
額に皺の深く刻まれているおじいちゃんは
うちの顔をまじまじとみると
「あぁ!」と嬉しそうに目を細めた。
「なんやぁ高田さんとこのやん。えっと、名前…名前…」
湊「高田湊です。」
「そうそう、湊ちゃんな。おっきなって、成長したなぁ。」
湊「あはは、おかげさまでー。」
勘違いかもしれないが
じろじろと下から上まで
舐めるような視線をするもので、
乾いた笑いをして肩をすくめた。
冴島さんの隣の家のおじいちゃんとは
さほど関わったことはなかったが、
顔を見れば挨拶をしていたので
なんとなくは覚えている。
最後に見た時よりも
さらに皺は増え、腰は曲がっていることから
この人もまた歳を取ったんだと感じる。
「佑月ちゃん…あー…冴島さんのこと探してるんか?」
湊「うん、まぁ…そんな感じです。」
「がはは、そんな感じって濁しよって気持ち悪いわぁ。」
湊「じゃあ探してる!」
「へへ、意地悪したみたいになったやんけ。」
ならどう返事すれば
よかったのだろう、と
身近にはいないパターンの人で
対応がわからないまま口を開く。
湊「そうだ、冴島さんが今どこにいるかってわかります?」
「今男ん家に転がり込んでるで。しばらく帰ってへんからなぁ。」
湊「帰ってないってわかるの?」
「やって帰ってきたらトイレ流す音とかするやろ?ここふっるいから水流す音とか物落とす音ががんがん聞こえんねん。」
そう言って自分の家の扉を
手のひらで力強く叩いた。
ほらな、というかのように
満足げな顔をしている。
「やから最近はここ住んでへんなぁ。たまに音するから戻ってきてんねんけど、すぐ出ていきはる。」
湊「どこにいるかってわかります?」
「あれや、付き合うとる人。結婚したんやったかなぁ。いけすかへんけど多分「いけめん」ってやつやで。ひょろひょろしとるし何がいいんか全く理解できひんけどな。」
湊「へぇ…!どこのあたりに住んでるかとかってお聞きしても?」
「あのあっこや。あっちの方。」
そう言って手すりのある方向へと指差した。
うちの家からはさらに
離れる方向だった。
すぐに寒そうに手をポケットに忍ばせる。
「新しいの家がたくさんあるところや。木造っぽくないとこやったなぁ。」
湊「なるほど。」
「ああいうのがあると町の景観が壊れんねんや。まぁ身の丈がわかっとるんかしっちゃかめっちゃかどこにも建てるんやなくて、場所決めて集まっとる感じやけど。」
湊「そうなんですね!」
「あ、でも高田さん家外れの方に建ててあったやろ?あそこの家も新しめやし、もしかしたら近くの畑潰して家集まるかもなぁ。」
湊「どうだろう…?アクセスは悪目だからそんな感じにはならなさそうじゃないですか?」
「いやいや、最近の人たちは何考えてるかわからへん。急に周りの畑潰すってのはよくあるんやで。」
湊「へぇー。」
「そういや、お前喋り方どないなってんねん。」
湊「喋り方…?あ、方言ってこと?」
「そや!東京行ったんやっけ?もう染まってしもうて。みんな突っ込まへんの?」
湊「友達とかは全然ですよ!」
「そうなんや、オレは別になんとも思わへんけど多いねんで?普通。周りの人とかはテレビ見てる時な、見下してるみたいで腹立たしいもんやって愚痴っててん。」
楽しそうに話しているが、
話がどんどん耳から抜けていく。
そうだ。
うちの周りに優しい人が多いだけで、
町の基準というべきか、
多くはこういった人が多いんだった。
ひとつひとつにネガティブな情報が
盛り込まれているように見えてしまって、
それを噂話程度に
楽しむことができたのなら
うちもこの町に馴染めたのだろうな。
けれど、結局心の底から
楽しいと思う日は来ず、
てんてんや仲良い人と話す時以外は
上部だけ「あーね」「なるほどね」と
話を合わせている日々が
続いていたのを思い出す。
このまま続けても話が逸れる一方なので
「冴島さんのお相手が誰か知ってますか?」
と聞いてみる。
「あぁ、はいはい、急いどるんやな。名前な、あれやで、兄妹んとこの。」
湊「頑張ってなんとか思い出してほしいです!」
「あれや、あれ。」
話を切り上げられたことに
苛立ちを感じたのか、
手すりに手を置き
爪でかつかつ鳴らした。
そして。
「森中って言ってたはずや。」
そう、ひと言言った。
森中…そういえば先輩に
そんな名前の人がいたような。
湊「ありがとうございます!早速行ってみます!」
おじいちゃんの話が続く前に
彼の横を通り抜けて挨拶をする。
不満げだったが「気をつけて」と
お心遣いいただき、
おじいちゃんの声と視線を背中に
自転車を飛ばした。
きっとうちが見えなくなるまで
見送っていたんだろうなと思いながらも
振り返ることは憚られた。
新築っぽい建物が
集まっているところは限りがある。
おじいちゃんが指差していた方向を
頼りにしすぎず探すと、
確かに比較的新しい家々が
立ち並んでいる場所があった。
戸建てが数件集合しており、
ぱっと見ゆーきお姉さんの家の
あるあたりと似た風景が広がる。
いくつかリノベーションをした
家があるのか、
外壁がつやつやしているものや
褪せたような優しい青色で塗り直され
傷が目立たなくなっているものがある。
そのうちの1件。
洋風の真っ白な外壁に
瓦ではない現代的な屋根をした、
比較的新しく建てられた家があった。
色は褪せ、傷は入っているので
数年以内の新築ではなさそうだ。
表札に森中の文字がある。
湊「…よし。」
何故か緊張してしまい
覚悟を決める時間が必要だった。
小さく声を出して、
インターホンを押す。
すると、機械越しに声がすることはなく
途端に玄関のドアが開いた。
「はーい…。」
普段から玄関先に誰がいるのか
確認する習慣がないらしい。
タートルネックのセーターに
ロングスカートを身につけた
髪の長い女性が
気だるげに出てきた。
声は穏やかそうに聞こえるが、
反して怯えているのか
肩を縮めているように見える。
湊「あの、急にお伺いしてすみません。」
佑月「いえ……あ…!」
その時、ようやくうちの顔を見て
気づいたらしい。
目を見開き、うちのことを凝視している。
驚くのも無理はない。
ゆうちゃんのご両親が
離婚したことも知らず、
不倫のことも知らず、
もちろん今日の今日まで
森中さんの家に
転がり込んでいたことも知らないうちが、
過去家族ぐるみで仲が良かった娘の友達が
急に来るなんてびっくりするに決まってる。
成長してもうちの幼い頃の名残があったのか
ぱっと見てすぐに誰かが
わかったみたいだった。
佑月さんは目を泳がせてから
「…久しぶりねえ」と
小さい声で言う。
湊「お久しぶりです。そちらも、お元気そうで良かったです!」
佑月「えっと……なんでここに?」
湊「最近ご挨拶に行けてなかったから、久しぶりに行こうかなと思ったんです。前の家のところに行ったら誰もいなくて…そしたら、近所の人が教えてくれました。」
佑月「あぁ…そうなのねぇ…。」
湊「本当に急にきちゃってごめんなさい。これ、ほんの少しですが。」
佑月「そんなわざわざいいのに。」
湊「だってゆうちゃんにたくさんお世話になってるんで、ゆうちゃんのお母さんにも、と思って。」
佑月「…。」
とんでもない迷惑だと承知している。
離婚して、深見の姓でないのだから
ゆうちゃんのことは
心残りか忘れたいかの
どちらかでしかないと思う。
なんとも思ってないなら、
それはそれでどうでも良かったと
言っているようなものだから、
考えたくはなかった。
普段のうちの考えなら
意図的に傷を抉るようなことはしない。
したくない。
だけど、今うちは
知るためだと言い訳をして傷つけている。
佑月さんの顔が曇る。
「あぁ」と声を漏らした。
佑月「…あの子、元気にしてる?」
湊「…!はい。」
大きな病気とかはしてないです、
と言おうとして口を閉じる。
ゆうちゃんの眠りの件が頭をよぎった。
体調としては元気だけれど、
病気でないかと問われるときっと違う。
けれど佑月さんを心配させたくもなくて
そのひと言だけで音が止まった。
佑月「そう。…なら、いいけど。」
湊「そうだ。いつからこちらに住んでるんですか?」
佑月「数年くらい前から…やね。森中さんとこもバツイチで、娘さんがおってん。」
湊「…!」
佑月「でも、最後まで懐いてくれへんかったわ。もう関東の大学にいってもうたし、ええねんけど。ぽっと出の人間が母親とは思えないのはわかるしな。」
湊「そしたら今はお2人…?」
佑月「そうやね。」
湊「そうなんですね。…お土産、いくつかあるので…よければその方とぜひ。」
佑月「……あの。」
湊「はい。」
佑月「何か、聞いた?」
湊「何かって。」
佑月「詩柚とか、その他の人から、何か。…私のこと、とか。」
湊「ゆうちゃんからは特に何も聞いてないです。」
嘘は言っていない。
これで潜り抜けられるなら
それに越したことはないと思ったが、
佑月さんは訝しむように眉を顰めた。
佑月「他の人は。」
湊「あー……。」
佑月「正直に言ってほしいんやけど。」
湊「…正直にって言うなら…昔、不倫して大輔さんと離婚したって聞きました。」
佑月「…それ、嘘やから困るわ。」
湊「え…?」
佑月さんはうちの渡した紙袋を
くしゃくしゃにしないようになんて考えは
たった今抜け落ちたようで、
力任せに「これ返す」と
うちに押し付けてきた。
ふわりと香水のいい香りが漂った。
佑月「不倫したのは向こうのほうやで!あんなていたらく、離れられて正解やわ。」
湊「え、ちょっと」
佑月「そもそも何があかんかったねんて。なんであんなことしたんやろ。あの人に少しでも希望見出したのが馬鹿やったわ。」
湊「佑月さん落ち着いて。」
佑月「落ち着けへんやろ。何もかも奪ってってんで。今後どうしろって言うねん。勝手におらんようなって清々したけど、もう取り戻すことできひんことばっかりや。私の時間返せやって思い続けるしかないねんで。わかる?」
とんだ地雷だったらしく、
うちらしくなく踏み込んでしまったことに
酷く後悔した。
悲痛な声をしながらも怒り狂っており、
大輔さんが不倫したんだ、
たくさんのものを奪っていったんだと
捲し立てるように言葉を吐き出す。
不倫したのは大輔さんの方って
一体どういうこと?
この前おじちゃんに聞いた時は
逆だったって。
じゃあ、もし大輔さんが不倫した方なら
どうしてその後酒癖が悪くなったの?
自分から悪いことをして、離婚して。
後悔があったの?
その後悔がどうしても消化できずに
お酒に走ってしまったの?
なら何故佑月さんは
別の人の家に住んでいるの?
数年経ったからもう
次の恋に、結婚に入ったって
いいかなって思ったのかな。
感情的になってしまった人を
宥める方法がうまいことわからず、
かといってゆうちゃんをはじめ
友達と接するのとは訳が違うと思い
どうすればいいかあたふたしていると、
背後から若い男性の声した。
「すみませーん。配達でーす。」
そういうと佑月さんははっとして
さっきとは打って変わって
最初のように和やかに返事をし、
家の中からはんこを取って押した。
息を潜めて隣で見守る。
人って相手によってこんなに変わるのかと
息を呑んでしまった。
佑月「配達いつもご苦労さんですー。」
「お話の途中だったみたいなのにすみません。」
佑月「いいえー。もう話は終わったからちょうどやったで。」
湊「…!」
佑月「じゃ、戻るわ。湊ちゃんもお元気で。」
待って、まだ話したいことがあるのに。
そう言って止めようとしたが、
これ以上何を話せばいいのか
頭が真っ白になってしまった。
止める義理もなく
玄関の戸が閉まるのを
見つめるだけしかできなかった。
「ちょうどここの配達で良かったわ。」
湊「え…?」
振り返ると、深々とかぶっていた
帽子をくいっとあげた。
すると、見覚えのある顔が
口角を上げてにこにこと笑っている。
湊「…しんくん?」
慎吾「せや。湊めっちゃ大人っぽくなったなぁ!」
家の近所に住んでいる黒川さん
…ゆーきお姉さんの兄のしんくんが
昔と変わらないような
悪戯っぽい笑顔をしていた。
やんちゃそうなのは変わらないが、
配達員の服を着こなしているからか
彼もまたとても大人っぽく見える。
慎吾「ちょっと移動して話そうや。トラックん横乗るか?」
湊「そうしたいけど自転車できちった。」
慎吾「んなもん後ろ乗せちゃる。
湊「仕事中じゃないの?」
慎吾「そろそろ休憩やから平気や。さ、早よ乗り。」
トラックの中は車内らしい
独特の工業っぽい香りがした。
座高が幾分も高くなったような
気分になりながら、
流れゆく田舎の風景を眺む。
手元のくしゃくしゃになってしまった
紙袋を抱えたまま。
慎吾「さっきは大変なことになってたなぁ。」
湊「あはは…ちょっとね。うちの出す話題がめたんこ悪くて怒らせちゃった。」
慎吾「途中から聞いてたで。話が終わってから配達しようと思ったんやけど、いたたまれんくなって声かけてしもたわ。」
湊「ありがと、どうしたらいいかわかんなかったから助かったよ。」
慎吾「なら良かったわ。」
湊「…。」
慎吾「あの人、まだ不倫のこと引きずってんねやろ?」
湊「え。…あぁ、聞いてたんだったらわかるかぁ…。」
慎吾「まぁな。盗み聞きしたんは悪かった、ごめん。」
湊「ううん!全然…むしろ助けてもらったから、ありがとう。」
しんくんは意外と気遣いやさんなのか
頬をぽりぽりとかき、
またハンドルを手にした。
湊「…しんくんさ、何か佑月さんのことで知ってることない?何でああ言う感じになったのか…とか。」
慎吾「あのヒステリックな感じな。」
湊「昔は怒る人じゃなかった気がするんだよね。ずっと穏やかで、微笑んでる人…みたいな。」
慎吾「…あの人、不倫してないって言うてはったけど、事実佑月さんの方が不倫しててんで。」
湊「…そうなの?なんかこんがらがってきちゃった。」
慎吾「佑月さんが不倫して、大輔さんが不倫された側。それで裁判までもつれてんて。」
湊「揉めたとは聞いたけど、そんな大変なことになってたの?」
慎吾「せや。ほんで離婚が成立してしまって、慰謝料を数百万払ったんやと。」
湊「…数百万。」
慎吾「それでお金なくなって暮らせんくなって、元々不倫してた森中さんところに転がり込んだって感じやな。」
湊「だから色々奪われたって…。」
慎吾「時間と金やろうなぁ。」
裁判にまでなって
正式に慰謝料を払っている。
ならば間違いなく佑月さんが
不倫をした側であって、
役所のおじちゃんが
話してくれたことが正しいのだと思う。
もしかして裏があって、
大輔さん側が不倫していたのを
隠していた…だとか。
誤った裁判の判決で
人生を狂わされて
佑月さんは憤慨しているということも
あり得ない話ではないが…。
湊「大輔さんの周りでさ、離婚後近寄ってた女性の方とかいた?」
慎吾「え?あぁ、佑月さんが不倫されたって言ってたけど、そっちが本当やったんやないかなって思っとるんか。」
湊「ちょっとだけ。」
慎吾「詳しくはないけどなかったと思うで。数百万持っとるって意味ではお金のあるいい条件やったかもしれんけど、すぐにアルコール依存症っぽくなっとったからね。」
湊「あぁ…。」
慎吾「大輔さん、普通に奥さんのこと好きやったんやと思うで。」
湊「…。」
好きだった人に裏切られる。
その後、すぐにお酒に走る。
…そのくらい耐えられないことだったのだろう。
大輔さんの周りで
女性の影は見えなかったとは言っていたが、
もしかしてその数百万を狙われた可能性は
あるのではないか?
それこそ、行方不明になったきっかけが
慰謝料のお金だったのなら。
そのお金を狙って
殺されたのなら…?
慎吾「良かったら行きたいとこか、家まで送るで。」
湊「…。」
慎吾「湊?」
湊「…あぁ、ごめん。じゃあ家までおねがーい!」
慎吾「よっしゃ、任せとき!」
うちのお母さんが「殺した」と言ったのは
ゆうちゃんのお父さんだったりして。
お母さんは大して働いてもいなさそうなのに
病院に通ったり普通に生活したりしている。
もしかしたら。
もしかしたら…。
でも、数百万で何年も
生活できるものだろうか?
スマホを取り出して調べると
2、300万程度らしい。
そのくらいなら、1、2年
長くても3年暮らすので
精一杯じゃないだろうか。
家のローンなどがあるのなら
さらに短いはずだ。
…大輔さんの保険料とかが
あったとしても、
それはお母さんには入ってこない。
そもそも行方不明なのだから
死亡したことには
なっていないのではないか。
すぐにスマホの画面を暗くする。
目に前髪がかかっていた。
ゆうちゃんのお母さんである
佑月さんは生きていた。
生きていたのは安心した。
だけど…。
湊「…。」
割り切れないもので
腹が満たされていくようで、
せめて酔わないようにと
窓の外の田畑と
トラックについたミラーに映る自分を
見続けるしかなかった。
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