第40話 王女の信念
深い闇に包まれた宮廷街で、エステル邸だけが青白い光に照らされていた。
アイリスの結界は、月明かりを受けて美しく輝きながら、屋敷を静かに守り続けている。その光の向こうには、無数の松明が揺らめいていた。
「いまだ変化なし、ですか」
執務室の窓辺で、エステルは街の方角を見つめる。リリアが出発してからまだ半日も経っていないというのに、時間の流れは異様に遅く感じられた。
「はい」侍女長のセリナが静かに答える。
「ヴィクター様の軍勢は、さらに増えているようです」
最前線には魔術師たちが新たに配置されていた。彼らは屋敷を取り囲むように術式を展開している。その数は、ゆうに十を超えていた。
(父上は、いつも仰っていました。王とは民のためにある、と)
エステルは心の中で、その言葉を反芻する。
結界の輝きに、ふと歪みが走った。
波打つように揺らめく光の壁に、魔術師たちが放つ術式が次々と打ち付けられる。その衝撃は、最初こそ軽やかに弾かれていたものの、今では確実に影響を及ぼし始めていた。
「このまま持ちこたえられるでしょうか」セリナの声には不安が滲む。
エステルは黙って窓の外を見つめる。
さすがのアイリスの結界にも、限界が見え始めていた。魔術師たちによる飽くなき解除の術に、青い光の壁がゆらゆらと揺らめき始める。
「結界が破られても、私は決して諦めません」
その声には強い意志が宿っていた。民を第一に考えること。それは父から受け継いだ、王としての責務。
*
日が変わっても、魔術師たちの詠唱が、あたりの空気を震わせていた。
魔術師たちは交代で結界に対し呪文を唱え続けていた。
やがて、結界に新たな歪みが走る。
「エステル様、このままでは」
「分かっています」セリナの不安に満ちた声に、エステルは静かに頷く。
「でも、ここで諦めるわけにはいきません」
民のため。国のため。そして何より、父の教えを守るため。
さらに半日が経つと、結界の揺らぎは限界に近付いていた。
アイリスの魔術も、数による解除の術には抗いきれない。青白い光の壁に、大きな歪みが広がっていく。
結界の一部が、まるでガラスが砕けるように崩れ落ちる。続いて、光の壁全体が波打ち始めた。
「エステル様」セリナが声を上げる。
それでも、エステルの瞳に迷いはなかった。
魔術師たちの術式が結界を蝕んでいく中、彼女は執務机に向かい、一通の書状をしたためる。
ヴィクターへの親書。実の兄への、最後の呼びかけ。
「私は、ここで踏みとどまります」
エステルの声が響く。
「たとえ結界が破られても、たとえ兵に囲まれても。王は民のためにある、その想いだけは、決して曲げません」
青白い結界が、大きく揺らめく。
夜明けの光が差し込み始めた空の下、エステルはヴィクターへの書状を巻き上げる。一瞬の迷いもない手つきで、王家の印を押す。
「父上の教えは、この胸に。民を護るという想いは、誰にも奪えない」
純粋な想いは、決して曲がることはない。
たとえ結界が砕け散ろうとも――。
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