4. 栃木県日光市の黒瑪瑙鰻-12
「次の料理は黒瑪瑙鰻の水晶仕立てだ」
貝塚はそう言いながら三日月型の灰色の皿をテーブルに置く。
皿の表面は若干の茶色を帯びた黄色味と共に釉薬の模様が浮かび、まるで夜空に輝く三日月のようだった。
釉薬の模様と共に細かなひび割れのような線が走り、月面のクレーターを思わせる陰影が照明の光の下で揺らめいていた。
皿の上には黒い小ぶりな塊が3つ整然と並び、その表面はゼリー状のもので覆われてツヤツヤと輝き、まるでガラス細工のように繊細な光沢を放っていた。
塊から反射した光が皿の上でほのかに揺らめき、博物館に展示されているような神秘的な奮起を漂わせている。
光の角度が変わるたび黒い塊の輝きは表情を変え、まるで計算され尽くしたカットを施された宝石のようだった。
黒い塊には薄茶色で透明なとろみのあるソースが優雅に流れ落ちており、加えてそれぞれに赤・緑・茶色の小さな塊が宝石の飾りのようにちょこんと乗っていた。
流れ落ちたソースは黒い塊の下で薄く広がり、大切な宝石を傷つけぬように敷かれたシートのようにも見えた。
貝塚の説明を踏まえれば、この塊は黒瑪瑙鰻の切り身を更に小さくカットしたものになる。
ただ先程の白焼きとは違い表面に艷やかなゼリー質が加わったことで、まるで磨き上げられた宝石が皿に乗っているようにしか見えなかった。
光が当たるたび黒い塊の表面が微妙に色を変え、見るものを魅了する。
その色合いはただの黒ではなく、光と混じり合って複雑な彩りを放っていた。
まるで子供のおままごとで出される玩具の料理を、贅沢な素材と技工で豪華に仕上げたかのようだった。
黒瑪瑙鰻の身が黒いからこそゼリーの透明さと対比が生まれ、全体の異質さが強調されている。
これを鰻料理と見なす人間は少ないだろう。
皿の縁からはほのかにかつお節の香りが漂い、視覚だけではなく嗅覚までも刺激してくる。
その香りは温かく、どこか懐かしさを感じさせながら、鼻先にそっと触れるように広がっていった。
「黒瑪瑙鰻の皮を剥いで片栗粉をまぶした後、昆布出汁で茹でたものだ。脂の乗った腹回りの身を使ってるぞ。これにかつお節の出汁を煮詰めて、葛粉でとろみをつけたタレをかけた。鰻の上に乗っているのは薬味で、左から梅肉、わさび、大葉や砂糖を混ぜ込んだ味噌になる」
貝塚の説明を聞いて、フラニスは眉を寄せ顔をしかめた。
説明を聞く限りではまともな料理であり、食べられることは既に理解している。
それでもなお、箸を伸ばす手が躊躇われるほどの奇抜な見た目だった。
フラニスの指先は箸を握りながら一瞬震えた。
もしこの料理の塊が水晶鱧のように白い色合いだったならば、誰もが普通の日本料理として受け入れるだろう。
だが、色が黒に変わるだけでここまで印象が変わることを、フラニスは身をもって体験させられていた。
料理は見た目でも味わうという言葉が脳裏をよぎるが、その観点からすればこの料理の評価は最悪に近い。
皿の周囲に漂う出汁の香りとは裏腹に、視覚的な違和感が心に重くのしかかっていた。
その違和感はまるで得体のしれない工芸品を前にしたかのような感覚で、フラニスの胸に期待よりも微かな不安を植え付けていた。
「さっきの珍妙なスープに続いて、変わった見た目の料理を出してきたな。最初の煮凝りといい、そういう趣旨か?」
「コースの序中盤だからな。多少は変化があった方がいいだろ?日本料理だからって伝統的な盛り付けしか許されないわけでもない」
フラニスの言葉を聞いた貝塚は、やれやれと肩をすくめる。
その様子から、料理をわざとこのような見た目に仕上げたことは一目瞭然だった。
「そうか。まあ、今更お前に言っても無駄か...」
フラニスはそれ以上の言及を諦め、梅肉が乗った黒い塊を箸でつまむ。
水晶仕立てという名前の通り、表面がゼリーのようにツルツルとしており、文字通り滑り込むように口に入ってくる。
昆布出汁でぎりぎりの柔らかさまで煮込まれた身は、皮がないこともあってこれ以上ないほどフワフワで、舌で軽く押すだけでホロホロと崩れていく。
その崩れる瞬間、脂の乗った腹回りの身から染み出す甘みとコクが口内に広がり、微かな昆布の香りが鼻腔を抜けた。
アメリカ式の半日かけて火を通したブリスケット、いわゆるバーベキュー料理では、牛肉であるにもかかわらず指で押すだけで肉が崩れ、飲むように食べることができる。
この水晶仕立てはそれ以上に柔らかく身がほどけていき、わずかに繊維質のような舌触りが残っているだけだった。
「最初の煮凝りに近い食感だが、皮がない分こちらの方が軽い食べ応えだな。白焼きと違って腹回りの身を使っている分、脂のコクと甘みの主張が強い。餡や薬味をかけているのは脂に対抗するためか。不味くはないというか、分かりやすく美味い料理ではあるが...」
「味はまさに日本料理という感じですね。魚介類に昆布出汁。かつお出汁を煮詰めた餡。そして薬味も梅・わさび・味噌。美味しくないわけない組み合わせです。白焼きと違って香ばしさはないものの、代わりにかつお出汁のよい香りに包まれています。食べるのが艶のある黒い物体というのは違和感ありますけど...」
フラニスと柿本は料理を味わうが、どこか腑に落ちないような表情をしている。
黒い宝石に見えるものを口にするのは誰しも抵抗がある。
しかし、味自体は極めて伝統的な日本料理。
そのギャップを含めて味わう料理なのだろうが、説明があっても手を出すのに勇気が求められる。
良く言えば見た目や新しい体験を楽しめる料理だが、悪く言えば最初の料理でフラニスが述べたように性格の悪い料理だった。
2人が釈然としない表情を浮かべていると、いつの間にか席を離れていた貝塚が料理を乗せたワゴンを運んできた。
ワゴンの上段と中段には覆いが被せられていて、何が乗っているのかは分からない。
貝塚は中段の覆いをサッと外し、中にあった黒い塗椀を2人の前に置いた。
漆で黒く塗られた吸物椀には金の蔦の蒔絵が施されており、照明の光りに照らされてキラキラと輝いていた。
蓋の表面では蔦の葉が風に揺れるような繊細な模様が浮かび上がり、高級感を漂わせている。
「黒瑪瑙鰻の真薯だ。といっても、生の鰻を擦り下ろして作ったわけじゃない。鰻の身をミキサーにかけてから、山芋と葛粉、卵白で固めた真薯もどきだと思ってくれ。炙った鰻の骨の出汁を煮詰め、葛粉でとろみをつけた餡をかけている」
2人が塗椀の蓋を開けると、塗椀の内側の鮮やかな朱色が目を引いた。
同時に、鰻の出汁を濃くしたような深みのある香りが立ち上り鼻腔をくすぐる。
この鮮烈な香りの強さは先程のスープと同じように、蓋で香りを閉じ込めておいた効果だった。
香りの良い料理はそれだけで食べる者の心を動かす。
空腹でない者だとしても、否が応でも料理への興味が駆り立てられるだろう。
椀の中には豆腐のような直方体が据えられていた。
白と黒が混じったまだら模様のそれの上には、四角くカットされた海老と、バジルのような鮮やかな緑色の葉が数枚乗っている。
塗椀の内側の朱、白と黒のまだら模様、そして海老のピンクと葉の緑の彩りが華やかだ。
椀の中を眺めながらフラニスは呟く。
「今までがアレな見た目ばかりだったせいで、まともな料理に見え始めてきた...」
どうやら今回のコース料理は、異世界の神の精神に何らかの影響を与えたようだ。
首を振って何かをふるい落とそうとするフラニスを尻目に、柿本は塗椀を両手で持ち上げて中身をまじまじと見る。
「真薯は豆腐のような綺麗な形をしていますから、恐らく直方体の型に入れて蒸したんですね。でも、この緑の葉は何でしょうか。どこかで見たような...」
緑の葉は一見すると小さなバジルのようだが、葉脈が渦を巻いて複雑な模様を描いており、一目で別物だと分かる。
「それはケンタウロス国産のアンドビナの葉だ」
「あっ、思い出しました!市場で見かけたハーブですね。早速使ってみたわけですか」
柿本はニーデンに市場を案内された時のことを思い出す。
色々な食材を紹介してくれたが、その中にこのアンドビナの葉も含まれていた。
国内では一般的なハーブだと言っていたので、街で別れた後に彼もこれを使った料理を食べたりしたかもしれない。
「食感は固めの豆腐だが、味は確かに鰻だな。フワフワとした食感の料理が多かっただけに新鮮味がある。かかっている餡の旨味に加えて、塩ゆでにされた海老もプリプリした食感が良い。この緑の葉は...胡椒とレモンを混ぜたような味だ。ピリッとした刺激の後に、鼻を抜ける爽やかな香りがする」
思い出に浸る柿本を他所に、フラニスは真薯もどきに手を付けていた。
そして、齧った跡の残るアンドビナの葉をつまみ、目の間に持ち上げ眺める。
「このハーブ、噛まないと香りが出ないのか。葉っぱを丸ごと乗せたのは盛り付けに加えて、香りが出るタイミングを調整するためだな」
フラニスの問いかけとも言えないような言葉に対し、貝塚は腕を組んだまま答える。
「正解だ。山椒でも良かったんだが、せっかく地元のハーブが手に入ったんだから使ってみた」
「出汁の香りだけでは一本調子だからな。変化があっていい。刻んでしまうと蓋を開けた時に出汁の香りの邪魔をすることを考えれば、やはりそのまま乗せるのが正解だろう」
そう言ってフラニスは椀の残りを口に運ぶ。
隣を見れば柿本も食べ終わっており、蓋を戻していた。
2人が食べ終わったのを見て、貝塚はワゴン上段の覆いを外す。
そこにはステンレスの油切りバットが置いてあり、棒状の揚げた何かが4本乗っていた。
「それじゃあ、口直しの骨煎餅を食べて貰おうか。黒瑪瑙鰻の背骨に片栗粉をまぶし、油で2度揚げしてから塩と砂糖を振りかけた。片方はたまり醤油を煮詰めて粉状にしたものを、もう片方は七味とクミンを混ぜたものをかける」
そう言いながら貝塚は、2種類のスパイスを別々にパラパラと振りかけていく。
出来上がったものは筒状の陶器に入れられてテーブルへと置かれる。
その様子はまるで、グリッシーニを茶色の長細い串入れに入れたようだった。
そこに淹れたての熱い烏龍茶が添えられる。
「じゃあ、俺は次の料理を準備しに行く」
料理を出した貝塚は、そう言ってワゴンを押しながらキッチンへと向かっていった。
フラニスは躊躇うことなく陶器から骨煎餅を1本抜き取る。
一通り眺め、匂いを嗅いだ後、端の方からパリパリと音を立てながら齧っていく。
これまで出てきた料理に比べれば棒状の料理など可愛らしいもので、この期に及んで恐れる必要はなかった。
「甘辛い...スナック菓子のような味です」
柿本はたまり醤油の粉をかけられた骨煎餅を齧りながら呟く。
身と同じく下処理された後にしっかりと揚げられたことで、背骨は硬い煎餅のような食感に仕上がっている。
頭部は同じような調理をしても食べられなかったので、背骨とは違った組織構造をしているのだろう。
揚げ物ならではの硬いながらも力を入れて噛めば砕けていく食感と香ばしさ、骨髄から染み出る旨味、揚げ油のコクと甘み。
塩と砂糖の甘辛さに加えて、たまり醤油の香りと甘みが口の中で広がる。
固めに揚げたフライドポテトに、甘辛いフレーバーパウダーをかけたような料理である。
不味いはずがなかった。
「七味とクミンがかかったやつは印象がだいぶ変わるな」
フラニスは止まることなく1本食べきった後、烏龍茶を飲み口の中をさっぱりとさせる。
添えられた烏龍茶は苦味が少なく、柔らかい口当たりで後味も軽かった。
ジャンキーな骨煎餅とは対照的に、上品な甘いミルクのような香りと華やかな花の香りがして、飲んだ後も口内に留まり続ける。
烏龍茶は油分を落とす効果もあるため、揚げ物とのペアリングには最適だった。
「たまり醤油とは違い中華料理らしさがありますね。スパイスの内訳が羊肉の串焼きと似ているせいでしょう」
柿本は骨煎餅を齧りながら味を分析する。
旨味が動物由来ではなく魚類由来という違いはあるが、それを除けば塩・砂糖・油・スパイスとほぼ同じ構成である。
日本料理の口直しにスパイスのかかった骨煎餅というのもどうかと思ったが、これまでの料理の中で最も歯ごたえや味付けの主張が強いこともあり、烏龍茶と合わせたことで口の中は完全にリセットされている。
フラニスと柿本は自然と次に出てくる料理が待ち遠しくなっていた。
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