第二話 空の空 空の空なる哉

 むしろねあげて立ち上がる影は、ぐるぐると両の腕を回す。


「縫、たのむぞ」

「もーホントに、市さんはたよんなかねぇないよね


 暗い中に浮かぶ、輪郭りんかくだけで女性とわかる。つややかな輪郭りんかくの人影が、燃える舟の舟端ふなばたに立った。

 火にらされた縫めがけて、雀蜂すずめばちの群れが奔流ほんりゅうの激しさで殺到さっとうする。


田舎忍いなかしのびの新手あらてか、ムダなことを」


 蜂つかいは、屋根の上の女がいまにも幾百の毒針でつらぬかれて息絶いきたえるかと、喜色きしょくを浮かべ眼を見開いている。

 だが────


 ポッポッ

 はじけるような音がする。


「な、なにをしている?」


 音がするたびに、いくつもの蜂が水面みなもに落ちた。

 雲霞うんかのごとき群れから、次次つぎつぎに蜂が落ちる。その音が続いていた。


 味方ながら、なんとも信じがたい。

 ふなばたに立つ縫は、ばした右手の人差しひとつで蜂を叩き落としている。

 暗いなかで揺れる舟に立ち、飛びう数百の蜂を打ち落としているのだ。


「まさか。ありえん、蜂の一匹一匹を指で、打ち倒しているだと」


 敵の蜂つかいも、愕然がくぜんとして立ちすくんでいる。


 飛び数多あまたの蜂を一匹ずつ捕らえ得る、縫の目。

 不規則に動く矮小わいしょうな蜂の胴を打ちすえる精妙せいみょうな縫の指先。

 自らの身体をさんとする蜂から順に当てる判断力。

 そのいずれもが、神速。


「こんなこと、人のできうることではない。コイツらはいったいなにものなのだッ!」


 敵の棒手裏剣ぼうしゅりけんが縫へ飛ぶ。

 だが、当たるはずもない。

 数多あまたの飛ぶ蜂をけうる体捌たいさばきだ。手裏剣など、当たるものか。


 しかし、あれはどんな修練しゅうれんんだら届く境地きょうちなのか。

 これは果たして人の身になしうる技芸わざなのか。

 縫は、同胞はらからであるワシですら、驚くばかりの体術を見せつけていた。


「縫ぃ、もう良かいいよ」

「お嬢、勘解由様の術が出来でくるとですか?」

「うん。門が開くと言いよんなるといわれているよ


 むしろのなかからの声が人語じんごいきを越えた響きとなり、虚空こくうから糸がびてくる。

 夜空よりなお黒い。

 黒くつやのある線状の、あれは髪なのだろうか?

 小舟とワシらにからみつく。

 しごく嬉しそうに三千世様が笑う。


あいばねそれじゃあね。もういくけんからね」


 火矢から移り、小舟を火だるまにするかと思われたほのおは紙のように丸まり、風にヒラヒラと飛ばされた。

 煙をまとわりつかせた小舟は、からまった髪に引かれて、宙に浮き上がる。

 宙に昇り、露になった舟の底からしたたる海水が、雨のようにざっと水面みなもを打つ。


「舟が宙に浮く、だと」

「打て、逃がすなッ」


 伊賀者は棒手裏剣を投げるが、船体に刺さるだけだ。

 奇奇きき妙妙みょうみょうの神通力で浮かぶ舟を止められるハズもない。

 空中へとられると同時に、耳をす低い音が鳴る。


 宙にいつけられた雨粒が次々にシュンシュンとけていく。

 それにつれて、小舟は霧にけぶるように色を失った。

 すべてが朧気おぼろげになり、揺らめく陽炎かげろうのようになり────消えた。


「消えおった」

「どこへ消えた?」


 神通力じんつうりきとしか思えない。

 人をのせた舟が宙にき消えるなど、あってはならない。

 だが、どんな仕掛けもなかった。ただ消えたのだ。


「あやつらは、海に沈みましたかな?」

「さすがに、徳川さまの忍び殿は達者でござるな」


 見えてなかったのか? 空に浮かぶ舟を。

 これもあの肥前ひぜん忍び達の術のひとつか?


貴殿きでんらは、アレをどうみたのだ」

「なにぶん暗うて、しかとはわかりませんが、海中に沈んだのでは、なかないのですか?」

そげんですけんそうですよよっとは、わかりまっしぇんよくは、わかりません


 伊賀衆いがしゅうが敵を始末しまつしたと思いこみ感嘆する侍ども。ヤツらはわかっていない。

 アイツらは、勝手に消えたのだ。

 我らは、何もしておらぬ。

 いやなにもできなかったのだ。

 だがそのことをわかる者はここにはいない。

 ……気味が悪い。なんだ、この事態は?


 肥前ひぜんの忍びらは伊賀忍いがしのびの我らからみても、どんな仕掛けかもわからない技を用いる。

 そもそもが、忍びの技とも思えない。


 あの肥前ひぜんの忍びは、得体えたいがしれない。

 人の姿形に化けた物の怪であるかのようだ。


 そもそもだ。肥前ひぜんには、忍びがいたという記録がない。

 いったいアイツらは、どこから来てどこへ行ったのか

 暗い海を見つめて立ちすくんでいると、侍らが囃子立はやしたてる。


ぞくめは、死んだげな」

伊賀勢いがぜいがやりおったッ」

「たあいもなかなあ!」


 ときの声をあげる侍たちが、無性にバカらしくなった。

 そもそも、あの忍びの者らは、この場から逃げたのか?

 少なくともあの敵の誰ひとりとして、我らを恐れてはおらなんだ。

 逃げたのではなく、ただこの場所から去っただけでないのか。

 つまりは、この土地での用が済んだというだけということなのではないか?


 自分に浮かんだ疑問に対して、言い知れぬ不安がわき起こる。

 あの忍びどもは、いったい、こんな凄惨せいさんな場所になんの用があったのか?

 銭金ぜにかね栄誉えいよもない戦場だ。

 日ごとに石臼いしうすもみつぶすように、そうなるべくして人が死ぬ。

 原城址にしかばねまれるだけだ。


 龕灯がんどう松明たいまつの投げ掛ける光が暗い水面を行きらすが、何もない。


なんも、浮かんではおりまっせんな」


 痕跡こんせきがない。そうだろうとも。


「バチかぶつとっけん死体もあがらんとでしょう」


 死体と聞くと同時にはだ粟立あわだった。


「もしや、アイツらは────」


 あの忍びがこの戦場いくさばにいたのは。それは。

 のではないのか。

 それも数多あまたの人の死に。

 求めるだけの数の死が得られたので、消えてくれたのだ。


「消えて、くれただと?」


 なにを思うているのだ、我は。

 人を人とも思わず、死をも恐れない自分が目の前から敵がいなくなったことに安堵あんどして胸をなでおろした。

 そう自覚じかくして、また胸の奥がざわめいた。

 交代の者が来たとげる声で我にかえる。


「さようか。では我らもらせに戻ろうぞ」


 いだ海に差したを持つと、吹きつける風がある。


「なんの匂いだ?」


 暗い水面にはいだこともないカラリと乾いた風が吹いていた。


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