4. 栃木県日光市の黒瑪瑙鰻-8

「酷い目にあった...」


ニーデンは濡れた髪をガシガシとかきあげ、疲れ切った声で呟いた。


額には汗と水滴が混じり合い、頬を伝って顎からポタポタと落ちている。


馬の下半身を覆うコートも水を吸って重くなり、体に張り付いているのが不快だった。


目の前には大海老の残骸や倒れた木々がゴロゴロと転がり、岩で覆われた硬い地面があちこちで抉れている。


空気は湿気と土の匂いで重く、活火山の中腹にも負けず劣らずの荒れ果てた風景が広がっていた。



あの後、怒り狂った大海老が水鉄砲を撒き散らし、耳をつんざくような音と木々がなぎ倒れるバキバキという音が響き渡る中、ニーデンたちは必死に逃げていた。


すると、どこからともなくドスドスと地響きのような音を立てながら、岩石犀が土煙を上げながら突撃してきた。


動く岩のような巨体が大海老にガツンと体当たりし、そのまま口を大きく開いて左の爪へと食らいついた。


バキッという殻が砕ける音が響くが、大海老も空いた右の爪を岩石犀の腹部へと突き立てたことで、砕けた殻と流血が周囲に舞い散る。


大海老と岩石犀の戦いが始まったかところで、それを見た貝塚が「俺の海老を取るな!」と叫んで突撃し、三つ巴の乱戦が幕を開けた。



大海老は水鉄砲を撒き散らすだけではなく、その巨体をガシャガシャと鳴らしながら、巨大な爪を振り回して水底や地面ごと相手を吹き飛ばした。


水面を殴りつけるような音と共に、水底に溜まっていた砂と水がショットガンのように周囲に飛び散る。


飛び散る水滴が虹色に輝き、それがニーデンと柿本の視界を一瞬だけ美しく彩った。



岩石犀は驚くほどの俊敏さで動き回り、水中にいた哀れなモンスターたちを蹴飛ばしながら、大海老や貝塚たちに体当たりした。


そして、トドメと言わんばかりに太い足でゴリゴリ踏み潰す。


踏みつける足は水を押しのけて水底を露出させ、押し出された水は波となってニーデンらの足元を濡らした。



貝塚は大海老の水鉄砲を剣で打ち払い、水しぶきを浴びながら、動かすたびに表面が擦れてギチギチと軋む右の爪に斬りかかる。


バキッという音と共に右の爪が落ち、返す刀で岩石犀の腹部を装甲ごとズバッっと切り裂いた。


切り落とされた爪と装甲は、ドスンという音を立てながら水中へと沈んでいった。



ニーデンは貝塚が吹き飛ばされ、ドボンと水柱を上げながら水中に沈んだ瞬間、死んだと思い顔が青ざめた。


しかし、当たり前のように水中から立ち上がる姿を見て考えるのを止め、柿本を背中に乗せたまま護衛に専念して遠くから眺めていた。


最終的に、大海老の頭と左の爪をガリガリという音をたてて食べた岩石犀が、水中に落ちた右の爪を咥えて満足そうに撤退したことで争いは収まった。


食材として重要な部位を失った貝塚は、悔しそうに地面をドンドンと叩いている。


この争いの勝者は岩石犀と言って良さそうだ。



2匹の巨大なモンスターが暴れ回ったことで、湖の水や砂、底に溜まっていた諸々があたりに撒き散らされていた。


まるで台風が通り過ぎた後のような光景だった。


砂に土、草木や折れた木の根、魚の死骸に水中にいた虫、貝の欠片、何かの骨などが散乱している。



ニーデンも体中が砂と土に塗れていたため、柿本が魔法で生み出した水を浴びて落としたところだ。


水は冷たかったが、清らかな水が体を伝い落ちる感覚に、わずかな安堵と疲労の回復を覚えた。


その柿本は濡れて汚れた服を着替えるため、先程木陰へと消えていった。


護衛を兼ねているニーデンとしては目の届くところにいて欲しかったが、そういうわけにもいかないかと思い止めず、「何かあったらすぐに声を上げるように」とだけ伝えておいた。


疲労感で座り込みたくなるのを堪えながら周囲を見渡すと、いつの間にか貝塚が立ち上がって、あちこちを調べ回っているのが目に入った。



「大海老でも食べようとしているのか?この国では高級品だから、味は悪くないはずだぞ」


「それは後でやる。もし、元気があるなら解体しておいてくれ。戦闘で傷がついたところは痛みが早いから、切り離しておいてくれると助かる」


貝塚は振り返ることもせず、砂や泥で汚れた格好のままで、地面や争いがあった浅瀬を調べ回る。


何がそうさせているのかは不明だが、彼の動きには期待のようなものが混じっていた。



ニーデンは貝塚を止める理由も思い浮かばなかったので好きにさせ、自分は大海老の解体を始めた。


しばらくして、柿本が新しい服に着替え、濡れた髪をタオルで拭きながら合流する。


それと同時に、貝塚がスキップしそうなくらい浮かれた様子で戻ってくる。


砂と泥に塗れているが、笑顔で目はキラキラと輝いている。


この旅で初めて見せる満面の笑みだった。


ニーデンはその様子に少し気味が悪くなりつつも、状況が前進した可能性を悟って興味を抑えきれなかった。



「......そんないい情報でも見つかったのか?」


ニーデンは戸惑い、貝塚の手に握られている物を見つめながら尋ねる。


その手には魚の骨と砂が握られていた。


「もちろん。あったんだよ!黒瑪瑙鰻の骨が」


そう言って、貝塚は黒い骨を突き出した。


その骨は大きな頭部から背骨、尻尾が繋がっており、色や形状、大きさから恐らく黒瑪瑙鰻であると推測できた。


ただ、ニーデンは貝塚がこの骨を重視する理由が分からない。


彼の顔には混乱の色が浮かんでいた。



「確かに黒瑪瑙鰻の骨だろうが、骨だけあってもなんの役に立つ...。いや待て、どうしてこんな綺麗な骨が残ってるんだ?」


黒瑪瑙鰻を食べるモンスターは存在する。


しかし、骨だけを残すような上品な食べ方をすることはない。


丸ごと食べられたのなら、こんな綺麗な形で骨が残るはずがない。


その不自然さに、ニーデンの眉間に深いシワが寄った。


悩むニーデンを横目に、柿本は骨を触りながら呟いた。


「水中で筋が溶けて、柔らかくなった身を小魚や虫が食べてる...?でも、湖の水温で筋が溶けるなら、生きているに身が柔らかくなってないとおかしい...」



貝塚はそんな柿本を見てニヤニヤ笑い、砂を握った手をグイッと突きつけた。


その評定は発見の喜びに満ちていた。


「砂だよ。かかっただろ?熱いと思わなかったか?」


「...そこまで気にする余裕はありませんでした」


柿本が突きつけられた砂を触る。


確かに、ほのかに温かい。


人肌程度の温もりが指先から伝わってきた。



「俺はあいつらに水中に放り込まれたから、すぐに気がついた。この浅瀬、底の方は水中よりも熱いんだよ。多分40度くらいはある。そして、その砂地の中に黒瑪瑙鰻の骨はあっても、硬いままの死骸が見つからない」


貝塚は大海老の残骸と周辺を指差す。


「こいつと犀が暴れたおかげで、湖の底がかき回され、地上に撒き散らされた。湖にはまとまった数の黒瑪瑙鰻が生息しているはずなのに、ついさっき死んだばかりのやつを除けば、硬いままの死骸が見つからない。これはおかしいよな?」


貝塚の説明を聞いて、柿本はハッと表情を変えた。


目を輝かせて声を弾ませる。


「つまり、水底の温度であれば、黒瑪瑙鰻が柔らかくなるということですか!?」


「たぶんな。40度前後だと火を通すというような温度でもないし、これは完全に盲点だったな。」


貝塚はニヤリと笑い、満足そうに頷いた。


「熱湯というより、ぬるま湯ですからね…」


「もしかしたら、砂地に含まれる成分が影響している可能性もある。というわけで、両方試すぞ。恵は40度前後の鍋で煮込んでみてくれ」


「はい!」



柿本は拠点に向かって駆け出す。


2人の話を呆然と聞いていたニーデンの肩を、貝塚はガシッと掴む。


「さて、海老の解体は終わってるな?」


貝塚はニヤニヤと楽しそうに笑う。


まるで絶好の獲物を見つけた狩人のように。


「格子状の箱を作る手伝いをして貰うぞ。タモ網に箱をくっつけて黒瑪瑙鰻を入れ、砂地に沈める。狙い通りの結果になればこの調査も終わりだ」



貝塚の声には確信が満ちていた。


沈みゆく夕日が水面に反射し、彼の横顔を赤く染める。


その姿を見てニーデンは思う。


まるで血に塗れながらも戦意を失わない怪物のようだと。

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