第一話
臓器の欠片が包まれた小さな四角い
見た目ではどこが悪いのか分からない臓器を顕微鏡で見える形にしていく過程は、神秘のベールを剥ぎ取っていくようでゾクゾクする。
今回はどんな姿が見えてくるだろうかとわくわくしながら、リズムよく削る。予定枚数に到達し一通りの作業を終え一息つこうとしたところで、トントントンとノックの音が三回聞こえた。
病理学研究室の扉の前には「切り出し作業中。ノック&立ち入り禁止 ロクス」と書かれた看板が掲げてある。
この部屋の主が誰だが分かっていてなお、ずかずかと足を踏み入れられる人間は三人だけだ。
一人は仕事を放り投げどこかに放浪中、もう一人は足音が複数聞こえてくるはずでノックの回数も違う。だとしたら、あいつだろう。
返事をしないままでいると、ノックの主は扉を開け中に入ってきた。
「やぁ、はかどっている?」
ネズミ色の髪をゆらし、小動物のようなくりっとした目をのっけた顔がひょっこり現れる。はたして予想通り、ルームメイトのメルクだった。
「今、終わったところだ」
「なら、ちょうどよかった。コーヒーブレイクしよう」
メルクは実験台で山積みになっている資料を肘で器用にどけ隙間を作ると、手にしたマグカップを二つ置いた。
こちらの作業が終わっても終わらなくても、無理矢理、休憩時間にするつもりだったのだろう。彼のテンポに付き合わされるのは、いつものことであった。
「何の用事だ? 学長選挙がらみか?」
作業台から離れ、実験台に腰掛け熱々のコーヒーをすすりながらメルクをじっと見ると、彼はにやりと笑った。
「話が早くて助かるよ。君への贈り物を渡して欲しいと頼まれてね。まずは現学長派から。赤い涙だ」
メルクは背負ったバッグを降ろすと、無造作に手をつっこみ木箱を取り出す。見たところバッグの中身はまだまだありそうだ。
「なんだそれ」
「超超極上のワインだよ。一般ルートにはまず出てこない、顧客リストに名前がのっている人だけが買える限定品だ」
「送り主は俺が酒を一滴も飲めないのを知らないらしい」
「そう言って突き返すのはなしだからね。こういうのは価値が分かったふりをしておくのが一番だ。ちなみに売れば卒業までの学費をまかなえるぐらいのびっくりお値段だよ。お次はこちら、急進派カルバト教授からだ。包虫に感染したブタのホルマリン漬けの脳みそです」
高級感ただよう木箱の隣に置かれたのは、灰色の臓器が入ったガラス瓶であった。
「こっちはこっちで俺の欲しかったものをピンポイントに当ててきて怖すぎる」
寄生虫が感染した動物の脳みその標本が欲しいと常々思ってはいたが、誰かに言った覚えがない。いや、目の前のこいつに言った気がする。
「そっちのワインはお前が欲しかっただけじゃないか?」
ワインの入った木箱は、どれだけ手を飛ばしても俺の届く位置にない。じろりと見るとメルクは、けろりと笑った。
「ばれたか。さすがにムリだろうって物は試しに言ってみたらポンと実に気前よく、くれたんだ。さすが学長だけある。仲介料ということでもらってもいい?」
「そもそも仲介を頼んだ覚えがないんだが」
「お堅いこと言わずにさ。それで? 誰を応援するかそろそろ決めた?」
「未定」
「もし決めたら、いの一番に僕に教えてくれよ。情報は鮮度と正確さがなにより大切だからね!」
ばしばしとメルクに肩をたたかれ、魂が抜け出るようであった。
彼とはルームメイトとして出会い、今日にいたるまでじっくり友情を育んできたと思っていたのに、最近は俺のことを金づるとしか見ていない。
どうしてこうなったのかと、空を仰いだ。
学長選挙が始まり、大学内が二大派閥に割れて揺れる中、俺は普段と変わらぬ日常を過ごしていた。
正直いって、どうでもいい話であった。
研究者として大学に残れるならまだしも、卒業したら領地に戻るしかない身にとって誰が学長になろうと、残り二年の在学中にすぐさま何かが変わるとは思えなかった。
現学長と急進派の争いが日を追うごとに激しさを増していき、勢い余った学徒が何を考えたのか火炎瓶を教室へ投げ込む事件が発生しても、我関せずの態度をつらぬいていた。
風向きが変わったのは、「私には他にやらねばならぬことがあるからロクス君、君に投票権を託すね。任せたよ」と言伝を残してマーヴ先生が姿を消したあの日だ。面倒くさがって逃げたに違いなかった。
先生が失踪してから一ヶ月がたつが、いまだにどこにいるのか分からない。選挙が終わるまで帰ってこないだろう。
学生の身分で投票権を持つことができるのか選挙管理委員会は揉めたが、代理投票項目でそのような規定がなかったため最終的によしとされた。想定すらされていない穴だった。今回の選挙が終われば、すぐに埋まるだろう。
学長選挙は二十三の研究室の教授たちが一人一票投票していくシステムだけに、一票が非情に重い。
せめてマーヴ先生が指名してくれればよかったのに、「この大学の未来は君に託した」と全部放り投げスタイルであった。
もうコイントスでいいか。そうだ、そうしよう。選択は神のみぞ知る。すべては運命。
決定権を大いなる存在に託そうとしたタイミングでさらに問題を厄介にしたのは……と頭に脳天気な顔が浮かんだところで、メルクがさっと表情を変えて扉を見た。小動物が危機を感じで警戒する様にそっくりだ。
「高貴なお方が来そうな気配だから、庶民はお目汚しする前に退散するよ」
メルクはコーヒーをぐいっと一気に飲み干すと、ワインの木箱を抱えて逃げるように中庭へつながる窓へ乗り出した。
「別にそこで呑んだくれててもいいぞ」
「やめておくよ。学生たるもの、勉学に励み、書物を読みあさり、議論を交わし、日々、学業に邁進することこそ勤めだ!だというのになんたる怠慢!名誉と伝統あるウィーベル大学に席を置く身としてなんたる態度!と彼に非難されるのが目に見えているよ」
メルクはひらりと窓枠を飛び越えていった。たとえここが二階でも、身軽なメルクなら綺麗に着地しているだろう。
メルクの姿が見えなくなったと同時に、ドンドンドンドンと馬鹿でかいノックが二回に分けて聞こえてくる。
伝統的な作法に則ったお貴族様の来訪を告げる回数だが、あまりの力強さに騒音としか聞こえず、マナーとはなんぞやと考えさせる。どうやらお付きのモースリーはご機嫌斜めなようだ。俺に機嫌がよかった試しはないが。
返事もせずに研究に忙しい風を装い、近くにあった書物を適当に広げていると、扉が荒々しく開かれる。巨体を折り曲げ、扉からモースリーが顔をだした。
彼は本を熱心に読んでいる俺を見ると今にも舌打ちしそうな顔をしてにらんだ。
「いるならすぐに返事をしろ。不敬だぞ」
「大変失礼しました。書物に集中していたため気付きませんでした。何かご用でしょうか、殿下」
腰をあげ、うやうやしく配下の礼を示すと、モースリーの後ろから人影が現れる。
濃紺の学生服に鮮やかな金髪がまばゆく映え、青空のように澄み渡る瞳には無垢さが宿っていた。誰もが一瞬で目を奪われる気品をたずさえた少年は、それに伴った位を持ち合わせ、ふだんは頭の高い教授さえもひざまずかせる。隣国フィレッダ国第四王子のユーリアだ。
「もしや作業中だったか?」
立ち振る舞いの高貴さとは裏腹、友人のような気軽さで話しかけてくる。
どうやら部屋の前の張り出しは、モースリーの体に隠れて見えなかったようだ。
少なくとも扉を開けたモースリーには見えているはずだがと彼を見れば、素知らぬ顔をした。共通語が読めないのか、こいつは。
「ちょうど休憩中だったのでお構いなく」
「そうか! ならよかった。折り入って話がある」
ユーリア王子はつかつかと研究室に入ってくると、席に優雅に座った。
「学長選挙当日のことだが、父から
「絶対に俺がいるべき席だとは思いませんが」
ちらりとユーリア王子の背後で立っているモースリーを見れば、苦虫を潰した顔をしていた。
「友人としてならば問題ないだろう」
絶対に問題がある。ただでさえ、学生ごときが選挙権を持っているイレギュラーな事態を気に入らない輩は多い。
学内一の鼻つまみ者でなければ、表だった妨害もありえただろう。王子の提案を快く快諾してくれる人間が、この大学にいるとは思えなかった。
顔にもろもろの表情がでていたのだろう。ユーリアは残念がるような顔をした。
「君にも事情があると思う。すぐに返事が欲しいとは言わない。じっくりと考えて欲しい」
「ユーリア様、休憩時間が終わります」
モースリーが告げると、ユーリアはむっと不満気な顔をした。
「ここは講義棟から遠くて不便だな」
俺はよかったです。頻繁にあなたがこなくて緊張せずにすみます。
「いっそ授業の場所をこの棟でできないか教授たちに頼んでみようか」
あなたに媚びを売りたい連中によって実現しそうだからやめてくれ。
「快い返事、待っている。君の選択が未来を変えると私は思っているよ」
俺の周辺事情をことさら厄介にした張本人は笑顔で言うと去って行った。
少し休憩するつもりが、来訪者が立て続けに現れ休めた気がしない。
はあ、とため息をついて先ほどの話を思い返す。
四つの国に囲まれ緩衝地帯に立地するウィーベル大学は、政治的にも中立の立場をとっており、人種分け隔てなく知を求めるものすべてが学べる場をモットーとする。
入学にはそれ相応の実力が求められ倍率は優に百倍を越えるが、名門大学出身の箔をつけたい貴族専用の裏口入学があるとかないとか。
教授たちは各国出身の選りすぐりの者たちばかりだが、中でもユーリアの故郷である大国フィレッダ国出身の教授は一大派閥を築くほど多い。
この大学に在籍しているユーリア王子の言葉は、フィレッダ国の意思と言っても差し支えない。ゆえに今回の学長選挙を左右する第一人物であるとされていた。
そんな中、ユーリア王子が「学長選挙? ロクスの選択を支持するよ」と口走ったばかりに、研究室の片隅で細々と生きていた人間が選挙の中心人物になるとは誰も予想できなかっただろう。
正直、勘弁して欲しいというのが素直な心境だ。
再びため息をつく。この状態で集中力を要する切り出し作業が再開できるだろうかと考えていたら、ノックが再び鳴った。
どいつもこいつも、張り紙は見えないらしい。
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