第4話

 朝ご飯は食べない。

 用事がない日は昼過ぎまで寝ている。

 紅風 葵はそれを許してくれなかった。

 八時半に起こされたが抵抗し、九時に布団を取り上げられてしまった桜は、低いテーブルの前に座って、葵の作った朝ご飯を食べていた。

 大きな欠伸をし、指で涙を拭い、ため息を吐く。

 朝ご飯は美味しいが、やはり食べるのは辛い。


「いいですか兄さん。もう一度言いますが、早寝早起きを心掛けて下さい。健康の為ですから」


 桜の正面で正座している、紫色の着物を着た少女は、今日は土曜日で学校が休みなのに、五時に起きたらしい。

 家から持って来た可愛らしいパジャマを着て、従兄の理性を崩壊させかけた彼女が、掛け布団やシーツを替えたベッドに入ったのが、二二時三〇分くらいだったか。

 今の所家事も完璧にこなしているので、討滅師関係は考えないとして、本当に高校生かと言いたくなる。


「わかったわかった。……休日の朝は地獄だな」

「平日の朝もですよ!? 最悪でも九時には起きて下さい! 目覚まし時計をいっぱい買って来て、セットしておきますから」


 最悪だ。まさかここまで窮屈だとは。

 だがそれでも、ふざけるなと怒鳴る気にはならない。可愛い従妹は、本気で桜の事を思ってくれているようだし、とても楽しそうに話しているから。

 ピンク髪の青年は、かすかに口元を緩めた。


「勘弁してよ」

「嫌です。――ところで兄さん。私は昨日の夜、正式に兄さんの弟子になったわけですが、何かしなければいけない事はありますか? 今日は何をしたらいいでしょうか?」


 両手を合わせた弟子は、目を輝かせている。

 桜は箸を休ませ、小さく息を吐き出した。


「別に何も。昨日も言ったけど、僕が君に教えられる事なんてない。でもだからって、何もしないつもりもない。やって欲しい事があるなら言って。聞きたい事があるなら聞いて。仕事には出来るだけ連れて行くようにするから、そこで学んで」

「――はい!」


 気持ちのいい返事を聞いて。

 桜は頷き、再び箸を手に取った。


「では兄さん。早速ですが、一つやって欲しい事があります。落ち着いてからでいいので、手合わせしてもらえませんか? 弟子わたし師匠にいさんの差がどれ程のものなのか、知っておきたいです」


 そういうわけで。

 漆黒の衣を纏った桜は、弟子の葵と共に、アパートから少し離れた場所にある河原までやって来た。

 ここは広くて邪魔になる物が少なく、人もあまり来ないので、手合わせをするにはうってつけの場所だ。

 聖操を使って指輪を刀に変えた桜に、一〇メートル程離れた所にいる葵が、ぺこりと頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 振り下ろされた葵の右手に、大太刀が握られる。

 聖攻せいこう

 武器を作り出す術。

 討滅師にとっては切り札のようなもので、普通の武器や聖操で扱える武器より、強力な武器を作り出せる。作り出せる武器は一人一つだけで、ある程度相性のいいものでなければならず、それを後から変更する事は出来ない。あまりに複雑な武器は作り出せない為、刀や槍や弓が聖攻の者はいても、銃や爆弾が聖攻の者はいない。ちなみに会得難易度は四つの術の中で最も高く、それなりに活躍している討滅師が聖攻を使えないというのも、決して珍しい話ではない。


「聖攻か。まかり間違っても僕には使えない術だ」

「使えなくても強いのですから、誇って下さい。それに瑰麗舞姫は、聖攻で作り出された武器に匹敵する名刀です」

「そうだね。母さんは優秀な討滅師であり、道具作りの天才でもあった――なんて話は、手合わせには全く関係ないか。あんまり気は乗らないけど、行くよっ!」


 桜は葵との距離を詰め、彼女に殴り掛かった。

 しかしその拳は、紫の討滅師には届かなかった。

 彼女の前に現れた、透明な壁に阻まれたからだ。

 聖護せいご

 盾を作り出す術。

 聖攻と違い、作り出せる盾は皆同じ。縦と横が一メートル、厚さ一センチ程の透明な盾は、甚だ頑丈で、銃弾を食らってもヒビ一つ入らない。出した場所からは移動させられず、一分を過ぎると勝手に砕け散ってしまうので、タイミングを考えて発動しなければならない術である。


「兄さん」


 透明な壁の向こう側にいる葵が、恐い顔をした。

 理由はわかっている。斬り掛からずに殴り掛かったから――つまり手を抜いたからだ。

 葵が大太刀を振り上げ、透明な壁を消した。

 直後に力強く振り下ろされた大太刀を、桜は瑰麗舞姫でどうにか受け止める。

 そこから急に葵の力が強くなり、大太刀が重くなったので、桜の膝が曲がり、足が地面にめり込んだ。

 聖体せいたい

 体の一部を一時的に強化する術。

 強化していられるのは最高でも五秒。通常時の何倍もの力を出せるようになるが、丈夫にはならないので、防御の為ではなく攻撃や移動の為に発動するのが基本である。


「やはりいい刀ですね。へし折るつもりで振り下ろしたのですが。――それはそれとして、真剣にやってもらわないと困ります」

「いやもう真剣にやってるよ!」

「そうですか!」


 葵が聖体で足を強化し、隙だらけだった桜の脇腹を思い切り蹴った。

 血を吐き出してふっ飛んだ桜は、痛みに耐えて空中で体勢を立て直し、屈んだ状態で着地した。

 咳き込んだ師を、弟子は休ませてくれなかった。

 こちらに向かって来た彼女が、飛び蹴りを食らわせようとしてきたので、桜は慌てて両腕をクロスさせた。

 聖体で強化された足が、桜の腕に激突する。

 またふっ飛ばされてしまった桜は、今度は体勢を立て直せず、地面に一度ぶつかってから、川に落ちた。

 水飛沫が上がり、桜の背中が川底に当たる。

 腕が痛い。脇腹も痛い。

 またずぶ濡れか。そろそろ風邪をひきそうだ。

 桜は川底を強く蹴って跳び、河原に着地した。

 葵は少し離れた場所から、こちらを見ている。


「――容赦ないね」

「兄さんに本気を出してもらいたいので。そろそろ死神の力を使ってもらえませんか? どのような能力が使えるのか、詳しくは知りませんが、少なくとも身体能力は格段に上がるはずです。もしまだ使わなくてもいいと考えているなら、ごめんなさい、私は必死にやっているので、これ以上はどうしようもないのですが……」

「安心していいよ。使おうと思ってた所だから」


 桜の瞳が、紅く染まった。

 恐怖より嬉しさが勝ったのか、葵は胸に手を当てて深呼吸し、顔を綻ばせた。

 死神が数歩前に出て、両手を大きく広げる。


「あんまり使いたくなかったんだけどね。忌むべき力だ。せめて正義の為に使いたい。加減も結構難しい。気を付けるけど、大怪我させたらごめんね」

「覚悟はしておきます!」


 聖体で両足を強化した葵が、紅い瞳をした死神の背後に、素早く回り込んだ。

 間髪入れずに大太刀を水平に振り、振り向かない桜の体を斬り裂こうとする。

 死神が左手で、大太刀の刀身を摘んだ。

 大太刀の動きが止まり、葵が目を丸くした。


「なっ!?」


 押しても引いてもピクリとも動かないので、葵は聖体で両手を強化し、止まってしまった大太刀を振り切ろうとした。

 すると桜が、右手に握っていた瑰麗舞姫を逆手に持ち、大太刀の刃にその刃を当てた。

 大太刀は動かない。

 桜が振り向き、葵に微笑みかけた。


「流石に聖体で強化されたら、格好付けて片手で止めてはいられないな」


 瑰麗舞姫で大太刀を上に弾く桜。

 刀を手放した桜は、また直ぐに柄を両手で握って、葵の方に体を向けながらそれを振った。

 刀は葵に当たらなかったように見えたが、彼女の左頬には小さな傷が出来ており、刀身にも僅かに血が付いていた。

 目を見開き、傷口に触れる天才討滅師。

 彼女は指に付いた赤い液体を見た後、目の前にいる死神と目を合わせた。


「驚いた。最後の攻撃、全く反応出来ませんでした。今のやり取りの間に、一体何度私を殺せましたか?」

「そんなの、一度も殺せなかったに決まってる。紅風 桜に紅風 葵は殺せないから」

「そうきましたか。兄さんらしい答えです。――ええ、私と兄さんの差がどれ程のものなのか、理解しました。これでも私は天才と呼ばれていて、妖が相手でも討滅師が相手でも負けた事は殆どないのですが、桁が違いますね。底が見えませんでした」

「それは言い過ぎ。どうする? もう終わる?」


 桜が問うと、葵は残り惜しそうに頷いた。


「こんなに強いとは思っていなかったので、よくない事なのかもしれませんが、正直ワクワクしています。続ければ何か新しい発見もあるでしょう。ですが兄さんは濡れてしまっていますし、目的は達成したので、ここで終わりにしておくべきですね。またいつか付き合ってもらってもいいですか?」


 この答え。

 真面目というか、不器用というか。

 前髪をかき上げた死神は、瑰麗舞姫を指輪に戻し――たりはせず、少し下がって刀を構えた。


「それならもう少しだけ付き合うよ」

「えっ? でもそれは――」

「いいから」


 葵が唇を開く前に、紅い瞳の死神は、手に持った刀で彼女に突き掛かった。

 笑顔を見せた少女の前に、透明な壁が現れる。

 瑰麗舞姫に突かれ、ヒビが入ったその壁を消し、葵は聖体で両手を強化した。

 二つの刃がぶつかり合って。

 葵の握る大太刀が粉々になった。

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