第11話
美琴は見知らぬ天井を仰いでいた。古い記憶だ。もう何十年も前。朧げな古いマンションだ。綺麗な木目が見える天井には四角い枠の照明が見える。照明からだらんと垂れる紐を掴もうと手を伸ばすが、触れられない。確かにそこにあるはずなのに触った感触もなければ引くこともできなかった。
「で、電気つけます」
薄暗い部屋の中で奥から走ってくる人影が目に入る。その影は美琴が触れようとしていた紐に触れた。紐を引くとパチンという音とともに、ぼんやりとした白い光が部屋中を包み込んだ。人影の正体は小学生くらいの子供だった。その奥でガラの悪い腰パンの男がずかずかと歩きながら明かりをつけた子供を睨む。
「お前よぉ、なんで俺が帰ってきたタイミングで電気付けとかねぇんだよ。帰ってから付けたら、眩しいだろうがっ!」
その男は子供の方へ近づいてきて、まるで通りすがりに小石を蹴るかのような動作で子供の腹を蹴り飛ばす。子供の軽い身体は簡単に浮き上がり、押し入れの扉前まで吹き飛んだ。
「うう。ごめんなさい。ごめんなさい」
あまりの痛みにお腹を押さえて呻き声を上げる子供を横目に、座敷で横に寝転んだ。ポケットへ乱暴にしまわれていたしわしわの煙草を一本取り出した。男は煙草を人差し指と中指で持って、火も付けず待っていた。
「おい」
男は子供の方を振り向きもせずに、煙草を見せるように掲げた。子供はその煙草を見て、慌てて立ち上がった。棚に置かれたライターを掴んで煙草へ火をつけた。男は子供が火をつけたのを確認すると口元へ煙草を持っていき、もう片方の手で「しっし」と手で向こうへ行けとジェスチャーをした。子供は部屋の隅っこへ早足で向かい、正座をしてじっと何をするでもなくじっとしていた。
「私だ」
美琴は思わず声を漏らした。なんてことはない。自分の昔の記憶だ。なぜこんな昔のことを今頃思い出したのだろうか。美琴は首を傾げる。答えは決まっている。橋本が家族について話していたからだ。これは橋本に拾われる前の自分の記憶。奥の奥へしまい込んでいたもの。美琴は苦笑いを浮かべる。
「馬鹿馬鹿しい。本当に、パパのせいでこんな夢を」
「おかえり。大五郎は大丈夫だったか?」
男――父親の声のトーンが少し高くなる。玄関の方から足音が近づいて来て、幼いころの美琴はぎゅっと拳を作り、目を強く瞑った。
「あーケンちゃん帰ってたんだぁ。大五郎は大丈夫よ。なんかぁ、ただの風邪だったみたい」
甘ったるい声音に、優しさを孕んだ声で返す女。美琴へは向けられることのない言葉に耳を傾けなかった。幼い美琴は端っこの方で、できるだけ動かない様に、置物のように小さく小さく正座していた。
大五郎というのは美琴の弟で、当時一歳だった。幼いころから体が弱く、風邪をよくひいていた。父親と母親の本当の血を分けた彼は、美琴が知らない愛を注がれて育てられていた。
しかし、この家には根本的な問題も抱えていた。
「すみません。すぐに返します。今月までに十万」
借金だ。父親はギャンブル狂い――ではなく、ソシャゲへの課金で多額の借金をしていた。月に一度の新キャラ、周年の強キャラなど、自分の許容を超えた額の課金を毎月使い続けて二百万を超えた辺りで、手を出してはいけないところに借金を作っていた。それから借金取りに追われていた。そのことで苛立ちが抑えられなくなった頃から、父親の美琴への扱いが変わっていた。別に昔は優しかったとかではない。昔から美琴への関心などなかった。関心がないだけで済んでいれば少しは平和だったはずだ。
「お前さぁ、働いてくれね?」
父親は働いていなかった。母親が幼いころの美琴には分からなかったが、高級取りの仕事をしていたらしくそれで生計を立てていた。だからまだ働くことのできない美琴へ働いてくるよう父親が言ってきた。美琴の働いた金で借金を返そうということなのだろう。美琴は外の世界で働いていい年齢でないことを知らなかったし、何より父親の言うことに逆らうなんて発想がなかった。
「はい」
――ただ頷いて外へ出た。
玄関へ出ると、ちょうど買い物から帰って来た母親が階段を上がってきていた。母親は美琴が目に入ると、赤子に向けていた優しい表情を一変させて目を細めた。
「何してんの?」
「仕事を探しに行かせていただきたくて」
睨むように美琴を見た母親が、ずかずかと近づいて来て美琴の右頬を打った。パチンという音とともに抱っこ紐で抱かれていた弟が泣き始める。
「ああ。ごめんねぇ。怖くないからねぇ。よしよし」
弟を優しく愛でている母親は、頬を押さえて俯く美琴へ鋭い視線を向ける。
「お前さぁ。馬鹿なわけ? その年齢で働けるわけねぇだろ! なぁ!!」
怒鳴る母親は美琴の紙を掴んで持ち上げた。鋭い視線と痛みで目尻に涙を浮かべる。反抗的なことは何もできず、ただただ「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。
それから腕を無理やり掴まれた。一瞬、母が動かずその場で周囲を気にする素振りを見せるが、すぐ投げるように部屋へ押し込まれた。まるで美琴自身を誰かに見られたら困るかのような様子だった。美琴は何も言わずに部屋へ戻された。
これだけのことをされても、美琴の頭の中にあったのは父親への謝罪だった。走って寝転がる父親の元へ向かった。
「も、申し訳ありません。働けませんでした。私の歳では働けないらしいです。ごめんなさい。ごめんなさい」
ただただ、父親の背に向かって謝った。父親はしばらくするとジェスチャーであっちにいけと指示すると、美琴は目を光らせてお辞儀した。
「許してもらえた」
幼い美琴は部屋の端っこへ駆け寄っていって喜んで正座した。今日もうまく生きることができた。そんなことに目を輝かせていた。こんな毎日がずっと続くのだと幼い美琴は思っていた。
「くだらないな」
美琴は呟いた。こんな過去を見せている夢になのか、幼いころの自分の幸せについてなのか。少女は幻影となっている未来の自分の横で健気にじっと座っている。正面では一歳の弟が、両親から笑顔を向けられて撫でられて、母親の胸の中で寝ていた。まるで自分もその中に居られているかのような気がして、幼いころの美琴は笑っていた。誰も彼女へ目もむけない。いや、私は見ているよと美琴は思う。そう彼女へ視線を向けていると、目まぐるしいくらい見ている景色がぐるぐると周りはじめ、テレビのノイズのように乱れた後に映像が切り替わる。
――あの日だ。美琴は直感的にそう感じた。
父親はガタイのいいスーツ姿の男に踏みつけられ、罵声を浴びせられていた。
「おい! てめぇ、返せって言ったよなぁ!? 覚える脳みそも、ないのかよ!!」
まるで自分がいつも父親にやられているかのようなことを、目の前で父親が別の大人にやられていた。美琴は驚いて声が出なかった。父親はなぜ何もせずに受け続けているのか。
まるで自分のようだった。端っこの方で顔面蒼白の母親が、弟を守るために必死に抱きかかえて蹲っている。美琴の世界では彼らが絶対で、一番大きな存在だった。そのはずなのに彼らよりはるかに大きい男が、まるで虫けらみたいに父親を蹴り飛ばして父親は泣きじゃくっていた。父親が美琴の正面まで吹き飛ばされて、ようやく身体が動く。守らなきゃ。
「お、お父さん。大丈夫ですか」
「うう。痛い、痛いよぉ」
情けなく蹲って腹を押さえている父親の姿に凝然として見つめていたが、やがて美琴は立ち上がり、父親とスーツ姿の男の間に入る。目いっぱい両手を広げて、相手を刺激しないよう乾いた口を一度閉じて唾液で満たす。考えてからすぐに口を開いた。
「ご、ごめんなさい。お父さんを許してあげてください。ごめんなさい」
美琴はとにかく謝った。彼女には謝ること以外知らなかった。だからひたすらに謝った。彼女が父親を庇うように立った膝は笑っていた。今にも崩れてしまいそうな足は、必死に床を踏みしめて立っていた。広げた両手も怖くて小刻みに揺れている。
「ああ!? 嬢ちゃん。君の父親がやってんのはルールを破った悪いことなんだよ。分かる? 学校で習わない?」
美琴は必死に謝りながら、男の言葉を頭の中で反芻した。そして、ルールを破ってしまったんだと。父親は社会のルールを破ってしまったんだと、今やっと理解した。しかし、スーツ姿の男の言葉で理解できないことがあった。
「学校……ってなんですか」
美琴は知らなかった。学校……聞きなじみのない言葉だった。習うということは父親に受けているような躾をするところなのだろうか。そしたら怖いなと美琴は思う。そう口にしたところで、スーツ姿の男の後ろから同じスーツ姿の、目元をサングラスで覆った男が顔を見せた。
「嬢ちゃん、学校行ってないのか」
「分かりません。でも、外へ出ることはありません。許可がない限り」
美琴は正直に答えた。学校とは行く場所のことらしい。美琴が訝しげな表情でスーツ姿の男を見つめる。男は口端をつり上げて美琴を見つめた後、奥で蹲っている父親へ視線を向ける。
――――おい、ゴミこの娘貰ってくぞ
美琴は何を言っているのかと。お父さんがそんなこと了承するわけないと、美琴は振り返る。
……父親は蹲ったまま、男の言葉を聞くとピタリと動きを止めて、ぶんぶんと音が聞こえるんじゃないかと思うほど、身体を使って頷いていた。
美琴はその姿を見て、愕然とした。
足元から崩れる感覚を得て、膝を床についた。いつも、ひどい目にあわされてはいたが、それも躾だと父は言っていた。自分はどこかでは愛されていたのだと思いたかった。それが父は、自分可愛さに簡単に自分が捨てられたのだと美琴は悟った。
そこからその光景を見ていた美琴の視界はぼやけて遠ざかっていく。暗闇が彼らを包み込んで、家も形が無くなっていく。暗闇の空間で一人浮かぶ美琴は、ゆっくりと落ちていく。
――ゆっくり、ゆっくり底の無い空間を落ちていった。
「わっ!」
美琴はキャスター付きの椅子から転げ落ちそうになる。背中を預けていた背もたれが急になくなった感覚から目を覚まし、慌てて机にしがみついた。
「何してるんすか」
資料をまとめていた竹内に冷たい目で見られながら、とりあえず力いっぱい体を起こす。
「あっぶなかった。死に目に遭うところだったんだよ君は」
「遊んでる場合じゃないですって。しっかりしてください」
「うう」
美琴は夢の中の思い出に目を細めた。長い間思い出すことがなかった悪夢のような過去。
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