第1章 兵士

第1話 クランツァ・ハザリー

「クランツァ」


 名前。俺の名前だ。帝国ではハザリーと呼ばれていた。

 ハザリー中尉。クランツァとはあまり呼ばれなかった。軍隊とはそういうものだ。自分にとって名前はただの記号でしかないが、特別な意味や願いが込められているのだろう。しかしそれを知る機会はなく、興味もなかった。


 顔を上げる。オルト・ゲラスが乾燥肉を手に持っている。ここは彼の肉屋で、肉を買いにきた。何を考えていたのか、何を思い出していたのか。最近、頻繁に集中が途切れる。意識がぼんやりして時間が飛ぶ。確実に悪化している。


「ありがとう」


 感謝を伝え、麻袋に肉を入れる。


「最後に笑ったのはいつだ」オルトが言った。


 質問の意図がわからず、返答が遅れる。


「いつ笑ったか、いちいち覚えてるやつがいるのか」

「お前との付き合いはもう二年以上になるな」

「早い」

「この二年間、お前を観察した結果を教えてやろう」

「せっかくだし聞こうか」

「お前が笑ってる瞬間を見たことがねえ。渾身の冗談を飛ばしても、酒場のバカといてもその面だ。仮面でも被ってんのか、おい」

「こういう面で生まれたんだ」

「今日から顔の肉を揉みまくれ。これを日々の習慣にしろ。顔の筋肉ならなんやらが全部固まっちまってんだよ。ガキがクソしけた面してちゃあ未来は真っ暗だ」

「あんたこそ自分の腹をどうにかしないか。その腹じゃ寿命が縮む」


 オルトは並びのいい歯がすべて見えるほど口角を上げた。


「これは貯蓄だ」


 彼はそう言って自慢げに大きな腹を叩いた。

 初めて会ったときのオルトは精悍な面をしていて身体も引き締まっていた。それがこの二年で家畜の豚だ。怠惰な中年男に変貌し、まるで別人になってしまった。いつかこの肉屋の商品に並ぶのも遠くないだろう。


「その銃はどうした。お前、それは持ってなかったろ」


 オルトが指をさす。俺の右肩にかけてある長身の小銃に。


「さっき買った」少し身体をひねって見せる。

「猫店長んとこでか」

「そうだ」

「狩り用か?」

「それもある。拳銃だけじゃできることは限られてる」右腰の拳銃に触れる。

「いつも銃を持ち歩いてるのも変わらんな」


 オルトは呆れたようなため息をついた。


「小銃はだいぶ触っていなかった。ラマチェフもそろそろ銃の時代が来ると思ってる」

「だろうな。ラマチェフで魔術を使えるやつは滅多にいねえからな。帝国の魔術師たちは戦々恐々だろうよ。狩りは魔術から銃へ。支配は魔術から銃へ。戦争は魔術から銃へ。魔術を超える力を金で手に入れられる時代ってわけだ」


 新しい客が隣に立った。紫と金を混ぜたような鱗の爬虫人だ。顔は馬のように前方に長く、目は蛇のように黄色い。爬虫人は手短に肉の種類を述べ、オルトは手早く対応した。客は品を受け取ると都の人混みの中へ歩いていった。


 ラマチェフ共和国の都に初めて来た当時、人間と異人種が混在する光景には衝撃を受けた。エト帝国に異人種はいない。人間至上主義の下、異人種を駆除しているからだ。もはや帝国には人間だけしかいない。


「ラマチェフの種族比率はどうなってる」人の流れを見ながらオルトに訊く。


「人間が七割、異人種が三割だったはずだが、都の話だ。地方は知らん」

「異人種で魔術を使える者はいるのか」

「ごく少数はいるんじゃねえのか? 俺は会ったことねえけどな。つーかお前は過去に習ったりしてねえのかよ。帝国生まれだろ、お前」

「魔術は血筋が重要なんだ。先天的な能力だ。俺は普通の人間で、物心ついた頃から銃で戦ってきた」

「ああ、そう言ってたな」彼の荒々しい口調が弱まる。「そいつで何か仕留めたら持ってこい。適正価格で買い取ってやるからよ」

「デカいの持ってきてやる」


 彼は手を上げた。こちらも軽く手を上げ、背を向けた。

 露店が並ぶ大通りを歩く。市場は活気があった。連日の雨で稼げなかった分を稼ぎたいのだろう。行商人の荷台が多く停まっている。馬が退屈そうに地面に首を伸ばして鼻をもごもごと動かしている。


 雑踏の中は神経が敏感になる。


 帝国内で指名手配されていると知ったのはラマチェフに来てから一ヶ月後のことだった。


 帝国陸軍の裏切り者。刑務官を殺した脱獄犯。


 帝国の治安監視官が俺を探している。帝国が殺し屋を雇ってラマチェフに送ってくる可能性も高い。生け捕りはないだろう。帝国の敵である魔女ならまだしも、たかが男一匹を見せしめにしたところで民衆は喜ばない。


 足を止める。


 あの感覚が始まった。


 色が、現実が、薄まっていく。

 

 音が遠くなっていく。

 

 感情を出せ、という奇妙な焦燥。

 

 背後から抜け出ていく感覚。

 

 身体が異物に感じる。

 

 身体が勝手に動く。

 

 自分のものに感じない。


 自分の意思がない。


 なら、今考える俺は何だ。

 

 考えても意味はない。

 

 この世のすべてに、意味はないのだから。


 誰かがぶつかった。

 現実感がすっと戻り、反射的に小銃を取る。前方へ倒れた者に向ける、が、弾倉未装填。鈍っている。すぐ拳銃を抜く。


 フードを被っている。黒茶の外套、ボタン付きの白い上衣。上等な服。女だ。

 女は素早く上半身を起こした。フードが脱げて顔が露出する。少女。真紅の長髪と白い肌。知性と意思を予感させる力強い眼。まるで王族の娘みたいだ。


「どいて!」


 少女はそう叫ぶと立ち上がった。

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