第八章 海を見下ろす家
翌朝、姫奈は瑠央のキスで目覚めた。そして、ここが埼玉の家ではなく、仙台のラブホテルの一室であることを思い出す。
姫奈は現実を実感する。私たちは逃避行の最中なんだ。もうお父さんやおじいちゃんたちとは暮らさずに、兄の瑠央と共に生きていく人生を選んだんだ。
姫奈は不安の感情と共に、喜びに包まれる。決して楽な道ではないだろうが、兄と一緒なら、どこにだって行けそうな気がした。地の果てでも、あるいは地獄だろうと。
それに、今日は待望の『白い家』を見学する日なのだ。遊園地に行く朝のように、とてもわくわくしていた。
「おはよう」
白雪姫の王子様のように、キスで姫奈を起こした瑠央が、こちらをのぞき込んでいる。瑠央もまだ起きたばかりらしく、裸のまま隣にいた。
「おはよう」
今度は姫奈のほうから、瑠央へとキスを行った。兄の整った唇を味わい、蕩けそうな恍惚感に心が覆われる。幸せの瞬間。世界でただ一人、愛する人との大切なひととき。
兄妹の許されざる時間は、やがて過ぎ去る。姫奈は、瑠央の唇から己の唇を離した。
「朝ごはんにしようか」
瑠央がそう言い、姫奈はこくりと頷いた。
昨日、予めスーパーで買っていた弁当を二人で食べる。もしも、ここがコンドミニアムのようなキッチン付きの部屋なら、料理を作りたいところだが、残念なことにこの部屋は設備不足だ。
仕方がない。兄と『白い家』に移り住んだあとに、その時こそ、腕によりをかけた手料理を振舞ってあげよう。
朝食を済ませ、二人は部屋を引き払った。キャリーケースを引き、一旦、仙台駅を目指す。
昨日から降っていた雨は止んでおり、澄んだ空が二人を見下ろしていた。地面はまだ濡れているが、空気はからっと晴れている。
二人は仙台駅に到着した。構内にあるコインロッカーに荷物を預け、不動産へと向かう。今日も平日だが、朝のラッシュアワーはとうに過ぎているため、人混みはさして多くはなかった。
不動産屋に着いた頃には、約束の時間を少し回っていた。店舗の前に、社用車らしき白い小型のセダンが停まっているのが目に付く。
前を歩く瑠央が、不動産屋の入り口の扉を開け、店内に入った。姫奈も瑠央に続く。すぐさま、昨日応対した中年女性が、営業スマイルで二人を出迎えてくれた。
お互い、簡単な挨拶を済ませ、早速本題へと移る。案の定、表に停まってあるセダンで、物件がある七ヶ浜町までいくらしい。
内見の案内も、この女性が務めるようだ。受付の女性と思ったが、どうやら営業職と兼ねているらしかった。
瑠央と姫奈は、女性の案内を受け、表にあったセダンの後部座席へと乗り込んだ。
最後に中年女性が運転席に乗り、車は出発する。ちょっとしたドライブの始まりである。
目指すは東のほう、海がある方面だ。太平洋を望む場所に、『白い家』は建てられていた。
道中、担当の女性は色々と話しかけてきた。やはりこの女性は二人を成人したての若い恋人だと思っているらしく、内見の目的も聞かれた。辺鄙なところにある物件をわざわざ若いカップルが購入を検討するなど、結構珍しいのだろう。
女性の質問に、姫奈は素直に答える。物件を目にし、一目惚れをしたと。
姫奈の説明に、女性は感謝の意をあらわにした。姫奈に対し、お目が高いと、着眼点の素晴らしさを褒めてくる。
不動産屋の女性は、やたらとおべっかを使っていた。現在、売れ残りの物件を処分できる機会が訪れているのだ。あわよくば、自分の担当の時に売れてしまえば、実績になると踏んでいるのだろう。
あんな素敵な家が売れ残りだなんて、信じられなかった。姫奈にとっては、悲しい事実である。しかし、建っている場所が場所なだけに、致し方ない点があるのだろう。太平洋沿岸の、ほぼ東日本の端っこなのだから。
そのあとも、瑠央を交えて、雑談は続く。二人が結婚を考えている恋人同士であり、いずれ子供を作って、素敵な家で暮らすことが夢である旨を伝えた。
それに対し、女性は瑠央と姫奈のことを、とてもお似合いの素敵なカップルであるとの感想を述べてくれた。それには、嘘偽りがなさそうで、姫奈は喜びに包まれる。やっぱり私たちは運命の赤い糸で結ばれているベストカップルなのだ。
やがて、車は目的地である『白い家』が建っている場所に到着した。
「本当に素敵」
直接、その家を目の当たりにした姫奈は、思わずうっとりと、感嘆の声を漏らした。眼前にある建物は、ファンタジー世界から抜け出してきたかのような美しさを誇り、しばらくの間目が離せなかった。
現在、姫奈たちは、宮城県内の宮城郡に属する七ヶ浜町という場所にいた。七ヶ浜町は、太平洋沿岸に位置する町であり、そのほぼ東の端っこに姫奈たちは訪れていた。
夢にまで見た『白い家』は、まるで『水神宮』のように、海を見下ろす丘の上に建てられていた。荒れ狂う大海原を治めるため、高台にて鎮座しているのだ。
左岸には、河口が形成されており、陸地から流れてきた川が海へと合流していた。
『白い家』は、海と川の間に浮かぶ家として存在しているのだ。
「素敵な家だね。お兄ちゃん」
姫奈は、瑠央の腕に抱き付いた。まるでシンデレラ城を前にした時のような、煌びやかな気分に包まれている。
この家で、兄と一緒に暮らしたい。結婚し、子供を授かって、家族で幸せに過ごすのだ。
「ああ。素敵だな。本当に」
兄も気に入っているようだ。嘆息しながら、姫奈の感想に同意を示す。
「中を見学できないかな?」
外観も素敵なら、おそらく、建物内部も同じく素敵な造りになっているに違いない。瑠央や子供たちと共に生活する空間なのだ。早くこの目で確かめたかった。
「担当さんに言えば見れるんじゃないか?」
瑠央は、離れた位置で待機している不動産屋の女性を顎でしゃくった。
姫奈が女性に、内部の確認を要望すると、女性は懐から鍵を取り出し、快く了承した。
女性に連れられ、二人は建物の内見に移る。
『白い家』の内部は、外から見るよりも想像以上に広く、居住性が良さそうな造りだった。築二十年と説明を受けたが、前の住人が住んだ期間が短いのか、古さは一切感じず、綺麗な状態を保っていた。
建物の構造は、二階建てで、5LDKほどの間取りがあった。元は、別荘を想定して建築されたのだろう。それぞれの部屋の造りが、通常の住宅よりも大きめに取られているのも特徴的だった。
海側に面している庭も広く、体育館の半分くらいの面積があった。子供のための遊具も数多く設置できそうで、用途は無数に想定できた。
『白い家』の内見は、姫奈に予想を超えた期待と喜びを与えてくれた。兄との『結婚生活』がより素敵になるのだと確信があった。
一通り内見が済み、瑠央は本題へと入る。
「あの、売り家とありましたけど、賃貸では駄目ですか?」
瑠央は直球に質問する。不動産屋の従業員女性は、少しだけ困った表情を浮かべた。
もしも、購入ならば、今の二人の経済状況では厳しいものがあるだろう。家出中の身で、家を購入などまずは不可能に近い。
しかし、兄が以前語ったように、賃貸ならその限りではないはずだ。
「この物件は売り家として公開してるんですが……」
難色を示す女性の態度に、姫奈は落胆を覚えた。やはり、願いは叶わないのだろう。天は二人の味方ではないのだ。
禁断の兄妹愛。速秋津日子神と速秋津比売神のように結ばれる運命にはなく、あるいは、ゲブ神とヌト神のように、助っ人が現れるわけでもないのだ。
姫奈が絶望に打ちひしがれた時だった。女性は、言葉を訂正した。
「とはいえ、会社と相談すれば、賃貸として貸し出せる可能性もあります」
女性の言葉を受け、姫奈は、ぱっと顔を明るくさせた。思いもかけない好転を迎え、姫奈の胸は躍る。本当に、兄と一緒に『白い家』での新婚生活が叶うかもしれない。
女性は続けて言う。
「会社に帰り次第、上司へ掛け合ってみますね。もしも良い結果なら連絡致します」
姫奈と瑠央は顔を見合わせた。そして微笑み合う。これは間違いなく、吉兆だ。
おそらく、女性が妥協案に傾倒した理由は、『白い家』が購入される目処が一切立っていないせいだろう。このまま売れない物件を抱えるよりかは、賃貸でも収入を得たほうが好都合だと判断したのだ。
追い風が吹き、姫奈の気持ちが昂ぶった。速秋津日子神と速秋津比売神が味方をしてくれているのだ。そう確信を持った。
やがて、内見の時間は終わりを迎え、仙台市内へ帰る時間となる。
担当の女性が車の準備をしている間、二人は、『白い家』をバックに、手を繋ぎ、丘の先端から海を見下ろしていた。
高く昇った太陽の光を受け、水面がダイヤモンドのように輝いている。爽やかな波の音がここまで聞こえ、気分が晴々となった。
左岸にある河口から流れてくる川の水と、海の水が合流し、一部分だけ色が変化している光景が目に入る。川の水のほうが流れが速いために起こる現象だろう。
『白い家』が建っているこの丘は、結構な高さがあった。下のほうでは、白い波が岸壁に打ち付けられている。もしも落ちれば、人間などひとたまりもないだろう。
波のうねりを眺めながら、姫奈はしみじみと思う。今日の内見は大成功だった。幸せな未来が訪れそうな気がした。
姫奈は大きく深呼吸を行う。潮の香りを孕んだ空気が体を巡り、姫奈の気持ちはさらに高揚した。ここは空気も綺麗なのだ。本当に良い場所である。以前夢で見た光景のように、兄との間にできた子供たちは、この清浄な空気の中、日の光を浴びながら遊ぶのだ。
夢想が頭の中を占領する。夢想はやがて、現実のものとして昇華を果たす。今はいないはずの子供たちの声が、波の音に混ざって、聞こえてくる気がした。
姫奈が幸せを噛み締めた時だった。隣にいた瑠央が、言葉を発した。
「姫奈。伝えたいことがある」
瑠央の口調はどこか固かった。
瑠央はずっと思案していた。不動産屋の女性が融通を利かせてくれて、『白い家』の貸借が可能である展望もみえてきた。だが、瑠央はほぼ確信する。瑠央と姫奈、二人の未来は破綻を迎えるだろうと。
上手くいけば、『白い家』の物件を借りて、夢物語だった『新婚生活』を迎えることが可能かもしれない。
しかし、そのあとはどうする? いつまでも二人の逃走資金が持つわけではないのだ。いずれ、生活資金は底を尽きるだろう。その場合、どうやって、家出中の高校生二人が収入を得ればいいのか。
東京にいる父と祖父母も、血眼で二人を捜しているはずだ。このまま発見されなければ、捜索願が警察に届出されるのは火を見るより明らかだ。そうなったら、逃げ切るのは不可能に近い。
いずれ、二人は間違いなく、父たちの手に落ちるだろう。無力な未成年の末路。当然の成り行きである。
そして、今度こそ、瑠央と姫奈の仲は、永久に引き裂かれてしまうはずだ。探偵を雇い、二人の逢瀬の事実が露呈したあの晩。父は宣伝したではないか。弁護士を使い、法的措置を下すと。
そればかりではない。どのような方法かは不明だが、人を使い物理的にも監視を図ると言っていた。
連絡も不可能になるだろう。これまでのように、スマートフォンのチェックや監視アプリなどと生温い措置ではなく、確実にコミュニケーションが取れなくなる手段を講じてくるはずだ。
大気の神である父親のシュウによって、仲を引き裂かれたヌト神とゲブ神のように、瑠央と姫奈は離れ離れの人生を送らざるを得なくなる。
だが、そうなった場合の『計画』が存在していた。ずっと考えていたのだ。父たちを篭絡できる方法。二人だけが共有している条件。
瑠央は姫奈に全てを説明した。二人の逃避行がいずれ破綻すること。父たちの元に引き戻され、連絡すらできなくなること。永久に会えなくなること――。
夢にみた家で、兄と暮らす希望を抱いている妹は、表情を大きく曇らせた。潮風により、ツーサイドアップの髪がたなびいている。今すぐにでも泣きそうだ。子供から宝物を取り上げたようで、心が痛くなる。
ごめん。姫奈。辛いだろう。だけど、ここからが重要なんだ。
そして瑠央は説明する。二人の仲が引き裂かれた場合の対処法を。
瑠央の『計画』を聞いた姫奈は、固く唇を結び、こくりと頷いた。
姫奈は瑠央のあとに続いてセダンの後部座席に乗り込み、扉を閉めた。
不動産屋の女性が運転するセダンが発車し『白い家』が後方に流れていく。
徐々に離れる『白い家』を後部座席のガラス越しに眺めながら、姫奈はぼんやりと思う。
次、あの家を訪れる時は、いつになるのだろうと。それとも、もう二度とあそこには戻れなくなるかもしれない。憧れの家。ようやく直接目にできたのに。
姫奈は、先ほど兄が伝えてきた話について、思いを巡らせた。
逃避行が必ず破綻を迎えると、瑠央は言っていた。それが事実なら、とてもショックだ。兄との新天地における『新婚生活』を夢見ていたのに、居住すらままならず、終わってしまうのは想像すらしたくなかった。
それに加え、父や祖父母の元に戻された場合、今度こそ兄とは会えなくなる恐ろしい現実が待っているのだ。より一層、情報は統制され、連絡など一切取れなくなる。
兄との『行為』が発覚した時も同じだったが、今回はそれ以上に絶望を姫奈に植え付けるだろう。生きる意欲が失われてしまうほどに。今から想像しただけでも、吐き気が込み上げてくる。
しかし――。
禁断の兄妹愛の末、二人が行き着く先は暗い釜の淵だが、兄は解決策を導き出してくれた。
兄は対応策を教えてくれた。二人の仲が引き裂かれた場合の緊急措置。
姫奈は兄の『計画』を頭の中で反芻する。まだ『その時』は訪れていないが、多分上手くいくだろう。
まだ希望は潰えていないのだ。私たちには、兄妹愛の神様が付いているのだから。
すでに『白い家』は見えなくなり、まばらに家々が点在する森閑とした風景が車の外に広がるのみだった。
頂点を過ぎて傾き始めた太陽が、淡い光を姫奈の顔に投げかけていた。
仙台駅前の不動産屋に戻った時は、すでに正午近くになっていた。
二人は礼を言い、車から降りる。そして、事務所の中で簡単な話をした。七ヶ浜町で伝えたとおり、今は賃貸でなければ二人は住めない旨を瑠央は再度説明する。
女性は真摯に受け止めてくれており、会社に掛け合うとの約束をしてくれた。今の所は、連絡待ちということだ。
一通り話が済み、本日の内見は終了を迎える。丁寧な対応をしてくれた担当の女性にお礼を言い、二人は店舗を出た。
不動産屋を離れ、仙台駅を目指す。コインロッカーに預けた荷物を回収するためだ。
正午近くとはいえ、東北地方最大の駅近くであるため、通行人は非常に多い。二人は人混みを縫うようにして歩く。
仙台駅前のロータリーを抜け、東口にあるエスカレーターを目指した。エスカレーターから上はペデストリアンデッキになっており、駅構内に続くコンコースや、色々な商業施設が並んでいる。
瑠央と姫奈が東口エスカレーターに近づいた時だった。エスカレーターの上り口近くに、警察官が二人いることに気がつく。
警察官たちは、職質を行っているようだった。中年と結構若い男の二人組み。現在、瑠央たちと同じくらいの年齢の男女と話をしていた。このまま進めば、彼らの眼前を横切る形となる。
もしかすると、瑠央たちを探しているのかもしれない。姫奈と繋いでいる手に、力がこもった。すぐにでも、引き返さなければ。
瑠央は、踵を返そうとする。しかし、寸前で思い止まった。
ここで下手に逃げる真似を取ったら、かえって不審がられてしまうかもしれない。相手はプロなのだ。不審者に対する目敏さは一級品だろう。
人通りの多い今の状況なら、さりげなくそばを通ることが最善策だと思われた。
姫奈と目配せし、手を繋いだままエスカレーターのほうに進む。
警察官と、職質を受けている男女の真横を通り過ぎようとする。心臓の鼓動が相手に聞こえるのではないかと思うくらい、激しく脈動していた。
警察官たちに最も接近するポイントで、ちょっとだけ会話の内容が聞こえてくる。
「若い男女……家出……」
二人はそのまま通過し、エスカレーターへと乗った。自動で送られる階段に乗りながら、瑠央は背後をちらりと振り返った。
そこで、警察官のうちの一人と目が合う。中年のほうの警察官だ。探るような視線。瑠央はとっさに目を逸らした。
エスカレーターで二階のペデストリアンデッキに上る。そして瑠央は姫奈の手を引き、急ぎ足で通路を渡り、構内に入ると、中央改札口にある切符売り場に向かった。
「どこにいくの?」
姫奈が慌てたように尋ねてくる。思えば、次の行き先すら決めていなかった。闇雲に動き回れば、すぐに足がつくだろう。
それに、先ほどの警官は……。
「荷物は後回しにして、ここを離れよう」
時刻表で、列車の発車時間を調べる。上下線とも、次の列車まで少し間があった。
「反対方面へ行ってみよう」
列車に乗るのを諦め、瑠央はやってきた方向とは逆にある、青葉方面を目指すことにした。中央改札口を離れ、目の前の西口から外に出る。そして、ペデストリアンデッキを歩き、降り口を探す。
瑠央は、背後を振り返り、出てきたばかりの西口を確認した。
先ほどの警察官たちが、ちょうど西口のガラス扉を通って外に出てくるところだった。行き交う利用客の合間を縫って、二人の警察官の視線がこちらに刺さっている。獲物を追う獣のような目。
「急ごう」
瑠央は姫奈を促す。強い不安をひしひしと感じた。地の底を這っているみたいだ。もしかすると、すぐにでも『逃避行』は終わりを迎えてしまうかもしれない。
歩調を早めた時だ。背後から二人を呼び止める声が聞こえてきた。
「そこの二人。ちょっと待ちなさい」
瑠央はその声を無視する。他の利用客を避けつつ、足早に進む。姫奈も事情を悟ったらしく、固い表情で付いてくる。
高架歩廊を抜け、発見した階段から下に降りる。降り立った場所は、西口のバス乗り場付近だ。バスに乗ろうかと一瞬考えるが、逆に自ら追いつめられる形になるのだと悟り、徒歩で逃げることにした。
バス乗り場を抜け、二人は歩道に足を踏み入れる。再度、背後を確認すると、警察官たちは階段を下りてきている途中だった。やはり、我々を追ってきているのだ。
「姫奈、走るぞ!」
瑠央は姫奈の手を引き、走り出した。姫奈も必死についてくる。
背中に警察官の怒号が突き刺さるが、気にせず走った。終わらせてたまるか。いつか破綻を迎える逃避行だろうと、まだまだ姫奈と一緒にいたかった。
二人は、肉食獣に追われる草食動物のように、ひた走った。
息をせっついて立ち止まったところは、仙台駅から西に位置する青葉区の仙台中央のエリアだ。そこにある青葉通りいう名の大通りまで逃れてきていた。
ちょうど昨日、瑠央たちが足を踏み入れた宮城野通りの反対側に当たる場所だ。人の往来はやはり多い。
二人は息を整え、背後を確認する。二人を追ってきていた警察官の姿は見えない。どうやら上手く巻いたようだ。
「荷物はタイミングを見計らって取りに行こう」
あの警官二人は、瑠央たちを標的にしていた。瑠央たちが、たまたま公僕の嗅覚に引っかかったのか、あるいは家出した情報がすでに警察に流れていたのかは判別し難いが、少なくとも、今の状況下で駅に戻るのは危険だった。
「これからどうするの?」
姫奈は不安そうに訊く。形の良い目が曇っていた。当然だ。終わってしまう寸前だったのだ。警察に職質された時点で二人は即、歩道対象となるだろう。そのあとは、問答無用で父と祖父母の下へ連れ戻されるはずだ。すなわち、姫奈との決別を意味する。
「今夜泊まる場所を確保しよう」
幸い、財布は身に着けていた。ラブホテルに泊まるくらいはできるだろう。着替えの服は駅のロッカー内だが、仕方がない。また買うしかなかった。
二人は青葉通りを西に進むことに決めた。駅から少し離れたほうが、危険度は低いためだ。
スマートフォンで近くのラブホテルを探しつつ、歩道を歩く。この辺りは、仙台駅前のメインストリートであるため、車道も広く、沢山の車両が通っていた。特にバスが目に付き、重苦しいエンジン音が歩道にまで響いてきていた。
バスや自動車は気にする必要はないが、パトカーには気を配らなければならない。できるだけ早く、この目抜き通りを脱出したほうがいいだろう。
大勢の通行人とすれ違いながら、瑠央は今夜の住処を探す。やがて条件に合ったラブホテルを発見したので、瑠央は横道に入り、目的地を目指した。
到着したのは、仙台駅から随分と離れた大町という場所だった。近くに西公園と呼ばれる大きな公園がある。
その近辺に、瑠央たちが捜し求めたラブホテルは存在した。普通のマンションにも見える地味な建物で、人通りが少ない奥地に建っていた。昨日泊まったラブホテル同様、警察に捕捉されるリスクが少ないと思われる立地条件である。
また、料金の支払いが前払い制であるのも、選択した理由の一つだった。
二人はラブホテルに入り、ロビーでお金を払う。そして、指定した部屋がある上階へエレベーターで昇った。
部屋に着き、中に入ると瑠央は言う。
「動き出すのは日が落ちてからにしよう」
今はまだ警察が二人を捜している可能性があった。それに、通常の職質にも警戒する必要もある。
「荷物はどうするの?」
「明日取りに行こう」
駅へは極力、時間を置いてから訪れたほうが賢明だろう。捕食者がうろつく駅は特に危険なのだ。
「替えの服は、日が落ちてから近くのショッピングセンターで買おう」
そこでついでに夕食も購入すればいい。そして、明日になり、人通りが多くなってから、駅で荷物を回収する流れだ。
姫奈と予定を組んだあとは、一緒にシャワーを浴びた。それから流れるようにして、セックスを行う。
今回のセックスは、いつもにも増して情熱的だった。お互いに貪るようにして求め合っていた。さながら命が尽きる寸前の獣だ。破滅の足音が聞こえていることによる本能が、二人を熱情の世界に誘っているのだろう。
終わったあと、瑠央の腕の中で姫奈はうっとりと呟いた。
「今日はすごかったね」
よほど満足したのか、姫奈は目を爛々と輝かせながら、甘えたように瑠央の胸に顔を付けてくる。瑠央は姫奈の頭を撫でた。
「ああ」
いずれ終わりを迎える逃避行。いつまで姫奈と肌を重ねられるかわからなかった。今こうして姫奈と裸で抱き合っている今こそ、最後かもしれないのだ。
瑠央は姫奈の顎に手を伸ばし、そっと顔を上げさせると、優しくキスを行った。
日が沈み、二人は出掛ける準備を行う。とはいっても、特に荷物などはなく、着の身着のままでの外出になるのだが。
部屋を出た二人は、手を繋いでロビーへと下りる。そして、無人の空間の中、自動扉を通って外へと出た。すぐさま夜の空気が二人を包む。
このラブホテルは、袋小路のような所にある建物なので、周辺に街灯が少なく、外は闇の色が濃かった。
目指すは、近くにあるショッピングモール。服や食料、必要な物品を買わなければならない。
瑠央と姫奈が路上を歩き出した時だった。それが起こった。
「ようやく見つけたぞ。二人とも」
暗がりの中、聞いたことがある声が瑠央の耳に届いた。その人物は待ち構えるようにして、目の前の路上に佇んでいた。しかも一人ではない。
「警察から連絡があって、きてみたらこんな場所で……」
父の隣にいた人物が、心底呆れたような口調でそう言う。これも知った声。
瑠央は絶望に捕らわれる。そんな、まさか……。
目の前にいたのは父の宗弘だった。隣には祖父の修二郎。それだけではない。なぜか兼子もおり、また警察官も背後に控えている姿が確認できた。
手を繋いだまま、二人は硬直する。宗弘たちは明らかに瑠央たちを待ち伏せしていた。つまり、二人がこのラブホテルに宿泊している事実を掴んでいたのだ。一体、どうやって探り当てたのだろう。
いや、そんなことよりも、今の状況を切り抜けなければ。
瑠央は姫奈の手を引き、踵を返した。前には進むのは不可能。ならば、ラブホテル内の自分たちの部屋まで逃げ込む以外、生き延びる術はなかった。
だが、それすらも阻まれてしまう。いつの間にか、父たちに同行していた警察官が二人の後ろに回り込んでいたのだ。
「観念しなさい」
若い警察官は、瑠央の肩を掴み、そう言った。警察官の顔をよく見ると、昼に二人の後を追いかけてきた警察官の一人であることに気がつく。
父の宗弘が、心を読んだように瑠央の疑問に対して説明する。
「捜索願を出したあと、警察から仙台駅でお前たちを発見したと連絡があったんだ。それで、防犯カメラを元に、お前たちの動向を調べてこの場所に行き着いたんだよ」
瑠央は目を瞑りたくなった。防犯カメラからここまで嗅ぎ付けられるとは。急場とはいえ、考えが甘かったかもしれない。
「お兄ちゃん」
姫奈の手を握る力が強くなる。もう二度と離れたくないと言わんばかりに。瑠央も同じ気持ちだった。心臓が不安とショックで、壊れたエンジンのように不規則なリズムを刻んでいた。
そんな二人に父が宣言する。
「下らない逃走劇は終わりだ。大人しくしなさい」
二人の逃避行の終焉を告げる鐘の音が鳴った瞬間だった。
そのあと二人は、あっさりと引き離され、別々の車に乗せられた。どうやら父と祖父母は自分の車で仙台まで来たらしく、ナンバープレートも東京のものだ。
仙台まで距離は相当あるので、知らせを受けたあとすぐに、東京を出てきたことになる。相当なフットワークの軽さだ。
警察とのやり取りを済ませた父は、運転席に乗り込み、車を発進させる。瑠央は後部座席に乗せられていた。隣には兼子。容疑者を護送する警官のように、鋭くこちらに視線を向けていた。
後方に流れいく仙台市内の景色を眺めながら、瑠央は茫然自失としていた。魂が抜けたようで、現実感が湧かず感情すら色褪せていた。
亡者のようになった瑠央に、父が辛辣な言葉を投げかける。
「前にも言ったが、お前たちを二度と会わせないために法的措置を取らせてもらう。それに、監視役も付ける。姫奈とお前の仲は終わりだと思え」
瑠央は何も返事ができず、シートにもたれたまま、窓の外を眺めるのみだった。このまま反論しても一切が無駄だろう。父は堅牢な金庫のような意思を持っている。今度こそ姫奈との仲を引き裂こうとしているのだ。大気の神、シュウのように。
心の中でぼんやりと思い出す。姫奈が夢に見ていた『白い家』の姿。二人で手を繋いで眺めた海原の景色。その時に交わした『約束』について。
二人の兄妹に待ち受けるは絶望の未来だが、まだ光は決して失われてはいなかった。蜘蛛の糸のようにか細いが、まだ終わりではないのだ。
瑠央は景色を眺めながら、自身と妹が辿るべき未来を想像する。前途多難であるが、二人ならきっと渡りきれるはずだ。
瑠央は心の中でそう誓った。
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