第3話 はるかの真実

◇◇◇


勇気へ


 お返事ありがとう。確かに回りくどい言い方だったね。

 じゃあ結論から言います。


 過去の交際を奥さんに知られたくなかったら、五千万円用意してください。


 久しぶりの連絡でこんな要求は理不尽だと思うけど、それでもあなたに頼むしかないのです。


 奥さんのお腹に子どもがいることも知っています。大切な時期にあんな過去がバレることの意味をよく考えてください。


 お金は郵送で送ってください。待っています。


福見はるか


◇◇◇


「はるかさん、勇気と別れてください」


 勇気のお母さんは朗らかな顔立ちで、見るからに優しい人。それでもこの時だけは汚いものを見るような険しい表情をしていた。


 僕が男じゃなかったら受け入れてもらえたのかな。



 5歳の時に父親を交通事故で亡くし、母親は酒乱になった。事故に遭った車の中に不倫相手が同乗していたからだ。


 父は僕らに一銭も残さず、むしろ借金までして女に貢いでいた。そんな父を憎み、母は酒に頼るしかなかったんだと思う。


 朝から晩まで酒を飲み、子どもにあたる。母のヒステリーな金切り声は大人になった今でも耳について離れない。


 夜中に酒が切れたと大暴れしたこともある。親戚が用意した父の仏壇に酒の缶や瓶をぶつけながら罵る。1歳年下の妹が怖がって大泣きしても遺影で笑う父への暴言を辞めることはなかった。


 不倫相手は重傷を負ったものの、数ヶ月後に回復し、一度仏壇に線香をあげたいと訪ねてきた。


 えらく図々しい女で母を見るなり「こんな人が奥さんだったなんて……義人さん可哀想」と呟いた。母はこの言葉を聞き逃さずにその場は修羅場と化した。


 僕は母も不倫相手もどちらも哀れに見えた。


 元から男に憧れを抱くほうだったけど、母と不倫相手の影響でさらに女が苦手になった。


 僕は見た目が女っぽいせいで、小学生の時に男子の間で流行った「キスごっこ」という残酷な遊びの固定キャラにされていた。


 まずジャンケンやトランプで男子達が勝負する。負けが決まると罰ゲーム的にキスごっこが始まる。みんなが僕を取り囲み、負けた男子とキスをさせるのだ。


 僕とのキスが罰の扱いというのに深く傷つきはした。だけど、一方で男とのキスは自分にとって違和感がないと不思議な感覚があったのも確かだ。


 15歳で初めて彼氏ができた時、自分は同性しか愛せないとハッキリ自覚した。


 高校生になると、母の酒乱はさらに加速した。父への怒りは収まったけど、その矛先が妹の咲へ向いたのだ。咲は父に顔が似ていた、ただそれだけの理由だった。


 僕の前ではグチグチ嫌味を言うくらい。注意すると母はシュンと小さくなっていたから、そこまで心配していなかった。考えが甘かったと知ったのは、高校1年生の夏のことだ。


 咲は夏になっても長袖を着続ける。制服まで長袖ブラウス。最初は日焼けを避けた行為だと勝手に思い込んでいた。


 ある夜、SNSで「親に虐待されてるから長袖必須」という呟きを目にするまでは。


「ねぇ、咲。咲ってどうしていつも長袖なの?お兄ちゃんがバイト代で可愛い半袖Tシャツを買ってあげるよ」


「いらない」


「どうして?」


「別に。何でもいいじゃん」


「ダメだよ。見せて」


 僕は嫌がる咲の手をゆっくり握って長袖を肘まで捲り上げた。痛々しい紫色のアザが点々と広がっている。


 それを見た衝撃で肺がうまく空気を吸わず、呼吸が荒くなった。


「お母さんが?」


 咲はコクリと頷く。


「ごめんね。全然気づかなくて」


 僕は高校を辞めて、咲と共に家を出ることにした。意外だったのは母の反応だ。


 「お前らなんてどっかに行け」そう言われると思っていたのに、母は僕のことを我が娘を攫う凶悪犯を見る目で睨みつけた。


「出て行くならあんただけにして! 咲はまだ子どもなの! 母親の私が見てやらなきゃいけないの!」


 じゃあどうして暴力や暴言を吐くの? 自分勝手過ぎる。どうせ自分の世話役として側に置くつもりだろう。母は咲を傷付け、解放もしてくれないと言うのか。


 僕は初めて人を殴った。咲から汚いものを引き剥がすように、握った拳を強く強く振り下ろす。


「やめて! やめて! お兄ちゃん!」


咲の声で我に返った。


「ここまで育ててきてやったのに。なんて仕打ちよ! あんたもお父さんと同じようにお母さんを傷つけて楽しいのか!」


 ヒステリックに泣いている母を放って、咲と荷物を持って外へ出た。土地勘のない場所へ行くのには不安があったけど、とにかく遠くの土地を目指した。西へ西へ。


 辿り着いたのが京都だった。


 ここなら父の事故を知る人も、酒乱の母の噂をする人も、妹に手を上げる身勝手な母もいない。それに、東京とは違って家賃も安く住むことができた。


 とはいえ、高校中退の学がない僕には働く選択肢が少なかった。生まれつき力が弱く、体力仕事では足を引っ張った。


 中学生の妹を不自由なく育てるために、僕は夜の世界に足を踏み入れた。


 幸い女っぽい顔立ちのおかげで店は決まったけど、未成年を雇う夜の店なんて、ろくな場所ではない。いいように使われてなかなか思うように咲の学費を貯金できなかった。


 そんな時、困っている僕に声をかけたのが売り専、つまりゲイ専門風俗のオーナーだった。


 咲は頭が良かった。僕とは違って賢い。それを生い立ちのせいで潰すことはできない。生い立ちを理由に苦しむのは僕だけで良い。


 必死に貯金をして咲を高校へ通わせ、そして大学へも入れた。


 咲が大学の寮へ入って以降、休日は家で一人きり。無音の部屋にいると、考えたくない現実ばかりが脳裏によぎった。苦しかった。


 だから、考える隙を与えないようにナイトクラブで爆音の音楽を聴いた。


 悪い奴しか寄ってこないこの世界で友達なんていない。いらない。それなのに、勇気は僕の目の前に現れた。


「キョートミラージュ」


 四条烏丸にある大きめのナイトクラブ。京都という土地柄、大学生や留学生が多い。ホールの真ん中で大声で騒ぐ人、隅の方には初対面なのに絡み合う男女、VIP席に入れろと騒ぐ輩もいる。


 僕はそれぞれの人間観察をするために、少し離れたやけに高い椅子に座った。いろんな人がいると思えば、何となく心がスッと楽になる。


 ぼぉ〜っと人間模様を観察していると、同じくやけに高い椅子にオドオドした男が座った。これが勇気だ。


 勇気は「ナイトクラブに初めてきました」という感じで落ち着きのない様子。その動きが小動物のように見え、クスッと笑ってしまう。


 すると、見るからにヤバそうな大男からカクテルを手渡され、躊躇なく飲もうと肘を上げていた。


 夜の街は危ない。良い人っぽい人はいても、本当に良い人は少ない。ラムネやキャンディと偽って薬を盛られることも珍しくはない。


 それでも、最近はSNS上の注意喚起のおかげか大胆に薬を盛る人は減ってきたと思う。やっても隠れてコソッとやる。当然疑われるからだ。


 それなのに、勇気はスーパーの試飲並みに気軽にカクテルに口をつけようとしている。僕は咄嗟に声が出た。


「待って。それは飲んじゃいけない」


 僕は大男を無視して、勇気の腕を引っ張った。


 勇気は危険な場所から引っ張り出してもなお、カクテルの本当の意味を知らずに不機嫌な顔を見せた。口をアヒルのようにグッと瞑り、右の眉をくいっと上げる。


 薬を盛る手口だと説明すると、え! とマヌケな顔で驚いた。それがまたあどけなくて笑える。気がついたら、僕から飲みに誘っていた。放っておけない、お節介なのか。側にいたい、すでにそう感じていたのか。


 勇気は人懐っこい性格で、僕とは真逆の人間だった。純真という言葉が似合う、汚れのない人間。愛されて育ってきたことがすぐにわかる。


 親から愛されたことのない、汚れた自分とは住む世界が違う。それでも、そう自覚していても、一緒にいたいと思ってしまった。


 それに、勇気も何となく自分を欲してくれているんじゃないか。確信はなくとも、そう感じる部分があったから。


 交際がスタートしてからは毎日が幸せに満ちていた。ただ、これまでに付き合ってきた男性と勇気は全く違った。


 元カレはみんな家庭環境が複雑で、何かしらの不満や闇を抱えていた。僕も同じだからこそ、類は友を呼ぶ感覚で慰め合う恋愛をした。


 でも、勇気は違う。勇気は愛する父を亡くし、母とも良好な関係を築いている。そのなかに僕なんかが入っていいのだろうか。


 勇気との交際が本格的になればなるほど、苦しくなる。その一方で、勇気なしでは生きられないほどに愛が深まっていく。


 将来はヨーロッパをまわって気に入った国に住もう。勇気のその言葉を実現したい自分がいた。


 付き合いが一年を過ぎた頃、勇気からお母さんに会ってほしいと言われた。勇気が言うにはお母さんは同性愛に関しても寛容で理解ある人らしい。それは良かったと少しホッとするも、それでもまだ不安は消えない。


 とにかく、勇気の言葉を信じるしかない。


 会ってみて納得した。お母さんは勇気の言う通り、優しく僕を迎えてくれた。男の僕が息子の恋人と知っても、嫌味を言うこともなく、差別することもなく、自然に声をかける。


 明るい笑顔と温かく包み込む姿を見ると、これが本来の母の姿なのだと感動した。息子の意思を尊重する理解ある母。あの日まではそう信じ切っていた。そう。あの日までは。


 レストランの仕事帰り、店の前に勇気のお母さんが立っていた。彼女の表情には笑みがなく、ただただ悲しく会釈する。以前とはまるで別人だ。僕は全てを察した。


 近くの喫茶店に入り、ホットコーヒーを頼む。シンとした無言が緊張感を高める。そこに冷たい一言が突き刺さった。


「あの子と別れてください」


 何となく想像していたものの、実際に言われると刃物で刺されるようなズキッとした痛みが体全体に走った。


「それはできません」


 自分でも驚くほどに自然と言葉が出た。別れるのが嫌なのではない。別れることができない。僕が自ら勇気の手を離すことはできない。そのくらい、勇気を愛していたからだ。


「今は本来のあの子ではありません。息子は女性が好きな普通の子なんです。でも、勇気はすごい優しい子だから」


 僕も感じたことはある。勇気は僕に同情して付き合っているのではないかと。


 だから、この一年間確かめ続けた。その証が今にある。今の僕は勇気に心から愛されていると確信している。


「勇気さんは確かに優しい人です。でも、同情心で僕と交際している訳ではありません。勇気さんは僕をパートナーとして心から愛してくれています」


「違う!それは若いからよ!だから過ちに気づかないの!」


 僕の心臓がドキッと高く鳴った。自分の母と同じ、甲高い声。やはり母というものは子どもを思い通りに操りたい生き物なのか。


 勇気のお母さんはハッとした表情を見せ、冷静に戻る。それもまた偽りの顔だ。勇気には良い顔をして、僕を勇気から引き離そうとする。


「大きな声を出してごめんなさい。はるかさんにも勇気の将来を考えてほしいの。何年も先の将来を。嫌なことを言うけど、私はあなたたちの交際を間違いだと思う」


「では、どうしてあの日は優しくしてくれたんですか? それに、なぜ今ここに勇気さんを呼ばないのですか?」


 僕は畳み掛けるように、勇気のお母さんへ問う。


「それは……勇気は私たちが大切に育ててきた一人息子だから。私にはあの子しかいない。勝手だと思うけど、私はあの子に嫌われたくないのよ。はるかさんには本当に申し訳ないけど、勇気の幸せを願うなら静かに身をひいてください。勇気はこれから普通の家庭を持って子どもを授かって。そんな幸せが待っているはずよ。親なら安全な道を選んでほしい、誰でもそう思うわ。ごめんなさい。哀れな親心をわかってほしい」


 涙を流しながら懇願する彼女に、僕は何の言葉も出なかった。僕と勇気では幸せになれないと言われているようで、心が抉られる。


 返す言葉のないままに僕は頭を下げ、財布からコーヒー代を置いて喫茶店から出た。


 このことは勇気には黙っていよう。子どもを縛り付けようとする母親は最低だと思う。それでも、勇気はこの事実を知らず、お母さんを大切に思っている。


 もし今日の出来事を話したら、勇気はお母さんを嫌いになるかもしれない。大切なたった一人の家族を失わせるかもしれない。


 このまま僕らの幸せな姿をお母さんに見てもらえば、きっといつかは認めてくれるはずだ。だから、諦めずに勇気を愛し続けよう。


 お母さんが認めてくれるほどに二人で幸せになろう。そう自分に誓ったのに。


 それなのに。あんなことまでされたら……勇気、ごめんね。僕はもう別れを選ぶしかなかったんだ。

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