第39話 役立たず

 震える手がロープの上を何度も滑り、俺はとうとう地面に足を投げ出した。背中を崖に預けようとして、聖剣がぶつかった。


「この役立たず」


 聖剣に向けたはずの言葉が、己に跳ね返ってくる。


 雪村さんが魔王にさらわれた。


 押しつぶされるような突然の恐怖に、俺は視線さえ動かすことが出来なかった。姿を見なくても分かる。あれは間違いなく魔王だった。


 圧が和らいだ時、雪村さんの姿はなく、降下に使ったロープごと安全帯が引きちぎられていた。俺は本能的に悟った。


 今の俺では魔王に勝てない。


 俺は聖剣を持つことすらできなかった。


 木の妖精に声をかければ、すぐさま引き上げてくれるだろう。俺は臨海学校で感じた恐怖と無力感をふたたび味わっていた。


「このまま帰れるかよ……」


 助けを求めるとしても、手ぶらで戻るつもりはなかった。


 俺は聖剣を抜き、自分の体に巻いていた安全帯を切り落とした。


 役立たずの聖剣にも出来ることは残っている。


「魔眼開眼っ!」


 俺にも何か出来ることが残っているはずだ。


 赤く染まった魔界の空に、魔王の残滓ざんしが色濃く描かれている。俺は切った安全帯でベルトに剣をくくりつけ、墨で引いたようなそれを頼りに歩き出した。かさばるリュックは置いていく。


 シナリオライターである雪村さんは、ゲームで魔王が妖精界を侵攻する理由を考えていなかった。それどころか魔王にはセリフのひとつすらないという。


 九月のシーズンイベントでサマンサが原因を作ったように、何らかの補完がされている可能性は十分にある。


 なぜ魔王は雪村さんを連れ去ったのだろうか。


 連れ去った原因はクラウスなのか、雪村さんなのか……。


 考えるのは雪村さんの担当だ。動く担当の俺はひたすら歩みを続けた。


 妖精界から見下ろした魔界は穏やかに見えたのに、魔眼越しだと荒廃しているように感じられた。やせた木々に囲まれた森は視界が悪い。幾つも重なる倒木に邪魔されながら、俺は残滓を見失わないよう目を凝らした。


 森を抜けて起伏のある道を進むと、高い柵に阻まれた。


 邸宅があった。


 城に乗り込むつもりでいただけに、いささか拍子抜けしてしまう。人間界にあるのと変わらない見た目に、残念がる自分がいた。


 柵の間から本宅が見え、残滓は二階のバルコニーで消えていた。


 柵の高さは三メートル弱。地面から八〇センチほどは石積みの塀になっている。俺は身をかがめ外周に沿って進みながら、侵入できそうな場所を探した。


 庭園の高い生垣が本宅から死角になっている。警備は手薄らしく、感知魔法に気を付けさえすればうまく忍び込めそうだ。


 俺は目を刺す痛みを無視して石垣に足をかけた。魔眼は解除したくない。


 前かがみで鋭い柵の先端を超えようとした時、あの感覚が襲った。


 体から力が抜け、柵から手が離れそうになる。腹に冷たさを感じ、俺は頭を下げて、無理やり柵を乗り越えた。


 体を丸め、顔からの直撃は防いだが、背中を強く打ちつけた。感知魔法に触れ、作動する様が目に映った。問題はないだろう。気づかれたのが数秒早くなっただけで、悪い状況に変わりはない。


 地面を転がり、剣を引き抜いたところで奴が現れた。泡立つような寒気を感じる。


 確認する必要なんてない。


 魔王だ。


 フランクの魔法はおろか、俺は雪村さんのことさえ思い浮かばなかった。


 未知の者に対する恐怖。


 圧倒的な力に対する恐怖。


 純粋な死への恐怖。


 すべてがい交ぜになり、体の奥底から逃げ場を求めるように全身へと広がっていく。


 俺は地面に聖剣の切っ先を突き立てたまま、へたり込むことしかできなかった。


 息をすることもままならない。魔眼を酷使した目のズキズキとした痛みだけが、かろうじて俺の意識をとどめていた。


 頭の片隅で、この場にふさわしい単語が浮かび上がる。


 ゲームオーバー。


「おお~い、待て、待て~」


 遠くから濁った声が聞こえてきた。魔王の意識が俺からそれたのか、少しだけ呼吸が楽になった。


 魔王を直視できず、さまよわせていた視線が、空にある黒い塊を捉えた。


 びりびりと引き裂かれた鳥のような布が飛んでくる。いや布のような鳥か。


 ぼろ布は俺たちに近づくと、中空で止まった。


「お前がヒヤマか?」


 喋るぼろ布に俺はうなずいた。


「いかにも」


 なぜ俺の名前を知っているのだろうか。まばたきを繰り返していると、肌を波打つような気配を感じた。反射的に聖剣の魔石を稼働させる。


 近づいてくる恐怖が止まった。


「おい、お前!」


「悪い! 魔王を近づけさせないでくれ。怖いんだ」


 魔眼越しに見る魔王は、巨大な魔力の塊にしか見えなかった。こみあげてくる吐き気に、俺は魔眼を解除した。鋭い痛みが鈍いものへと変化していく。


 魔王から顔を背け、俺は地面を見つめた。


「ったく。分かった。オレ様が案内するから、魔王様は先に行っていてくれ」


 魔王の返事は聞こえなかったが、大きな羽音とともに、聖剣から放たれる冷気が押し流されていく。俺は体の震えが収まるのを待って、魔石を停止させた。


 ぼろ布がため息をつく。


「ふん。経験値不足でやってくる勇者とはね」


「こっちにだって事情があるんだよ」


 絞り出した声は弱々しく、かすれた情けないものだった。経験値不足か。結局、俺もゲームの支配下にあったわけだ。何回か深呼吸して恐怖を吐き出していく。


「……ところでぼろ布。お前は?」


「ぼろ布言うなっ! スケア様と呼べ!」


 案山子スケアクロウか。安直かつ皮肉な名前に、怖がっていたことも忘れ、笑いがこみあげてくる。俺は緩んだ顔がスケアにばれぬよう、冷や汗をぬぐってごまかした。


「それじゃスケア様。いったい何が起きているのか、ご教授願えますかね?」


 笑える余裕があるのなら、俺はまだ続けられる。

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