いつかのボーイ・ミーツ・ガール

佐倉千波矢

いつかのボーイ・ミーツ・ガール

 窓を開け放つと、少し強めの風が吹き込んできた。少女は軽く目を閉じて、頬を掠める涼やかな風を感じた。

 気温は高くても湿度は低いため、陽光さえ遮ればさほど暑くない。ロビーに外壁がなくて驚いたが、確かにクーラーをかけなくてもこの風があれば十分だ。むしろ自然の風の方が望ましい。エアコンのスイッチを切り、他の窓をすべて開いて回った。

 ガラス戸も開き、そこからバルコニーに出る。さほど広くはない空間に、籐製の小さな丸テーブルと二脚の椅子が配してあった。

 被っていた麦わら帽子をテーブルの上に投げだすと、少女は柵状の手摺りから身を乗り出して左手方向を見晴るかす。

「こっちの部屋も、やっぱり海は見えないなあ」

 ビーチがあるはずの方向は、建物の突き出た部分と生い茂った木立のために数十メートル先で視界が遮られていた。最上階とはいえ、建物自体が四階建てではたいした高さはなく、それより丈高い木々に周辺を取り巻かれていては、さほど遠くまで臨むことはできない。

 そもそもこのホテルは海岸線に対して垂直方向に建てられているので、オーシャンビューを得られる部屋はないのかもしれない。ビジネス・サービスが行き届いているという観点から選ばれたホテルだ。父のビジネス・トリップに付いてきた──否、連れてこられた娘には、選択権がなかった。レクリエーション設備が豊富であることを考慮してくれただけでも良しとするべきか。

 それでも緑に囲まれた環境というのは悪くなかった。草木は緑濃く、花々は色鮮やかで、みごとに南国の植物ばかりである。実のところこのリゾート地の植生は、過剰なほどの南国らしさが人工的に演出されていた。だが、東京とニューヨークという大都市で育った少女にはヤシの木くらいしか見分けはつかず、充分に「手つかずの自然のまま」に感じられた。

 手近な椅子に腰を下ろして、風に吹かれる。

 背中で切りそろえた艶やかな黒髪が風で乱れたが、少女はそれを気に留める様子もなく、ぼんやりと景色を眺めていた。線が細く色白で卵形の整った顔立ちには、年齢相応の幼さが残っている。どこか物憂げな表情をしているせいで、普段の気の強さが影を潜めていた。ほっそりとした肢体に、一昨日買ったばかりの真っ白いサマードレスがよく似合っている。

「おねえちゃん!」

 突然の声にびくっと身をすくめた少女は、窓から顔を出した妹を軽く睨んだ。

「驚かさないでよ」

「そんなつもりなかったんだけどな」

 五歳年下の妹は、絶対視している姉の言葉にしゅんとしてしまった。半年前に母を亡くしてからというもの、少しばかり情緒不安定になっていて、放っておくと些細なことで落ち込んでしまうのだ。慌てて笑顔を向けた。

「で、なんなの?」

「あのね、お昼を食べにレストランへ行こうって」

「そういえばお腹すいたね」

「うん」

 そこに、二人の世話をするために雇われている若い女性が、コネクティング・ルームのもう一方の部屋から姿を見せた。話す英語は訛りがあっていささか聞き取りにくかったが、物腰の柔らかい穏やかな性格を少女たちは気に入っている。

「You two are ready for lunch?」(お昼に行きましょうか?)

「Sure. I'm starving.」(はーい。お腹ぺこぺこ)

 明るく答えて、少女は椅子から立ち上がる。

 しかし顔を部屋の方に向けたまま、身体を捻りながら立ったのが良くなかった。わずかにバランスを崩してしまい、それでも持ち前の反射神経の良さで体勢を直す。そのときに、左手がテーブルの上で空を掻き、そこにのっていた麦わら帽子を勢いよく弾いてしまった。

「あっ!」

 手を伸ばしたときには、すでに帽子は手摺りの外に飛び出ていた。



 なにかが空に舞う様子を目の端に捉えた。少年は即座に視線をそちらに向ける。一瞬だけ風船爆弾の類かと疑ったが、すぐにその茶色で円形の物体が麦わら帽子であると認識できた。

 それが落とされたと思しきバルコニーを仰ぎ見ると、人が一人手摺りから乗り出している。東洋系の女性らしいことは見て取れたが、距離があるのではっきりとした顔の造作まではわからなかった。

 どうやら、あの女の麦わら帽子がたまたま風に飛ばされた、と判断するのが正解のようだ。帽子であるのは見かけだけという可能性もあったが、ここに滞在中は自身の身柄安全保持以外の事柄に対する積極的な関与を養父から固く禁止されていたので、それ以上の詮索を自らに禁じた。

 麦わら帽子は一度下降しかけたが、強い風に煽られ、逆に舞い上がった。運悪くオフショアの風に乗ったのだろう。そのままヤシの木の群生を越えて、海岸の方向に運ばれていく。じきに見えなくなってしまった。

 念のために数分はその場で待機したが、ビーチの方から爆発音が聞こえることもなかった。再度歩き出す。

 短い黒髪を風に晒しながらあちこちきょろきょろと見て回っているその姿は、他人の目には物珍しげに周辺を徘徊している宿泊客の子供として映っただろう。だが実際は、少年は周辺を探査している最中だった。

 ホテルの建物はラグーンに浮かぶ島を模しているとのことで、不定形の曲線を描くプールで取り巻かれており、岸にはところどころ小型の東屋(ガゼーボ)が不規則に並んでいて、さらに外側にビーチへと続く遊歩道が敷かれてあった。その遊歩道を辿りながら敷地内を巡りつつ、非常時の退路やセキュリティなどを確認して回っていたのだ。頭の中に描かれた敷地一帯の図面には、次々と新しい情報が加わっていく。

 十代前半でありながら、少年の目つきはするどく、表情には年齢に不似合いな厳めしさすらあった。一見ゆったりとした立ち居振る舞いも、見るものが見れば片時も油断ないものであるとわかるはずだ。

 そんな彼だから帽子にも即座に気付いたといえる。通常、人は足元には気を付けても、頭上にはあまり注意を払わないものだ。

 とはいえ、今日の彼は普段より気が張っているのも事実だった。服装のせいである。目立たないことを厳命され、その一環としてTシャツにショートパンツの着用を指定されたが、この格好は所持できる武器が限られてしまってどうにも心許ない。ここには戦闘をしにきたのではないのだから、と何度も自分に言い聞かせる必要があった。

 少年は仕事の契約をするためにここにやってきた。正確には、契約にきた養父に付いてきた。

 新しく仕事を依頼してきた相手の面会指定場所、それがヌサドゥアのこのホテルだった。もっともそれは単に、依頼人が休暇でここに滞在しているから、という理由によるものだったが。

 契約の内容確認や報酬の交渉といった事柄は、すべて養父が行う。今日も先方からの電話を受けるために部屋で待機していた。その間に少年は周辺の様子を窺うために外に出たというわけだ。

 一通り見て回ったところで、ちょうど約束の時間となった。養父との待ち合わせ場所であるレストランへと向かう。

 コテージ風のそのレストランは、敷地の外れに砂浜に面して建っていた。この土地の習慣なのか、他の共用スペースと同様に外壁がない。腰の高さの仕切塀と、屋根を支える柱数本があるだけだ。こんなところで銃撃戦になったら、盾になるものがほとんどないではないか。不用心すぎないか? 少年は顔をしかめた。

 養父はすぐに見つかった。奥まった位置のテーブルに着いている。目線での合図を受けて店内に入り、向かいに座った。

「なにか言いたそうだな」

「このような店でいいのですか?」

「耐えろ」

「……了解」

 間をおかずにウエイターが寄ってくると、オレンジジュースを置いていった。あらかじめ養父が注文していたらしい。

「なにか変わったことはあったか?」

「いいえ、特になにも。セキュリティにはいささか問題があると思われますが、俺にはリゾート地での基準がわかりません。こんなものなのでしょうか?」

「この島は比較的治安が良いからな」

「そうですか」

 隣の島では小規模とはいえ市民の暴動が散発しているというのに、ここはまるで別世界だった。同一国内でありながら、この差はあまりに大きい。

「ところで、先方と連絡はついたのですか?」

 周囲にロシア語を解する者がいる可能性は低かったが、少年は声を低める。

「一七〇〇時に、この正面にあるものから右に二つ目のパラソルで落ち合うことになった。依頼内容はそのときに聞く」

 養父の視線を追って、件のパラソルにちらりと視線を走らせ位置を確認する。頭の中の見取り図に描き加えた。

「なぜ室内ではないのでしょう?」

「休暇中に仕事は一切しないというのが、家庭内での決まり事なのだそうだ。家族の目を盗むには、別室を借りるのもこちらの部屋に来るのも不都合らしい」

「決まり事? ……理解できません」

「しなくていい」

「了解しました」

 先ほどのウエイターが、今度は平皿を二つ運んできた。少年は、目の前に置かれた見慣れない料理を観察した。

「この土地の民族料理だ。ナシゴレンという」

 躊躇っていると、養父が先に食べ始めたので、それに倣った。エビやタマネギなどが混ざった炒めた飯をスプーンで口に運ぶ。

「どうだ?」

「栄養的に問題ないと思いますが」

「……そうか」

 後は二人共、ただ黙々と食事を続けた。



 すでに昼時を過ぎているためか、少女たちがレストランに着いたとき、店内には客が四組しかいなかった。五組目の客となった三人は、すぐに奥へと案内される。

 途中で大柄な白人男性と小柄な東洋系の少年が静かに食事しているテーブル脇を通り過ぎたとき、妹が世話係の女性(ナニー)の袖を引いて小声で話しかけた。

「What's that?」(あれはなあに?)

「Which one?」(あれって?)

「The dishes they're eating.」(あの人たちが食べてる料理)

「Ah, that is Nasi-Goren.」(ああ、ナシゴレンよ)

 二人のやり取りで興味を引かれ、席に座るときにちらっと振り返ったが、少年の背に隠れて肝心の料理は見えなかった。

 メニューを見ながら女性が料理の説明をしてくれる。結局、妹は注文をナシゴレンに決めて、少女も女性も同じものにした。

 たいして待つほどもなく皿が運ばれてきた。具だくさんのチャーハンの上に目玉焼きが載っていて、脇に肉の串焼き、シュリンプ・チップス、レタス、トマトが添えてある。甘辛い味付けは最初こそ妙な感じだったが、なかなかおいしい。

 三人は食後の予定について話しながら、賑やかに昼食を楽しんだ。

 少女が皿の上のものをすべて平らげた頃には、店内の客はすっかり入れ替わっていた。だが一向に混む様子はなかったので、そのまままったりとお茶とおしゃべりを楽しむ。三人が店を出たのは、席に着いてから二時間も経ってからだった。

 その後、ホテル内にあるショップを小一時間かけてすべて冷やかして回ったところ、まだ小さい妹はすっかり疲れてしまったので、女性に任せて先に部屋に引き上げさせた。まだまだ元気の有り余る少女は、一人でビーチに戻って辺りを散策する。

 海岸沿いの遊歩道をしばらくぶらぶらと進んだ。白い砂浜は湾曲しながらずっと向こうまで続く。あまり遠くへ行くのはよくないだろうと適当なところで引き返して、昼食を取ったレストランにほど近い場所でしばらく波と戯れていた。

 そのうちに日が傾き、徐々に景色が夕暮れのどこかしんみりとした雰囲気に移り変わっていく。ついさっきまでは、真っ青な空に綿雲が浮かび、透明な海は陽の光を反射してきらめいていた。子供たちが水遊びではしゃぎ回り、カップルが水際を寄り添って歩き、若者がビーチチェアに転がって日光浴し、老婦人がパラソルの下で本を読む。そんなリゾート地らしい光景が広がっていたのに、いつのまにか人気も薄れている。

 そろそろ部屋に戻ろうとホテルの方向に向かって歩き出し、だがすぐに足を止めた。少し先に建つ簡易な作りの東屋の屋根になにかがのっていることに気付き、目を引かれたからだ。「なにかなあ?」と声にした途端、それが麦わら帽子だとわかった。

 ひょっとして、風に飛ばされた自分のものだろうか? だが麦わら帽子などどれも似たような見た目をしている。少女は背伸びをして、じっと目を凝らした。つばの上の腰部分に巻かれた白いリボンに見覚えがある。サマードレスに合わせて選んだあのリボン。やはり自分のものだ。

 確信と同時に走りだす。失くしたときにはかなりがっかりしたものの、かといって必死に探して回るほどには執着がなかったから、帽子の消えた方面を一度確認しに行っただけであきらめ、昼食の席に着いた頃にはすっかり忘れていた。だが、目の前に見えるとあれば話は別だ。

 東屋の下に駆け込み、真上を見上げる。柱を四本立てているだけの側面と違って、上面は隙間なく板でふさがっているので、当然ながら下からは見えない。外に出て見上げたが、屋根にほとんど勾配がないため、近くまで寄ってしまうと帽子はまったく見えなくなってしまう。ぴょんぴょん飛び跳ねてみたが、まるで無意味だった。もう一度確認しようと屋根を見上げながら後ろ向きに下がっていくと、帽子が見えるようになるまでにはかなりの距離を戻らなければならなかった。

 少女はどうしたらいいだろうかと思案しながら、行きつ戻りつした。



 遊歩道を歩く少年は、十一時方向にあるガゼーボの脇でしきりと上を見上げている少女の姿に気付いた。不審に思い眺めていると、少女は後ろ向きに下がり、やがて足を止める。屋根の上を見上げているようだ。

 距離が狭まると、少年にも理由が推察できた。なにかがのっている。陽の光がかなり弱まったせいで判別しにくかったが、じきに対象物は麦わら帽子であるとわかった。

 昼食前にプール横で見た光景が想い出された。あのときの帽子と女だろうか。背格好の特徴と着用している衣服は似ている。しかし建物からここまではかなりの距離がある。あの帽子が本当にこんなところまで飛ばされたのだろうか。

 少年は少女を脇に見ながら通り過ぎていった。

 やがて養父がいるパラソルに近づいた。ゆっくりと歩きながら、様子を窺った。

 変化はない。養父もビジネス相手も、ラフな服装でパラソル下のビーチ・チェアに寝そべっていて、とても仕事の話をしているようには見えなかった。

 そのまま一〇メートル先まで遊歩道を辿ってから、小径を外れて砂浜に出ると水際近くまで寄る。パラソルを中心に円を描くようにして回り込んだ。

 すると先刻のガゼーボがまた目に入る。少女はまだそこにいた。



 東屋のすぐ脇を通る遊歩道を少女がうろうろしていたところ、従業員の制服を着た年配の女性が通りかかった。服装から客室係と知れる。確かこの先に従業員専用の建物があったので、そこへ向かう途中なのだろう。

「Hey, I have something to ask of you.」(ねえ、ちょっとお願いがあるの)

 少女が呼び止めると、客室係はにこやかな笑顔を浮かべた。

「Please ask at reception desk, ma'am. I don't understand any foreignlanguages.」(フロントにお聞きください。私は外国語がわかりません)

 いかにもただ丸暗記しましたという応答だった。話が通じないのであれば仕方がない。

「OK. I will.」(そうするわ)

 と返すと、その女性はそそくさと去っていった。

 直後に別の男性従業員がやってきたので、少女は再び話しかけた。少し粘って懸命に説明を試みたが、結果は同じだった。身振り手振りを交えたところでまるで通じず、東屋の屋根の上に自分の麦わら帽子がのっているのだということが伝わらない。相手は笑顔で首を横に振るばかりだ。

 高級リゾート地にある一流ホテルといえども、英語に堪能な者ばかりというわけではないのだろう。直接に接客することのない客室係や、オーダーさえ聞き取れれば済むウエイターにとって、必ずしも必要な能力ではないのだから。

 目の前にあるのに手が届かない。援助を得られない。相手の落ち度ではないとわかっていても、どうしようもないもどかしさから、去っていくお仕着せの白い背中に向かって、

「Damn!」(バカ!)

 とついつい呟いてしまった。



 上品とは言いかねる少女の悪態が耳に届いた。小綺麗な身なりとは不釣り合いで、ひどく意外に思われ、それが少年の足をその場に止めさせた。このような高級ホテルに宿泊する子供でも、そんな言葉を遣うものなのか。

 少女が屋根の上に引っかかった帽子を取りたいのだということは察しがついていた。自分なら、一〇秒で用を足してやることができる。

 だが、どうしたものか、と迷う。他人と関わりを持たないことを前提に、今の自分は行動している。現在、養父のバックアップをしているのだ。彼は自分よりも遙かに戦闘能力が高いので、そばに付いている必要などほとんど無いとはいえ、やはり少しでも責務を妨げるようなことに手を出すのは避けた方が懸命だ。

 そもそも、これが罠ではないと言い切れるだろうか? 養父には今も祖国からの追っ手がかかっているはずだ。

 少女は依然どうしようかと迷っている様子で、上を見上げながら立っている。このビーチからフロントまでは、数百メートルの距離がある。向こうまで行って説明を繰り返し、手助けしてくれる誰かを連れて、また数百メートルを戻ってくるのは確かに一仕事だろう。

 しかし結局はそうするしかないと結論を出したらしい。少女はホテルの方向へと向き直った。

 そこで初めて、背後にいた少年の存在に気付いたらしい。目が合った。二メートルの距離を置いて正対する。

 美醜に関心のない少年にも、相手の容姿が端麗であることは理解できた。風に吹き乱されたくしゃくしゃの髪や不機嫌そうな渋面を差し引いてなお、夕暮れの柔らかな光の中に立つ少女の姿は充分に美しかった。さほど年は変わらないだろう。目線が同程度の高さなので身長も同じくらいか。

 どう見ても危険な存在には思えない。まるで緊張感がなく、動作には無駄が多い。手の込んだ方法で自分たちを罠に嵌めようというには、その手順が偶然性に頼りすぎている。

「Is that straw hat yours?」(あの麦わら帽子は君のものか?)

 意識せず言葉が口を衝いて出た。それは問い掛けでも確認でもなく、どういうわけか無性に手助けしてやりたくなり、そのきっかけにしただけだ。といっても、少年はそんな自身の心境にまるで気付いていなかった。

 少女が戸惑いがちに頷いた。

「Yeah, mine. The wind flew it up.」(うん、そう。風で飛ばされたの)

 少年は、ガゼーボに覆い被さるように伸びているヤシの木にいきなり取り付いた。少女が目を見開いて驚くうちに、するすると登っていき、屋根の上に移動する。なんなく麦わら帽子を手にすることができた。

 傍らに飛び降りると同時にそれを差し出すと、少女は素直に受け取ってにっこりと笑った。それを見た途端、少年はなぜか落ち着かなくなった。



「Thank you! Thank you so much.」(ありがと! ホントにありがとね)

 少女が笑いかけると、少年は目を逸らした。

「No problem.」(いや)

 無愛想に返事をして、用は済んだとばかりに即座に少年が歩き出す。慌てて追いかけ、小走りになってすぐ横を同行した。

「Wait a minute. I'm gonna buy juice or something for you in return for this.」(ちょっと待ってよ。お礼にジュースかなにかおごるから)

「You don't have to do that.」(そんな必要はない)

「In a hurry?」(急いでるの?)

「Affirmative. My father is waiting for me.」(肯定だ。父が待っている)

 足を止めずに顔だけを向けた、そっけない答え方だった。

「Your dad is? Oh, OK.」(お父さんが? そっか)

 どうやら納得するしかないようだ。少女は礼は諦めて、とにかくもう一度感謝の気持ちを伝える。

「Well, thank you for your help.」(とにかく助かったわ)

「That's nothing.」(たいしたことではない)

 少年は仏頂面で愛想の欠片もなかったが、少女はなぜか好感を持った。それどころか、なかなかハンサムだな、とさえ思った。回りにいるどんな男の子とも違うタイプだ。凛々しいという言葉が浮かんだ。そうだ、この子ってなんか凛々しい感じがするんだ。

「Have a nice vacation! See ya!」(休暇、楽しんでね。じゃ!)

 最後にもう一度笑いかけてから、少女は足を止めた。

「You, too. Bye.」(君もな。では)

 少年は足早に去り、どんどん距離が離れていく。少女は遠ざかる背をなんとなしに見送った。

 数十メートル先で少年が方向を変えた。遊歩道沿いに等間隔で建っているパラソルの一つに入り込み、その下のビーチチェアに寝ていた男性に話しかける。夕暮れのぼんやりした光の中では、距離を置いた少年の顔はもうはっきりとは見えなかった。



 立ち止まった少女を残し、緩いカーブを描く小径に従って少年は歩いた。こちらを見送っているのか視線を背中に感じたが、他意はないようだ。

 約三〇メートル進んだところに、例のパラソルがある。五メートル手前で足を運ぶ速度を落として様子を見ていると、そこから男の影が二つ離れていく。交渉は終わったようだと判断し、男たちの姿が木立に紛れてから方向を転じた。

 養父は、少年が先刻その場を離れたときと変わらず、寝転がって本を読んでいた。少年が脇に立つと、本を閉じて身を起こす。

「済んだ」

 立ち上がり、少年の横に並んだ。

「そうですか」

 すぐそばで見上げると、養父はふっと目元と口元を弛めた。

「また身長が伸びたな」

 少年の頭に軽く手が置かれる。

 二人の間に信頼関係が築かれた頃から、養父はそうやって微笑することがあった。少年が成長するに連れて回数は減ってきたが、今でも時折思い出したようにそうすることがある。

 何度されてもどこか戸惑いを感じるが、いやではなかった。

「歩こう」

 養父は先にたって砂浜へと踏み出した。少年もそのすぐ後ろに続く。



 少女は、連れだって海辺を散策する父子の姿を眺めていた。

「……親子で散歩、か。……ウチのお父さんとはえらい違いよね」

 バンコクでもシンガポールでもクアラルンプールでも、到着時にはホテル内のコンファレンス・ルームに直行し、娘二人は現地雇いのナニーに任せきりで仕事をしている自分の父親の顔がふと浮かんだ。もちろん出張で来たのだから当然であるが、ろくに様子も見に来ないのは親としてどうなのだろう。

 休めるはずだった旅程最後の三日も結局つぶれてしまった。このヌサドゥアに来る前には、ジョグジャカルタ近郊にある世界遺産の遺跡を訪れるために、一緒にジャワ島に寄るはずだった。だがその予定は昨日の朝になって変更となり、父だけが先にバリ島に向かい、妹と二人でナニーとガイドに連れられて観光してきたのだ。今日もまたコンファレンス・ルームに籠もりっきりで、別行動だった娘たちがこうやってホテルに到着しても、電話確認があっただけである。

「……ま、別にどうでもいいけど」

 母はいつも「お父さんはとてもたいへんなお仕事をなさっているから」と言い続けていたから、自分も妹も無条件に父の不在は甘受していた。だが、その母が亡くなったときですら父は……。

 少女はギュッと目を瞑ると強く頭を振った。湧き上がってきた様々な想いを振り払うかのように。

 我に返ると、ずいぶん長い時間を立ちつくしていた自分に気付き、慌てて踵を返す。明日の午後には東京に帰るのだ。荷造りをしておかなくてはならない。

 建物の出入口へと続く小径を辿りながら、少女はむりやり帰国の準備に頭を切り換える。

 麦わら帽子を取ってくれた少年のことは、いつのまにか念頭から消えていた。



 時々さりげなく視線を巡らして動向を窺っていた対象の少女が、ようやくホテルの方へと去っていく。安心したような、物寂しいような、奇妙な気持ちが心を掠めたのが、少年は我ながら不思議だった。

 だが、それとは別に養父の話には逐一耳を傾けていた。

 明日はカンボジアに向かうことをまず知らされた。遠ざかる少女の背中を眺めながら、現地までの経路と飛行機の発着時間を復唱し、頭に入れる。

「カンボジアは、たしか王党派と人民党派が政権争いを始めましたね」

「ああ。依頼人は人民党の支持者だ」

「それではとうとう──」

「いや、まだ武力衝突まではいかないだろう」

「では任務というのは?」

「ASの訓練教官を務める。依頼人の私兵に対してだ。対ゲリラに備えているとのことだ」

「なるほど」

 将来的には人民党側の正規軍に所属するだろう兵の訓練をするのだ、という言外の意味を汲み取って頷く。

「どの程度の操縦レベルなのでしょう?」

「素人同然のようだ。サベージを先月配備したばかりだと言っていた」

「それはやり甲斐がありそうです」

 表情を変えることなく、至って真面目に受け答えする。だが身内に高揚感を感じ始めた。ASに乗る任務は、彼にとって大きな意味があった。

 すっかり日が暮れたために黒っぽく見える砂を踏みしめながら、少年は新たな任務の内容に完全に注意を向ける。

 少女との邂逅は、すでに過去の些細な出来事になっていた。


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いつかのボーイ・ミーツ・ガール 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai

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