第7話 救い

 逃げていてもどうしようもない。俺は外の風にあたり、少し経ってから千春が待つ家に戻った。


 千春に何と言おう。「ごめん」という言葉はこの時、適切なのだろうか。


 はるかとの過去は誰かに謝るようなことではない。確かに同性と付き合うことは一般的とは言えない。


 しかし、同性を愛すことは異性を愛すこととどんな違いがあるというのだろうか。誰かに詫びる必要があることなのだろうか。


 それでも、俺は千春にかける言葉としてそれ以外思い浮かばなかった。


「千春、ごめん」


 俺が謝る前から千春は穏やかな笑顔を見せていた。


「大丈夫。別に何とも思ってないよ。結婚前から知ってたの。それでも私はあなたの一番に選ばれたこと、それが嬉しい。男性も女性も愛せるあなたの一番はとても特別なことだと思うから。だから、私はすごく嬉しいの」


 千春の温かく包み込み声や言葉は、過去を隠そうとした哀れな俺を慰めてくれた。千春は昔からそうだ。


 俺がはるかと別れたあの時も、最低な俺を真正面から受け止めてくれた。


 そんな千春を信じなかった自分を恥ずかしく思った。


◇◇◇


 はるかと別れた俺は毎日起き上がるのも精一杯だった。大学の授業をサボり、寝床で涙を流す日々。


 はるかを忘れようとする努力は、反対にはるかを意識する時間になった。


 はるかと一緒に過ごしたカーペット。一緒に選んだ食器。似合うと褒めてくれた服。一緒に寝たベッド。その全てにはるかの香りが染み付いていた。甘くて心落ち着く香り。


 部屋で寝ていると、はるかが「起きてーご飯できたよ」と揺さぶってくれるんじゃないか。


 「変な夢見ていたんだよ」と泣いている俺を慰めてくれるんじゃないか。


 絶対に叶わない妄想ばかりが頭によぎった。


 そんな時、家のインターホンがなった。はるかが帰ってきたんだと体全体に衝撃が走る。しかし、インターホンのカメラには千春が立っていた。


「はい」


「最近、学校に来てないから。大丈夫かなって」


「うん。大丈夫だよ」


「良かったら……入っていい?」


 俺ははるかのいたこの部屋に、別の女性を入れるのを躊躇った。しかし、もし別の誰かと付き合えば、はるかを忘れることができるかもしれない。


 俺は最低な考えと一緒に、千春を部屋へ招き入れた。


 千春とは高校の時からの友達だ。とはいえ、高校時代はほとんど話したことはなく、同じ大学に入ったことさえも何となく知っている程度だった。


 大学内で見つけても、進んで話しかけるほど興味は湧かず、全くと言って意識していなかった。


 しかし、千春がストーカー被害を受けていると知り、助けてあげなければと思った。


 母が若い頃、ストーカー被害に遭い、心を病んでいたと知っていたからだ。


 当時の母も大学生。誰にも相談できず、相談した警察も頼りにはならなかったようだ。実家へ帰り、大学を休学。そんな時に実家近くに住む父と出会ったらしい。


 母の悲しい過去と千春が重なり、俺は千春を毎日送迎した。


 最初は、はるかが気にするかもと心配したが、むしろ俺の行いを正しいと褒めてくれた。


 大学内で付き合ってると嘘の噂が流れていることを話すと、はるかは赤い頬を膨らませた。可愛い嫉妬姿を見れたことも人助けのご褒美となった。


 千春がお兄さんの家に引っ越してからは、以前と同様にあまり話さない関係に戻っていた。


 突然の訪問に驚きはしたが、自信過剰にも俺は彼女が自分に気があると気づいていたため、そこまで大きな動揺はなかった。


 はるかと別れてから人間的な生活は送っていない。ゴミが散乱した部屋は、俺の心の荒れっぷりを物語っていた。


 千春はそんな部屋を見てショックを受けているようだ。それでも、どうしてこうなったのかと理由を聞いてこない。


「こんな汚い部屋にいたら病気になっちゃうよ。さぁ。一緒に片付けよう。ね?」


 千春はゴミを拾いながら、ずっと鼻を啜っていた。もしかして泣いてるのか? 俺のほうに向けるのは後ろ姿ばかりで、本当に泣いているかはわからない。


 あぁなんか情けないなと思って、俺も涙が出た。ある程度、片付いたところで千春は俺にこう言った。


「しんどい時は私に言って。頼ってもらえたらだけど、私は勇気のためなら何でもできるから」


 俺は思わず千春に抱きついた。千春を好きだと感じたからではない。誰でも良かった。はるかがいないこの寂しさを、この虚しさを、別の誰かで埋めたかったから。誰かの人肌で温めてほしかったから。


 千春は嫌がることなく、俺の頭を優しく撫でる。「大丈夫。大丈夫」と言われているような気がした。


 それから程なくして、千春と俺は付き合うことになった。はるかを忘れたい。そんな最低な気持ちで付き合い始めたが、決して千春が好きじゃなかった訳ではない。


 千春は尽くしてくれたし、俺好みのファッションやメイク、ヘアスタイルと常に俺に好かれる努力をしていた。それを見ているとやっぱり、可愛いな、良い子だなと思う。


 こういう穏やかで落ち着いた恋愛も悪くない。


 それでも、はるかを忘れることは簡単じゃない。常に頭の端っこのほうに、はるかとの思い出が見え隠れしていた。


 「はるかを思い出すな」という意識がはるかを思い出させるスイッチになっていた。


 そして、俺は未練たらしくはるかを思い出すたびに胸が締め付けられた。はるかと付き合っていた時に感じた心地良い締め付けではない。


 もう側にはいないという苦しみ、悲しみ、辛さ。それを感じる度に「忘れろ。忘れろ」と唱えるように耐えた。


 そんな俺を見ても、千春は決して優しい目線を外さなかった。好きな人が他の人を想って苦しんでいる姿、どう考えても辛いはずだ。


 それでも千春は目を背けることなく、ずっと俺を見つめてくれた。それが俺にとって救いだった。


 ある日、千春の隣で昼寝をしている時、はるかの夢を見た。笑顔のはるかが手を振って遠くへ行く。我ながらベタな夢だが、俺は自分で思う以上に泣いていたらしい。


 千春が心配した様子で、俺の肩を揺さぶった。枕にしていたクッションはぐっしょり濡れている。起き上がり千春を見ると、彼女も泣いていた。


 ストーカー事件以来、俺に初めて見せた涙だった。


「勇気。前の恋人のこと、すぐに忘れなくていいんだよ。私はそれでもいい。私が側でずっと支えるから。無理に忘れようとしないで。これじゃ勇気がもっと辛くなっちゃう」


 きっと自分も俺と同じくらい、いや、それ以上に辛いはずだ。


 それなのに、千春は俺のためにずっと耐えてくれていた。これからも耐えてくれようとしている。


 俺は何やってるんだ! こんな優しい子を利用しようとしていたのか! なんてクズ男なんだ!


 申し訳なさと共に、千春への新しい感情が溢れ出てくる。


 ごめんな。ごめんな、千春。俺は千春の言う通り、はるかを無理に忘れようとするのをやめた。その代わりに、千春と真正面から向き合おう。


 時間が経つにつれ、俺ははるかを思い出さなくなった。というか、思い出しても辛くなくなった。


 俺の隣には千春がいる。それが一番幸せなことだから。


◇◇◇


「ありがとう、千春。俺はまた千春に助けられたよ。愛してる」


「私もよ。これからはお腹の子どもにも一緒に私たちの幸せな家庭を築きましょう」


お腹がぽっこり大きくなった千春を抱きしめて、俺は今の幸せを噛み締めた。

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