雪は積もる。雪は溶ける。

ひとからの同情や共感は、本当に同情や共感なのだろうか?自分自身が内面で抱える不安や不信や不穏を、なぜ他人は勝手に理解し納得し規定することができるのか。それは不安定な自分を社会の殻で押し固めているだけではないだろうか?

10代の頃にそんなことを考えた人も、決して少なくは無かろうと思います。本作は架空の病気を用いて「性転換」をテーマにしていますが、奏太の抱える悩みと苦しみ、内心の秘密を表に出せない罪悪感は、普遍的な共感を得られるものと思います。
誰ひとり、悪い人はいない。余りに恵まれた環境で次々に降りかかる「やさしさ」は雪のように降り積もり、否応なく個人を規定し、教導していきます。それは本当にやさしさなのか?ただ社会が押し付ける「枷」ではないのか?果たして示された道をそのままに進んでもよいのだろうか。前半の息の詰まるようなやさしさの連打は、なかなかに辛いものがある。そういう味わい。

でも、凍り付いた積雪の下で生まれた種は、やがて訪れる春と共に自らの咲くべき場所を見いだし、そこで花を開きます。それもまたやさしさ、奏太の抱えた不安と不信と不穏を切り捨てずに受け止めることが出来た、周囲の人たちの同情と共感があってこそのものなのでしょう。誰ひとり、悪い人はいない。みな幸せのために苦しんで、そして幸せになる。

物語はたいへん美しい、幸福な結末を迎えます。でもそこに含まれる一抹の寂しさも、それも大事なのだろうと思う次第。


個人の内心と周辺の社会との間で起きる摩擦、葛藤というものは、不変的に文学(に限らず、創作全般でしょうね)の主題なのだなということを再確認できる、これはきっとそういう作品。


ここまで書いてふと思う。奏太に起きたことは果たして「病気」だったんだろうか?ごく自然にそんな単語を使った自分も、社会性の枷に囚われているのかも知れませんね。

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