箸と魚のディスコード
佐倉千波矢
箸と魚のディスコード
低血圧で普段は寝起きの悪い人間でも、月に一度や二度は速やかに目覚める朝もある。
常盤恭子が恐る恐る起こしたときの千鳥かなめは、その非常に珍しい朝に当たっていたようで、すぐにのそのそとベッド上で半身を起こし、ほんの数十秒ぼうっとしただけという彼女にしては驚異的な反応の良さで「おはよ」と呟いた。
「お早う、カナちゃん。起きられる?」
「あ~、うん、らいじょぶ」
多少呂律が回っていないくらいで、不機嫌な様子はない。きれいな顔立ちに反した虚ろな表情を浮かべ、大きめで切れ長の目を半眼にし、だらしなく大口を開けて欠伸をしているのは朝のデフォルトだ。だがいつもと違って、「朝」に対する呪詛の言葉がない。
しかも、ん~、と大きく伸びをしてから、即座に立ち上がってさっさと着替え始めた。いつもなら這い出るようにしてどうにかこうにかベッドを抜け出し、のろのろとパジャマを脱ぎ始めるというのに。
「すぐに朝ご飯つくるからね。ちょっと待ってて」
すでに口調がはっきりとしていて、しかも笑顔まで浮かべてみせたため、少なからず恭子を驚かせた。トレードマークのとんぼメガネがずり落ちたほどである。
「こういう日もあるんだねえ」
「ん? なに?」
「ううん、なんでもない」
ここで機嫌を損ねては元も子もない。恭子は慌てて首を横に振る。動きに従って、お下げ髪に結んだ大きなリボンがぴょこぴょこと跳ねた。
「コーヒー淹れてるから早くおいでね」
「うん。すぐ行く」
恭子が部屋の扉を閉める寸前、すでにかなめはキャミソールを身につけ終えていた。
洗面所経由で彼女がリビングに入ってきたのは、それから十分と経っていなかった。先ほどはくしゃくしゃだった腰まで届く長い黒髪もきちんと整えられて、先っぽの方には赤いリボンが揺れている。
「うわ~、朝なのにカナメがまともだわ」
いつものゾンビ姿を予想していた稲葉瑞樹が、あらかじめ避難していたリビングのソファから大声を上げた。梳かしていたところだったのか、セミロングの髪の途中でブラシが引っかかったまま、呆気にとられたように手の動きを止めている。
恭子も瑞樹も、前夜からかなめ宅に泊まりがけで遊びに来ていた。すでに何度も泊まったことのある二人は、家主の寝起きがすこぶる悪いことをよくよく承知しているのだ。
「間違いなく今日は嵐になるわね」
瑞樹が、背後の窓の向こうに広がる青空を右手のブラシで指し示しながら断言する。つられて恭子まで頷いてしまった。
「失礼なヤツは朝食抜き」
「カナちゃんったらあ」
いつでも仲裁役の恭子からマグカップを手渡され、かなめはおとなしくキッチン・テーブルに着いた。淹れたてのコーヒーから立ち上る芳香は、気分を良くしてくれるものだ。ちびちびと啜りながら、恭子が自分と瑞樹の分を氷入りのグラスに注いでアイス・コーヒーにする作業をほけ~っと眺めていた。
「このクソ暑い中、よくホットでなんて飲むわね」
向かいの席に陣取ってグラスを片手にした瑞樹がからかうものの、さすがにエンジン全開とまでなっていないかなめは「単なる習慣」という簡素な反論を呟いただけだった。琥珀色の液体に浮かんだ氷が時折チリンと鳴る音は確かに涼しげだが、たとえ真夏であっても起き抜けの一杯は熱めのブラックでないとどうにも目が覚めないのだ。
今日これから出かける予定のバーゲンについて瑞樹と恭子があれこれ話しているのを聞きながら、時間をかけてカップの中身を飲んでいるうちに、脳を覆っていた眠気という名の薄膜が徐々に剥がれていく。飲み干した頃には、かなめはかなり活動モードに切り替わってきていた。そこそこに威勢良く立ち上がる。
「さ~て、朝食作りに取り掛かるとしますか」
いつもの手際の良さで、かなめは味噌汁と出汁巻き卵と焼き魚の調理を同時進行していく。傍らでは恭子が、任されたホウレンソウのお浸し作りに専念し、瑞樹は食器をテーブルに並べてから、味付け海苔と納豆を容器から小皿と小鉢にそれぞれ移し替える。見る間に朝食のテーブルは整えられていった。
魚の焼き具合を確かめるために、かなめがグリルから少しだけ焼き皿を取り出す。ちょうどそれを見ていた瑞樹から、
「あれ? アジの開きじゃないの!? 昨日ちゃんと買ったじゃない」
と苦情が上がった。
その朝のメニューは、瑞樹のリクエストによるものだった。「先週遊びに行った海で泊まった民宿の朝食の再現」というのが要望だ。瑞樹の言質に依ると、「いつも家族旅行で宿泊するホテルや旅館と違って、庶民的で質素な和朝食っていうのもたまにはいい」のだそうだ。
「そこはアレンジってことにしといてよ。開きは日持ちするでしょ。アユは新鮮なうちに食べちゃわないと」
グリルの中でジュージューといい音を立てているアユは、三人のクラスメイトであり、かなめにとっては隣人でもある相良宗介が、前日の夕刻に土産として持参してきたものだった。
少女たちが吉祥寺で雑貨店を覗いたりコーヒーショップでケーキセットを食べたりして過ごした土曜の午後を、宗介は友人の小野寺孝太郎や風間信二と共に多摩川上流で釣りをして過ごしたとのことだ。河原で焼いて食べてもまだ充分に残り、それぞれ自宅に持ち帰ったほど大漁だったらしい。
十五センチほどもある大振りのアユに、もちろんかなめは大喜びだった。だが生憎と魚が届いたときにはすでに夕食の下ごしらえは済んでいたので、翌朝のおかずに持ち越されたというわけである。
「すごく美味(おい)しそうだよ、ミズキちゃん」
「確かにね。アユの塩焼きなんて久しぶりだし、まあ良しとしてあげる」
「へーへー、それはどうも。あ、キョーコ、ソースケに電話してくれる? あと二、三分でできるからって」
「うん」
PHSを操作している恭子の傍らで、かなめが大根と卸し金を取り出した。
「大根おろし作るの?」
「そっ」
瑞樹への返事と同時に、かなめは大根を卸し始める。
「アユに添えるの?」
「ううん、納豆に混ぜるのよ」
「納豆に? 大根おろしを? へえ、そんな食べ方あるんだ」
「結構いけるよ。ミズキも試してみる?」
「うん」
「相良くん、すぐに来るって。大根おろし、あたしのにも入れて! どんなのか食べてみたい」
話し終えてPHSをポケットにしまった恭子も、物珍しそうにしていた。
「……あれ、でもなんで大根おろしなの? カナちゃん、前にネギだけが好きだって言ってたよね」
かなめが肩をすくめる。
「ソースケがどうも納豆は苦手みたいなのよ。食べないことはないんだけどね。それで卵やら野沢菜やら入れていろいろ試してみたら、これが一番食いつきが良かったの」
「食いつきって、犬じゃないんだから……。でもカナちゃんってば、そこまでやってあげてるんだ」
「だって納豆は身体にいいから」
「うん、相良くんのためだもんね」
恭子がにっこりと天使の微笑みを浮かべた。他意がないようでいて大ありなのは、もちろんかなめにもはっきりわかる。
「あのねえ、キョーコ──」
そんなんじゃない、と言いかけたところに、にやにや顔の瑞樹が口を挟んだ。
「あたしは納豆ってとこにツッコミたい」
「へ?」
「納豆はたいてい朝食べるでしょ? しょっちゅう朝ご飯を作ってあげてるってことよねえ。すっごく意味深じゃん」
「ななななに言ってんの。たまに作り過ぎちゃた時に呼ぶだけよ」
恭子のにっこりと瑞樹のにやにやは止まらない。
「カナちゃん、素直じゃないんだから」
「へ~、朝っぱらから作り過ぎねえ」
ぐっと詰まったかなめが否定のセリフを考えている間に、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ほ~らカナメ、旦那様がいらしたわよお」
「あのね、ミズキ──」
「まあまあカナちゃん。あたし開けて来るから、早く盛りつけちゃいなよ」
二人は反撃が来る前に逃げてしまえといわんばかりに、さっさとリビングを出て行ってしまった。
恭子と瑞樹に伴われて、じきに宗介が現れた。
「お早う、千鳥」
挨拶する宗介は、不機嫌であるかのようなむっつり顔にへの字口。つまりいつもどおりだ。どうやら冷やかしは彼には向けられなかったらしい。
「おはよ」
ちらっと視線を合わせてから、かなめは気恥ずかしさを隠すために慌てて背を向け、茶碗にご飯をよそる。恭子が味噌汁を注ぎながらアユの話題を振ると、宗介がいつになく熱心に釣り談義を始め、話題が逸れたことにホッとした。
四人とも席について食べ始める。最初こそまた大根おろし入り納豆に話が戻ってしまったが、かなめの大声ですぐにそれは中断した。といっても冷やかされてキレたのではない。宗介の取ろうとした行動が原因である。
「ソースケ! ストップ!!」
ぴたっと宗介が動きを止めた。驚いた恭子と瑞樹が注視する。凍り付いたように身動きしない彼を、隣の席に座るかなめは睨みつけた。
「いったいなにをしようとしたのかな?」
言葉こそ質問の形式を取っているものの、語調がはっきりと自分を責めているのだということは、さすがに宗介にすら感じ取れた。だが、なにが良くなかったのかはわからないので、するつもりだった内容をそのまま告げるしかない。自分の右手を見下ろして、答える。
「味噌汁を飯に掛けようとした」
「うん、そうだと思った」
宗介の右手は汁椀を持ち上げており、その椀はほんの少し傾いている。あと五度も傾ければ、確実に中の味噌汁は、ほかほかと湯気を立てているつやつやの真っ白いご飯の上に流れ落ちていたことだろう。
「とにかく一旦お味噌汁を下ろしたら?」
「そうね」
恭子の冷静且つ的確な提案にかなめが同意する。宗介は汁椀をテーブル上に戻して、かなめ、恭子、瑞樹の顔を順繰りに見やった。
「……いけないのか? 小野寺がこうすると美味(うま)いと言っていたのだが」
瑞樹と恭子が困ったように顔を見合わせた。
「いけないってわけじゃないけど」
「う~ん、好みの問題もあるし、メニューとして出してるお店もあるっていうから、なんともいえないわね」
少女たちの返答は今ひとつはっきりとしない。宗介はかなめの顔色を窺った。
当のかなめはというと、箸を強く握りしめて怒りを露わにしている。
「オノDのヤツ、余計なこと教えて!! よりにもよって犬まんまだなんて」
宗介は、自分に対する怒りではなかったことにとりあえず安堵した。
「犬まんま? つまり犬用のエサなのか? 俺はからかわれたのか?」
かなめが首を横に振る。
「そうやって食べる人もいるわ。一応は人の食べ物よ、一応ね。なぜか犬まんまって呼ばれてるの。昔は犬に人の残り物を食べさせていたからって説も聞くけど、本当のとこはよく知らないし、別に知りたくもない」
かなめと宗介のなぜか深刻気なやり取りをよそに、あとの二人は呑気な調子に戻っていた。
「オノDなら食べてそうね、犬まんま」
「う~ん、かもね」
瑞樹が軽口を叩くと、恭子が苦笑いを浮かべた。
「ねえ知ってる? 西日本じゃ、これを猫まんまって言うんだってさ」
「え? 猫まんまって鰹節をご飯にのせるんでしょ? それじゃ犬まんまはどんなの?」
瑞樹の雑学披露に、思わずかなめまでがノッてしまった。
「さあ知らない。でもほら、麺類のキツネとタヌキの違いなんかと同じようなもんじゃないの?」
「そーいえば、おでんの具のこと、西だとテンプラって呼ぶんだよね?」
少女たちの話題がどんどん逸れていく。
「……犬まんまに猫まんま? 地方によって名称や具材が変わるのだな。……麺料理には食材としてキツネとタヌキを使用するのか? ……おでんと天麩羅は別物ではなかったのか?」
真面目に聞き入っていた宗介はすっかり混乱した。慌ててかなめが遮る。
「覚えなくていいわよ。ってか今はまだ必要ない知識だからむしろ忘れなさい。それよりソースケ」
かなめがぴっと人差し指を立てた。宗介が畏ま(かしこ)る。
「今後ご飯にお味噌汁をかけて食べるのは、絶対にやっちゃダメ。これは肝に銘じて決して忘れないこと」
ねめつけるような強い視線に戻ったかなめが、きっぱりと宣告した。
「なぜだ? 君は先ほど人の食べ物だと言った」
「一応って付けたでしょ、一応って。行儀が悪い食べ方なのよ! 自分家(ち)でならまあ許されるけど、よそ様の家でやったらすごく不作法なの。それにあたしが個人的に好きじゃない。いい、ソースケ、もしあたしの前でやったら、二度とご飯作ってあげないからね」
「了解した」
宗介は即答した。かなめの食料支援がなくなるのは大きな痛手だ。
「よろしい」
満足げにかなめは食事の続きに戻る。
だがそれは数分と続かなかった。またも室内にはかなめの怒鳴り声が響く。
「だあああ、やめーーーい!」
「どうかしたのか?」
「ここが河原かキャンプ場だったらそれでもいい。でも食卓ではダメ。箸はきちんと使いなさい」
少女たちの視線の先には、箸の突き刺さったアユの姿があった。
「そうしている……つもりだが……これもダメなのか?」
かなめの冷たい眼差しに、宗介の語尾が弱々しくなっていく。
「ダメ。箸で魚の身をほぐすのよ」
「…………」
フリーズしたまま、宗介はじっと手元を見つめる。その表情には、恭子や瑞樹ですら読みとれるほどの困惑が浮かんでいて、彼が困り切っていることがよくわかった。
「すまん、意味が理解できない」
少女たちは、渋い顔になる、苦笑いする、面白げな表情になる、という三者三様の反応を示した。
「マジみたいね。さあ、どうする、カナメ?」
瑞樹は状況を楽しんでいるらしく、くすくすと笑っている。
「相良くん、とにかくお魚をお皿に戻して」
やんわりと諭すような恭子の言葉に従い、宗介は力無くアユを下ろした。
かなめがすっと立ち上がった。宗介がびくりとするが、相手の顔に怒りの形相はないことを見て取り、おとなしく出方を窺う。
「ほら、こうするの」
彼の右側に回ったかなめは、自分の箸を使って丁寧に手本を見せてやる。
「こうやって一口分ずつほぐしていくの」
「う、うむ」
真似ようとしてみるが、元々箸使いが上手(うま)いとはお世辞にも言えない宗介である。なにしろ納豆をのせたご飯は箸では扱えないので、スプーンで食べているくらいだ。尾頭付きの焼き魚などという、高度な技術を要する箸使いは至難の業だった。柔らかい身がぼろぼろにくずれてしまう。
かなめがハアッと大きく溜息をついた。
「……やってあげるから貸しなさい」
諦めきった声音で宗介によるアユの解体作業を停止させ、皿ごと預かった。その所有者の目の前で、上側の身をすべて一口大にほぐし、骨を外して皿の外側に除け、下側の身を一口大にほぐす。すべてを手早く終えると、持ち主に返した。
「はい。これを一つずつ箸で摘んで口に運ぶこと」
「助かる」
まったく手間がかかるんだから、とかなんとかぶつぶつ言いながら自分の席に戻って初めて、かなめは恭子と瑞樹が曰(いわ)くありげな顔つきで自分と宗介を見つめていたことに気付いた。来る、と思った瞬間、やはり予想通りのセリフが矢継ぎ早に襲いかかる。
「なんだかんだ言っても、やっぱりカナちゃんって相良くんの面倒はみちゃうんだよね」
「なんていうか二人の世界?」
「うん、新婚さんみたいだったよ」
「まあ夫婦ってよりは、母と子って印象もなきにしもあらずだけど、そういうカップルもホントにいることだし」
「とっても仲睦まじい感じ」
二人の語尾にハートマークが見えたような気がして、かなめは目眩すら感じた。両の拳をぐっと握りしめる。
「二人とも何言ってんのよ!! だって放っておいたら、マナーも何もあったもんじゃないでしょ!?」
「はいはい。ね、マナーって言えば、この頃は相良くん、ハンカチとティッシュも持ち歩くようになったよね」
かなめの言い分など、恭子に簡単にいなされてしまった。
唐突に自分の名前が出てきて、宗介が顔を上げる。朝食の続きに没頭していても、少女たちの会話内容はちゃんと耳に入っていたらしい。
「千鳥から厳命を受けたのでな」
実際それは事実だった。以前の宗介は、手を洗っても簡単に水を払ってお終い、ポケットティッシュなど一度も持ち物として考慮したことなどなかった。だが今では、かなめの命令に従ってその両方を必ず制服のポケットに入れるようになっている。
「そういえばさっきも、来たらまず洗面所に行って手を洗ってうがいしていたわね」
「それも千鳥からの指示だ」
「なんていうか、カナちゃんの躾が行き届いているって感じだね」
「カナメ、トップブリーダーになれるよ」
「やだなあミズキちゃん。だから相良くんは犬じゃないってば」
もはやかなめからは反論する意欲が消え失せていた。
そんなこんなでムダに大騒ぎしていたせいで、バーゲンが行われるデパートの開店時間に合わせて早めに起き出したことなど、少女たちはすっかり忘れ去っていた。
数歩前を歩くかなめの後ろ姿を見やってから、宗介は天を仰いでそっと何度目かの溜息をついた。すでに落ちた陽が残していった明るみの中、斜め背後から街灯が投げかける光で二人の右斜め前方にはうっすらと影が伸びていて、かなめはその宗介の影を踏みにじるかのようにしてずけずけと歩いている。まだ機嫌が直っていない証拠だ。
原因は、一時間半前の夕食の席での出来事だ。
夏休みの一日を、仲間内でハイキングに出かけたその帰りだった。五時過ぎという中途半端な時間ではあったが、散々歩き回って空腹になっていた一行は、散会前に喫茶店でお茶する代わりに、早々と夕食を摂ることにしたのだ。孝太郎の提案で、安くて美味しいと評判のバスケ部御用達の定食屋に寄った。そのメニューの一品に、問題となったキンメダイの煮付けが出たのである。
二週間ほど前からの習慣で、宗介は当たり前のように魚の皿をかなめに手渡し、かなめは当然のように食べやすいように身をほぐしてやり、それをまた宗介が受け取った。そこまでは良かったのだ、そこまでは。
だがふと気付くと、二人は他のメンバーの視線を集めていた。そして当然ながら、恭子を除く全員から、それはもう盛大に冷やかされたのである。
事情を承知している瑞樹はそれを吹聴して回り、その内容について信二がいちいち宗介に確認を求め、孝太郎はしつこく煽り続ける。
最初は真っ赤になって力一杯反論していたかなめだったが、おっとりしすぎている性格で知られた美樹原連までも、
「やはりお二人は仲がよろしいのですねえ。なんだか長年連れ添ったご夫婦のようでした」
などと発言するに至って、さすがに言葉を失った。それきり押し黙ると目の前の料理をただ一心に食べ続け、キレるのではなかろうかとハラハラしていた恭子が拍子抜けするほど静かになってしまった。
それでも一度盛り上がってしまった一同は、終始二人の仲について話題にする。反論はせずともかなめのこめかみがぴくぴくし、怒りのボルテージが上がり続けているのに気付いていたのは、おそらく恭子と宗介だけだったろう。
お開きになって一行がばらけたときに、恭子と宗介がどれほどホッとしたかは、言葉に言い尽くせないものがあった。
「ソースケって、ホント箸の使い方、下手よね」
唐突にかなめが振り向いて、ぶっきらぼうに言った。
駅からずっと黙ったままだったので、不機嫌な声音で、しかもその不機嫌さの一因となった話題についてではあっても、話しかけてきたことに宗介は安堵感を得る。
「慣れていないのでな。これまで使用する機会がまったくなかった。それでも日本に来る前に習ったのだが」
「習ったって、マオさんに?」
「いや、クルツにだ」
メリッサ・マオとクルツ・ウェーバーは、宗介の所属する傭兵部隊での同僚だ。何度かかなめも会っていて、わりと親しくしていた。
「はあ、クルツくんに? 箸の使い方をドイツ人に習う日本人って……」
「変か?」
「かなり変」
マオはアメリカ人とはいえ中国系なので、その彼女に習ったというならまだ納得できる。だが宗介に教えたのはクルツだという。それが奇妙に思える。というのがかなめの感想だった。
もっともクルツは日本育ちで、アフガニスタン育ちの宗介よりもよほど中身は日本人なのだ。もちろん箸使いは完璧である。
「ま、いいけど。で、そのとき、練習はしてみたの?」
「一度だけな。それで方法は理解した。間に挟んで摘みあげなくてはならないことは分かっているのだが、俺にはどうも難しい」
確かに宗介は、摘みにくい食材だとすぐに突き刺してしまう。これまでは「外国育ちだから仕方ないか」とかなめは容認していた。しかしこのままでは、日本で生活していく上で本人のためにならないだろう。もちろん先ほどのようなことがあってまた冷やかされるのもごめん被りたい。
「要するに、摘みにくいものを摘めるように練習すればいいわけよね」
いきなりかなめが進路変更して、道の反対側にあったコンビニへと向かった。宗介は慌てて追いかける。
棚をいくつか巡って、乾物類の置いてあるコーナーで彼女の目的の品物は見つかり、それを一袋購入させられた。店を出ると、今度は家に寄っていくように命じられた。
自宅に帰り着くと、二人はキッチンに直行した。テーブルにつくように言われて従った宗介の目の前に、かなめは小鉢を二つ並べる。その一方に、買ってきたばかりの小袋の中身をざーっと空けた。
「準備完了。というわけで特訓よ、特訓。今日から始めるからね。あたしがお茶の支度をしてる間、あんたはこれやってなさい」
「……これは、豆だな?」
「そう、大角豆(ササゲ)っていう豆」
特訓内容は実に単純なものだった。ササゲを箸で一粒ずつ摘んで、隣の小鉢に移すのだ。
「最終目標はやっぱり、尾頭付きの焼き魚を綺麗に食べられるようになること、かな。達成できたら、そのササゲでお赤飯炊いてあげるわ」
「お赤飯?」
「お祝い事があったときなんかに食べるのよ」
「祝うほどのことなのか?」
「あんたの箸使いが上達してきれいに食事できるようになってくれたら、あたしはお祝いしたくなるくらいすっごく嬉しいわね」
「そうか。ならば努力しよう」
早速、ササゲの一粒を摘み上げようとトライする。しかし、つるつると滑る小粒で硬い豆は、おとなしく箸の間に挟まってはくれない。どうにかこうにか摘めても、運ぶ間に落ちてしまう。なかなか隣の小鉢まで移動してくれなかった。取り落としてはやり直し、何度も何度も繰り返す。
それでも宗介は根気よく作業を続けた。かなめも自分が言い出したことであるためか、いつになく辛抱強く見守り続けた。
なんとかすべての豆を移動し終えたときには、三十分近くが経過していた。最初に淹れたほうじ茶はすっかり冷めきっていて、かなめは改めてやかんを火に掛ける。
「……まあ、気長に頑張ろ」
「……うむ」
額に汗を浮かべた宗介の返事は、どことなく自信なさげなものだった。
こうして特訓が始まった。
最初の三日間は、見ているだけのかなめの方が投げ出したくなるくらいに変化の兆しはなかった。正直なところ、やはり無理か、と諦め始めていた。
だが宗介は、文句一つなく、きちんと言いつけを守り続けた。ちょうど本業で呼び出されることもなかったので、ヒマさえあれば練習を繰り返した。
なにしろ律儀で生真面目な性格である。日々の鍛錬を厭うこともない。元々手先は器用な方であるし、覚えも早い。やがて成果は目に見えて現れた。少しずつササゲを移し替える作業時間が短縮してきたのだ。六日目の夕食前には、目標だった五分以内を見事にクリアした。
その後の上達は早かった。すぐに魚も、焼きシャケやブリの照り焼きといった切り身料理であれば、きれいに身をほぐせるようになった。程なく煮物の里芋に箸を突き刺さなくなった。さらには冷や奴にスプーンを使う必要さえなくなった。
訓練を始めて十日目には、海苔を一枚摘み上げて片面に醤油を少しつけ、茶碗に盛った白米に載せて飯を挟んで口に運ぶ、という一連の動作を苦もなくこなした。朝食時にこれを課題として出したかなめは結果に非常に満足し、その日の夕食には通常の倍も手間と時間を掛けた特製カレーを作ってやったほどだ。
「カナちゃん、なんだか今日はやたら機嫌がいいんだね」
翌日の午後、一緒に買い物に出かけた恭子が言うとおり、確かにかなめの機嫌はすこぶる良かった。夕方になってファーストフード店でコーヒーを飲みながらおしゃべりしている間も、妙ににこにこと愛想がよい。
「なにかいいことがあったの?」
「別になんにもないよ」
「相良くんが関係ある?」
「なんでそこにソースケが出てくるかなあ。……うー、でも、あー、うん、そうね、今朝ソースケが食事してたとこは、キョーコにも見せたかったな。ホントにすっごく上手(うま)くなったんだから!」
「ああ、そういうことかあ。相良くん、頑張ってたもんね」
恭子にはなんのことかすぐに察しが付いた。前週に一度、千鳥宅に泊まりに行った折りに「特訓」の様子を見学していたからだ。そのときの宗介は、まだササゲの移動に十五分を要して、かなめからの叱咤激励を受けていた頃だった。
「よかったね、カナちゃん」
「うんうん、ありがと、キョーコ」
性格そのままの人の良い笑顔を浮かべる親友に、かなめも笑顔で返す。
「あたしも安心したよ。先週の相良くんって、悲壮なくらいだったもん。カナちゃんから見放されたくない一心って感じで」
「……どういう意味よ?」
かなめの口元が少し引きつった。
「やだなあ、カナちゃん、わかってるくせに」
恭子の天使の微笑みに変化はなかったが、かなめには隠されたニュアンスが充分に感じ取れた。否定しようとして、いやいやキョーコの策略にのってはいけない、ここは話を逸らさねば、と自戒する。
「そうだ、今日これから、ウチに来ない? 最終テストとして、ソースケにサンマを食べさせてみようと思ってるの。特訓の成果を見てやってよ」
「行く行く。──あ、でも明日はおじいちゃんちで法事があって朝から出かけるから、泊まれないんだっけ」
「夕食を食べてく分には構わないでしょ?」
「うん、そうだね。そうする」
「いやあ、ミズキにも披露したかったわね」
その瑞樹は家族旅行でニースだかカンヌだかに行っていて不在だ。
二人はフランスの避暑地を話題にしながら、サンマを買い込むべくスーパーに向かった。
千鳥家のキッチンでは、今まさにサンマがグリルに入れられたところだった。その焼き具合に気を配りながら、鍋の出し汁の中で味噌を溶くかなめからは鼻歌が聞こえてきた。
恭子は酢の物を作っていた手を止める。
「なんかずいぶん楽しそうだね。そんなに相良くんの上達が嬉しい?」
「そりゃあね、成果が目で見えるってのは気分がいいもん。一昨日(おととい)はカレイの煮付けもきれいに食べたのよ。人前でも恥ずかしくない程度にはなったかな」
「へえ。それじゃもうお魚も怖くないね。相良くん、本当に頑張ったんだね!」
後半は、背後のテーブルで夏休みの宿題である古典のプリントをやりつつ、夕食のできあがりを待っていた宗介に向けられていた。振り向いた恭子に、宗介は頷く。
「ああ、自分でも相当に努力をしたと思う」
「そうね、えらいよ、ソースケ」
「そうか?」
かなめからも誉め言葉を貰えて、宗介はどことなく照れくさそうに指先で頬を掻いた。だが、その次のかなめのセリフで手の動きが止まる。
「いや~、訓練の甲斐があったってもんよ。これでもう、あたしが手伝ってあげる必要はまったくないわね」
「なあんだカナちゃん、最終テスト前にすでに合格点を上げてるんだ」
「そういう訳じゃないけどさ」
少女たちは顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
「…………」
その様子を、テーブルの宗介はいつになく硬い表情でじっと見つめていた。視線に気付いて、少女たちがきょとんとする。
「なに?」
「いや、なんでもない」
「そう?」
宗介は顔を伏せ、課題のプリントに戻った。
かなめと恭子は、調理台の前でささやきあった。
「相良くん、なんか言いたそうだったよね?」
「というか、不満そうだったっていうか。なんだろ? サンマは好きじゃないのかな? って、いけないサンマ!」
慌ててグリルから取り出した魚は、だがちょうどよい焼き具合だった。二人はホッとする。
間もなく、おろし大根とすだちをあしらったサンマの塩焼き、キュウリとわかめの酢の物、豆腐とネギの味噌汁、ご飯がテーブルには並べられた。
そして和やかに夕食が始まる……はずだった。宗介が、サンマの載っている皿を取り上げ、かなめの目の前に突き出すまでは。
「どうかした、ソースケ?」
「ほぐしてくれないか?」
「なに言ってんのよ、自分でやりなさい。これが最終テストなんだからね!」
「テストを受けるのは拒否する。君がやってくれ」
「もう、ソースケ、どうしちゃったの? バカなこと言ってないでさっさと食べなさいよ」
短気なかなめは、すでに語調が怒っている。恭子が心配そうに見守る中、宗介は一旦は皿を手元に戻した。
「……そうか、では俺は俺のやり方で食べることにする」
宣言したかと思うと、いきなり魚を手掴みにした。
「ちょっとソースケ、なんてことしてんの!?」
「相良くん、どうしちゃったの?」
少女たちが上げた声は、責めるよりも呆気にとられてのものだった。宗介の行動は、二人にとってまったくの想定外で、非難するどころではなかった。
「中央アジアや南アジアでは基本的に手で食べる」
宗介は平然と答え、魚に直接食らいつこうとした。その腕を咄嗟にかなめが押さえ、なんとかやめさせる。
「ここは日本なの。郷に入っては郷に従え。箸を使いなさい」
「拒否する。君がやってくれないのであれば、俺のやり方でやる」
「なんのためにあれだけ特訓したと思ってるのよ」
「関係ない。今後は自分のやり方に戻すだけだ」
「ソースケ、あんたねえ」
かなめと宗介の睨み合いになった。たっぷり三十秒は視線をぶつけ合っていただろうか。
それを仲介したのは、もちろん恭子である。最初こそ二人の勢いに飲まれてしまったものの、やがていつもの調子を取り戻した。穏やかに二人を諌める。
「カナちゃん、ほらもう手を離して。相良くんもお皿にサンマを戻しなよ。ね、二人とも落ち着いて」
のんびり口調で言い聞かされると、なぜか従わざるを得ない気分になる。二人は休戦体勢になった。
「相良くん、手を洗っておいでよ」
宗介は無言で席を立ち、洗面所に向かった。
「カナちゃんは、お魚をほぐして骨を取ってあげてね」
「だってキョーコ」
「いいから、いいから。ほら、相良くん、戻ってきたよ。早く早く」
「だったらキョーコがやってあげたらいいじゃない」
膨れっ面になった親友に、恭子は魚の皿を手渡す。
「あたしじゃダメなの。カナちゃんでなきゃ、いけないの。ね、今は言うとおりにして?」
かなめは不本意ながらも、恭子の真剣さに負けて皿を受け取った。いかにも渋々といった様子ではあったが、かなり皮が剥げてしまった宗介のサンマを、以前やっていたようにきれいに身をほぐして食べやすくしてやる。
席に座り直した宗介は、相変わらず無言でその様子を眺めていた。やり終えたかなめもやはり無言のまま、皿を宗介の前に置いた。
「さ、冷めないうちにいただこうね」
場違いなほどにこやかな恭子のセリフで夕食は再開された。
宗介は今度は箸を使ってきちんと食べ始める。かなめはそちらを気にしながらも、あからさまに恭子にだけ話しかけながら食事を続けた。さすがに恭子も、二人にそれ以上なにも強要しなかった。
ちぐはぐなムードのまま、やがて全員が食べ終えた。
恭子が宗介に皿洗いを頼む。彼は「了解」と答えて、即座に片付け始めた。
すると恭子は、今度はかなめを流しから少し離れた場所に呼び寄せた。内緒話をするときのように、小声で耳打ちする。
「あのね、カナちゃん。お魚だけは、これからもカナちゃんが身をほぐしてから食べさせてあげなよ」
かなめの返事はまずしかめっ面だった。
「ね、そうしなよ。あたしからお願い」
「なんでキョーコがお願いしなきゃなんないの? だいたいそれじゃ、特訓した意味がないじゃない。この十日間はなんだったのよ。せっかくちゃんとできるようになったのに」
「うん、だから他のものはお箸できちんと食べるように取り決めなよ。その代わりお魚はカナちゃんがやってあげるの」
「なにそれ? 訳わかんない」
ふっ、と恭子が笑った。直後に「しょうがないなあ」と零したので、どちらかといえば苦笑だったのかもしれない。
「カナちゃんは、相良くんがなんでサンマをお箸で食べようとしなかったと思う?」
眉をひそめながら、かなめは背後の少年をちらっと見やった。
「どうせ面倒になったんでしょ」
「違うよ」
「…………?」
「わからない? 相良くんはカナちゃんに甘えたかったんだよ」
「へ?」
「相良くんはね、カナちゃんに構って欲しいの」
相手の断言する内容に戸惑って、かなめは彼女を見つめ返すことしかできない。
「たぶん本人にもそんな自覚はないんだろうけど」
間をおいてからそう恭子が付け加えた頃になって、ようやくかなめも事の次第を理解した。
ああ、そうか、そうだったのか。そういえば、調理中に宗介の様子が変だと思ったのは、あたしが「これでもう手伝ってあげる必要はなくなった」と言った直後だった。それであいつったら……。
途端に頬が熱くなってくる。
「お弁当はともかく、家で二人きりのときくらいはいいんじゃない、ね?」
「……う……まあ」
恭子のだめ押しに抵抗する余裕などない。かなめは、曖昧にではあったが、同意してしまった。
恭子を駅まで送った帰り、宗介とかなめは自宅に直行する道ではなく、多摩川の河川敷脇を通る遠回りのルートを選んだ。かなめが「ちょっと散歩しようよ」と提案したためである。
静けさを取り戻し始める時間帯となった通りは、夜気に包まれてわりと涼しい。エアコンの効いた室内より、却って気持ち良く感じられた。
「あのさ、ソースケ」
住宅街に入って人通りがまったくなくなった頃、それまで黙って並んで歩いていたかなめが、宗介の顔を覗き込んできた。
「なんだ?」
少女は少し言い淀む態度を見せたが、それから思い切ったように口を開いた。
「あんたはもうちゃんとお箸を使えるようになったんだから、お店で食べるときとか、お弁当とか、外で食べるときには、お魚なんかの食べにくいものが出ても、あたしに頼むのはやめなさいよ」
諭すような口調で一気に言う。
「……そうか」
「小さい子供じゃないんだから、人前ではきちんと一人で食べなさいってこと」
宗介の落胆があからさまだったのか、かなめは慌てた様子で言葉を継いだ。
「でもね、家でなら、えっと、その、つまり、あんたとあたしだけのときには、前みたいにやってあげるからさ」
「いいのか?」
「いいも悪いも、さっきみたいなこと他人がいるところでまたやられたりしたら、あたしが恥ずかしいわよ。恭子だけだったからよかったけど、もう二度とヤダからね」
「すまなかった。だが、なぜ君が恥ずかしくなるのだ?」
「なぜでもよ!」
宗介は、相手の口調の変化から、それ以上の質問は危険だと感じて口を閉じた。
「さてと、明日のメニューはなんにしようかなあ」
一転して明るい調子でかなめが話題を変えた。
「あんた、なにか食べたいものある?」
「カ──」
「カレー以外で。昨夜(ゆうべ)食べたばかりでしょ!?」
先手を打たれたために言えなくなった料理名の他には、すぐには思いつかない。
「なんでも構わない」
そう答えるしかなかった。
「なんでもいいってのが一番困るのよね」
全国の主婦と共通の命題に少女がぼやく。
「いや、千鳥が作る料理はどれも美味いから、なんでもいいと言っているのだ」
「おだてたってステーキなんて出しませんからね!」
「俺は事実を述べただけだが」
至って生真面目に宗介は答えた。かなめはそれなり気をよくしたようだったが、なにせ素直ではないから頬を染めながらそっぽを向く。
「言っとくけど、明日の朝ご飯のおかずはアジの開きだからね!」
「君が身をほぐしてくれるのであれば、アジでもサンマでも歓迎する」
「しょうがないからやってあげるわよ」
「感謝する」
「はいはい、感謝してちょうだい!」
振り返ったかなめがイタズラっぽく微笑んだので、宗介の口端もわずかに持ち上がった。
「ね、見て。星がきれいだよ」
何気なく夜空を見上げたかなめが、天の川を指さす。
いつの間にか、河川敷を整備して作られた公園が目の前だった。街灯の間隔が間遠になり、周囲の暗がりは濃さを増している。まだ月の出る時刻まで間があるので、空自体もダークブルーが色濃い。そのためか、いつになく星がはっきりと見えている。
じきに三叉路を左に折れて、公園に沿った道路を二人はのんびりと辿った。
頭上には星が描く空の川が流れ、眼下には水が作る地の川が流れている。
穏やかに吹いてくる風がとても心地良い。
「ほら、『夏の大三角』がくっきりしてる。ソースケ、七夕のときにした話、覚えてる?」
「ああ」
「あれが織姫星で、あれが彦星」
細い指先が示す先を見るふりをしながら、宗介は少女の後れ毛が風になびくのをぼんやりと眺めていた。なんだか世界に二人きりでいるような気がした。
急に落ち着かない気分になり、気付かれないように密かに大きく息を吐く。
「できれば、魚料理を食べるのは二人きりのときだけに限定してもらいたいものだな」
少女の横顔を見つめて、宗介が呟いた。
だが、星座に気を取られてあれこれ説明するのに夢中になっているかなめには、残念ながら届かなかった。
了
箸と魚のディスコード 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai
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