第2話
雨はやんだが、月はまだ雲に隠れている。
紅風 桜は、閑静な住宅街を歩いていた。
先程まで紅かった瞳は、今は黒い。刀はもう持っておらず、代わりに右手の中指に銀色の指輪がはまっている。
ポケットに手を突っ込んだ桜は、そこから濡れた財布を取り出し、自動販売機の前で足を止めた。
財布を開き、お札が乾かせばまだ使える状態である事を確認してから、自動販売機に小銭を入れる。
ペットボトルの温かいお茶を買って、桜は隣にあったベンチに腰掛けた。
あれだけ雨が降っていたのに、ベンチはあまり濡れていなかった。乾いたのか、誰かが拭いたのか。どちらにせよ、びしょ濡れの桜が座った事で、台無しになってしまった。
ピンク髪の青年は、ペットボトルの蓋を開けてお茶を半分程飲み、視線を落とした。
「紅風 桜。こんな所で会えるなんて」
誰かに話し掛けられ、桜は顔を上げる。
黒髪の少年が、自動販売機の前に立っていた。
桜の名前を知っていて、馴れ馴れしかったから、知り合いが話し掛けてきたのかと思ったが、違った。知らない少年だった。
「――君は?」
「あんたのファンかな。時間ある? ちょっと話聞かせてくれない?」
自動販売機で缶のオレンジジュースを買った少年が、わざとらしく首を傾げた桜の隣に座った。
「僕のファン? おかしいな。アイドルになった覚えはないんだけど」
「あんたそこそこ有名な
桜の眉がピクリと動いた。
妖が格好よくて、好きか――
真面目に話すつもりなんてなかった。
直ぐに立ち去ってやるつもりだった。
予定変更だ。真面目に話させてもらおう。
「何か勘違いしてるのかな? 妖って呼ばれる生き物は、皆凄く悪いんだ。だから何も格好よくないんだよ?」
「馬鹿にすんなって。勘違いなんてしてない。――人間がいろんな理由で、例えば負の感情に飲まれた時なんかになってしまうのが、妖って生き物だろ? 理性がないのが殆どだけど、上位の妖にはあって、人間だった頃の記憶を持ってる奴もいる。特殊な能力が使えて、人間より体は丈夫だ。欲望に忠実だから、悪さをする奴が多いのは確かだね」
「そこま――」
「ついでに言っとくけど、討滅師ってのがどんな人達なのかも、ちゃんとわかってるよ。――一部の人間の体に宿る、
よく話す子だなと思う。
お陰で何も勘違いしていない事はわかったが。
「そこまでわかってて、どうして妖が好きなの?」
少年は何処かつまらなそうな顔をして、オレンジジュースを飲んだ。
「紅風 桜。討滅師の名門、紅風家に生まれたにも拘わらず、才能がなくて落ちこぼれと呼ばれている。具体的にどう才能がないかというと、体に宿る討気が劣悪で、術が一つしか使えない。武器を作り出す
少年が銀色の指輪を指差した。
爪を噛む癖でもあるのだろうか。よく見ると彼の短い爪は、先端部分がギザギザになっている。
「その指輪、刀になるんだよね?
桜は右手に左手を重ね、指輪を隠した。
深い意味はない。何となくやっただけだ。
「よく調べたね。だけどわからないな。何の関係があるの?」
「討気が体に宿っていても、それが劣悪なら、ごく稀にだけど妖になる人間がいる。あんたがそうだ。殺意に飲まれて死神になったらしいね? 器用に死神を抑え込んで、その力だけを利用してるみたいだけど。紅い瞳のあんたは、人間じゃなくて死神だ」
なるほど。そこまで知っていたか。
これについては、必死になって隠していたわけではないが、言い広めた覚えもない。
やれやれと思いながら、桜は目を伏せた。
「そっか、漸くわかった。死神である僕になら、妖の魅力が理解出来るだろうと、わざわざ答えるまでもないだろうと、そう言いたいわけだね?」
「――うんまぁ、そうなんだけど。さっきから思ってたのと違う反応が返ってくる。あんたもしかしてさ、自分も含めて、妖の事嫌ってる?」
桜は鼻を鳴らし、ベンチから腰を上げた。
胸に右手を当てて、少年に微笑みかける。
「勿論」
少年が心底がっかりした表情を見せた。
落ちこぼれ討滅師はお茶を飲み干し、自動販売機の横に置いてある赤いゴミ箱に、ペットボトルを捨てた。
「妖が好きな理由は、聞かない事にするよ。長くなりそうだからね。――最後に二つだけいいかな? これから先、僕のような人間に会う事があるかもしれない。その時はあまり、こういう話をしない方がいい。きっといい顔をしないと思うから」
「……」
「それから、これは討滅師として言わせてもらうけど、やっぱり妖は好きになっちゃいけない。彼等は元の人間すら否定する、欲望に忠実な倒すべき悪なんだ」
何か言い返されるだろうと思っていたが、少年は黙って俯いただけだったので、桜は軽く頭を下げて、その場を立ち去った。
数分後――
桜はボロアパートの前にいた。
紅風 桜はここで、一人暮らしをしている。
家には帰れない。死神になった時、二度と紅風の家の敷居を跨ぐなと、家族に言われてしまったから。
だがその程度で済んでよかったと思っている。
殺されてもおかしくなかった。実際あの時、近くにいた者の殆どが、殺すべきだと叫んでいた。
彼等を黙らせ、家を追い出すだけで済ませてくれた現当主には、感謝してもしきれない。
桜は懐から鍵を取り出し、錆びた階段を使ってアパートの二階に上がった。
傷だらけの廊下を進み、至る所が凹んでいる扉を開き、部屋の中に入る。
そこで桜は、異変に気付いた。
電気がついている。
美味しそうな匂いがする。
人の気配を感じる。
部屋を間違えてしまったかなと、桜が思った瞬間、奥から少女が出て来た。
腰の辺りまで伸びた明るい紫色の髪、黒色の瞳、紫色の着物に袴。顔立ちの整った、可憐な少女だ。
この美少女が何処の誰なのか、桜は知っている。
紅風
「お帰りなさい。兄さん」
笑顔で話し掛けてくる侵入者。
桜は部屋を出て、静かに扉を閉じた。
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