トイレトイレトイレ

うたかた

第1話

三月上旬の深夜。

寒空の下、俺は飲み屋からマンションに帰ってきた。闇も深く、蛍光灯の明かりを弱く感じる。大量に酒を飲んだので、千鳥足で二階への階段をあがった。

午後九時まで、後輩の麻生と一緒に明日のプレゼン準備をしていた。それが終わり、

「決起集会です、田口さん。吞みに行きましょー! ウェーイ」

という、麻生の誘いにのったのが不味かった。腹も空いていたし、今日の作業が完了した解放感もあった。とはいえ、重要なのはプレゼン自体だったのに。

三社のIT担当者に大会議室へ来てもらい、新商品を説明する。システム関連を生業としているわが社の、画期的な労務管理ソフトについて。出退勤の時間から残業代を換算させ、月々の給与にオートマティックに反映させる。通常残業と深夜残業。残業代の異なる区別も間違えない。これで各社の給与担当者の負担が激減となるだろう。前回、説明をした経理システムを導入し、高い評価をくれた会社が有難いことに説明会に食いついてくれた。

広報を担う総務課としては真価を問われる場面だ。しかも、伊藤課長は出張中のため、係長の俺が全責任を負う。そんな重要なプレゼン前日に、こんな遅い帰宅をするとは。やってしまった。


 麻生に誘われた飲み屋は会社から近い、大衆居酒屋ポット・エイトだった。一品一品の値段が安価で、魚が新鮮でうまい。酒がすすむ。

「ねぇねぇ、係長。この前、僕のことを‶あそう〟じゃなくて、‶あほう〟って呼びましたよね? 『あほう、このメールを返信しておいて』って。あれ、ばれていないと思ってますぅ」

「それは一度きりで、お前がアホみたいな失敗をしでかしたからだろ。激怒されなかっただけありがたく思ってくれ。なんだよ、予算を一桁多く間違えて申請するって。前代未聞だぞ」

 俺はカツオのたたきに伸ばした箸を止め、眉をひそめる。

「いやいや、申請書は田口さんも承認印を押したじゃないですか。よく確認せずに通した経理課も悪い。もちろん、書類を少しばかり間違った過去の僕もダメ……なのでしょう。でも、予算取りができていたから、森山部長からの無茶ぶり工事もできたんです。一見失敗かもしれません。でも、結果だけ見れば大成功です」

 麻生はぐいっと北海道ビールの入ったコップを空ける。赤ら顔でこっちに絡んでくるし、飲みすぎだろ。

「なんとか責任逃れしようとすんな。大失敗だ」

 そうは言うものの、突発的な工事に対応できたのは、確かにコイツのお陰だった。会議室の扉を強化ガラスにし、さらに外側に電動シャッターを降ろす。それを一日で施工できる業者を選べたのは、予算度外視だったから。例年であれば、総務課の微々たる業務委託費で発注などできはしない。可能だったのは、麻生のあほうな予算申請ミスがあったからである。

完璧な工事ではなかった。

後付けに加え突貫だったためか、シャッターの壁付けスイッチが無く、一度シャッターが閉まるとリモコンでしか開かない。そのため、社内では‶脱出ゲーム会場〟や、シンプルに‶刑務所〟などと呼ばれ、恐れられたり避けられる会議室になった。

しかし、この工事を鶴の一声で実施させた、森山部長は心から喜んでいた。

 そして、部長も無意味に命令をくだした訳ではない。原因となる出来事があった。


自分は係長なので、伊藤課長から内容は教えてもらったのだが、夏に課長以上が参加する会議が開催された。

「はい。じゃ~例年通りで」

とサクサクと、予定調和の議題が承認されつづけ、ものの五分で会議は終了。すぐに解散すればいいものの、社長が余計な一言を付け加えた。

「せっかく課長たちが集まったし、もうちょっとお話しましょうか」

そして、始まった会話が、各課の問題点と改善策についてとかならば、俺も納得がいく。

だが執行部の話しあいは違った。行きつけのスナックにいる、オネーチャンの誰が美人かについて懸命に話しあったという。アケミちゃん推しの人事課長と、マイコちゃん推しの経理課長が喧々諤々とやりあう。どちらが一番の美女なのか。

「チヨコちゃんだろ!」

「マイちゃんに決まってんだろ」

「チヨコの良さが分からないなんて、おめぇは目が腐っている」

「マイが眩しくて、他の女は見えませーん」

事態は紛糾を極めた。とうとう両課長が胸ぐらをつかみ合いだしたので、温厚な森山部長が間に入る。すると、人事課長が部長の手を払いのけようとして、やってしまったのだ。

そう、部長のズラをはじいてしまった。優雅に宙を飛ぶ、森山部長のかつら。

活発な意見を交わす場に舞う、無機質なそれは、シュールレアリスム絵画のように美しかった。全課長が息を呑む。

みるみるうちに部長の恵比須顔は赤くなり、修羅のような顔つきに。

「何してくれてんだァ? てめェ……。力士のまわしを剝ぎ取ったようなもんやぞ、コラ。覚悟しろ、貴様」

部長が腕をひろげ、腰をひくく構える。腕の残像が発生するほどの、連続した張り手を両課長にかまして、土俵際まで追い詰めていく。

「チヨコだか千代の富士だか知らんし、マイだか舞の海だか知らんがなあ。漢が容姿で女性に順位をつけるんじゃねえ!」

うっちゃられた人事課長と経理課長が、雪崩のように会議室のガラス扉に激しくぶつかる。扉はひびが入り、粉々となって綺麗に四方へ飛び散った。

これが【森山部長の大相撲、夏場所事件】の全貌である。

今後こんなことが起こらないようにと、森山部長の命令で扉の強化工事を行ったのだ。現場で肝を冷やした社長も「二度とあってはならない痛ましい事件だから、すぐ補強してヨシ!」と言ったそう。

その後しばらく、森山部長は課長陣から、恐れられたり避けられたりした。


俺は部屋の鍵を開け、玄関の三和土でふらふらと革靴を脱ぐ。

気力を振り絞って、風呂場へ。シャワーを浴び、歯を磨く。パジャマに着替えると万年床に倒れこむように、疲労困憊の体を横たえる。すると、すぐに眠気がやってきた。

まどろむ意識の中、俺の身体はぶるぶると震えた。(まずいな……風邪を引いたかな)。

そして翌朝、部屋に差しこむ陽光の眩しさで目が覚めた。


「すまん。目覚ましをかけ忘れた」

 俺は始業時間ぴたりに、駆け足で総務課に入る。すでに室内にいた麻生に声をかけた。

麻生はプレゼン資料をデスクトレーにつめて、台車に載せていた。後は会議室へ運ぶだけの状態のようだ。いつも始業時間と同時に職場へ来るヤツなので驚いた。

「田口さん、今日は大事な会議なんだから。しっかり頼んますよ」

 殊勝なことを……。

あほうな後輩とばかり思っていたが、それなりに成長しているのかもしれない。うっすらと感動を覚えながら、麻生の入れてくれた茶を一緒に飲む。これも初めてのことで驚く。いつもお茶かコーヒーを入れてくれるアルバイトさんが、お子さんの体調不良で休みだからとはいえ。

資料をざっと最終チェックしたが、誤字脱字や文字の見切れはない。俺は麻生に声をかけ、資料とノートPCを乗せた台車と一緒に部屋をでた。麻生が振りかえって《不在にしています》と書かれた張り紙を、課の入口扉に貼る。抜かりがない。今日の麻生は気合が違う。これは俺もプレゼンを頑張らなくては。

 ──そうして俺達が、脱出不可能な会議室に閉じこめられたのは、その三十分後だった。


 二人で会議室の机に資料を並べて、スクリーンを降ろし、PCの画面を投影。準備万端で他社の方々を待つが、開始五分前になっても誰も来ない。麻生が「五分あればいけるっしょ」とトイレに立つ。

「ああっ、田口さん。扉がしまっています」

 すぐに報告しに戻ってきた。尿意をもよおしているのか、体は小刻みに震えている。俺がガラス扉の方に視線をやると、確かに鉄の電動シャッターが下りていた。いつの間に閉まっていたのだろう。操作をした覚えはないが。

「そのシャッターは奥の控室にあるリモコンじゃないと開かないんだよなあ」

 と俺は控室へ行って探すが、いつもの場所に見当たらない。

「先輩―。急ぎでお願いしますー」

 麻生の声が室内に響く。駄目だ。隅から隅まで見たが、ない。

軽く汗をかきながら控室をでて、「どこにもないぞ」と声をかけようとする。

 そこには、スクリーン前で口をあんぐり開け、棒立ちになっている後輩がいた。

「田口さん、変なやつが」

 と画面を指さす。

『おいおい。一緒に汗を流して働いた元同僚に、ずいぶんなご挨拶だな』

 変なやつはこちらに顔を向け、右の口角をゆっくりとあげた。

『さあ。デスゲームの、始まりだよ』


 スクリーンには映っているのは、タンクトップを着た筋肉質な男性だ。三十代前半くらい。セットに時間のかかりそうな艶やかな黒い長髪。そして、椅子に斜めに座ってカメラアングルを気にしているあたり、ナルシストな印象を受ける。

「……誰だ、こいつ。田口さんの関係者でしょ。こんな妙な人、僕の知り合いにはいないですもん」

 麻生が首を横に振る。しかしながら俺の記憶にも、こんな同僚はいなかった。

「覚えがないよ。こんなディープインパクトな人間」

お前の仲間だろ。先輩の友人でしょ、と不良債権のようにディープインパクトを押しつけ合う。すると、男が目をむいて鼻息荒く、文句を言い始めた。

『嘘だろ。普通こういったゲーム主催者って正体を隠して、現れるんだよ。そこを俺はお面もつけず、ボイスチェンジャーもしていないんだ……頼むから、思いだしてくれよ』

「そう言われてもなあ」

『分かった。ヒント、ヒントをだすから。ほら前年度末に一緒に働いた』

 想定外だったらしく男は慌てた口調でヒントを告げる。だが。俺と麻生の傾げた首の角度は大きくなっていく。

『チックショー! 品川商事から転職した大崎だよ。お・お・さ・き』

「ああー」と二人同時に、ぽんと手を叩く。そして、

「思いだせる訳ないだろ。年度末のクソ忙しい時期に入社して、翌日に退職したやつを!」と大声でハモった。

大崎は自分で回答を口にしたにも関わらず、こちらが思いだしたことに何故か満足げだ。

「伝説の新人が、いまさら何の用だ」

 麻生が問いかけると、大崎はくるりとキャスターチェアを一回転してから、口を開いた。やっぱりこの男はナルシストだ、間違いない。正直キツイ。

『お前らが俺様を怒らせたから、一日にして仕事を辞める憂き目にあったわけだが。その後一年間、職にあぶれたんだよ。人の三倍は優秀な、この俺が。このまま新年度を迎えることはできない。負け犬のまま終われない。そう思った俺は復讐を実行したわけさ』

 大崎は会議室のシャッターリモコンを右手にぶら下げて、見せつける。画面に大きく顔を寄せた。

『謝ってもらおうか! あの日、俺を苛立たせた出来事を。しっかりと正確に謝れたらこの部屋から出してやろう。それまでこの恐怖のゲームは終わらないぞ』

「くっ。確かにこの部屋から出られなかったら、僕は漏らしてしまう。やっちまったら会議室を出た後に、おばちゃん連中の噂の的となるだろう。それは、身体的には生きてはいるが、社会的な死を意味する……なんて、なんて恐ろしいデスゲームを思いついたんだ。この悪魔め」

 そういう麻生が震え続けているのが、俺は気になって仕方がない。小声で「小なの? 大なの?」と訊ねる。「小です」と返事があった。

『朝、総務課の湯ポットの内蓋に、利尿作用を高める薬を塗りたくっておいた。蒸気で薬は落ちていく。それをお前らは旨そうに飲んだんだ。どうだ、トイレに行きたくて堪らないだろう』

 含み笑いをしながら話す大崎。それを聞いた俺も、尿意を自覚してしまった。まずい。全身の震えが始まる。

「──いや、麻生。もうすぐ他社の方々がプレゼンを聞きに、この会議室に来る。大丈夫だ」

 後輩を安心させようとすると、画面の中にいた大崎が高笑いをした。

『他社の皆様へは、俺が日程変更の連絡メールを送付済み。社内の他部署の連中も気がつくまでは時間がかかるだろう。かといって、携帯電話で外部へ連絡を取ろうとしても無駄だぜ。この部屋には電波妨害の装置を仕掛けてある』

「その用意周到ぶりと能力を、仕事に生かしてくれりゃ良かったのに」

俺はげんなりして、呟いた。


「しかし一年前のことだと思いだせないもんだな」

「先輩、ずるいっすよ。ひとつも回答していないじゃないですか」

「だって心当たりないんだもん」

 俺は両手をあげて、肩をすくめる。逆に当時、大崎の教育係だった麻生には、思いあたるふしがありすぎるほどあった。

 仕事内容への説明が適当だった。単純なシュレッダー作業を延々とやらせた。上長から突発的な依頼があって、初日から残業につきあわせた。などなど。

「麻生さあ。さっき『まかせてください。俺が一発で正解を謝ってみせます』って言っていたじゃん。なんだよ」

 俺からのクレームは、尿意が限界に近い麻生の耳には届いていないようだ。反応なく、ひたすら体を小刻みにさせている。俺も足踏みをして、耐えている状態だ。

「あ、思いだした。アレだろ、おめー。電話対応をとがめた件だろ。社長からの電話をガチャ切りした」

『いやいや、名乗らないんだぞ、あのおやじ。名前聞いても、ワシじゃよとしか言わないし。そんな電話を上長に取り次げるか! 俺は間違っちゃいない』

 それを聞いた俺は、深くうなずいた。

「確かに社長は名前を言わないときがあるな」

「ぐわーっ。もう限界だ。このままじゃ漏らして、会議室をでることになる。そしたら、僕たち二人は上司からは『しょうべん小僧』。部下からは陰で『ピーピー兄弟』って呼ばれてしまう」

「お腹ピーピー兄弟ってこと?」

「違いますよ。PEEは英語の幼児語で『おしっこ』の意味でしょ」

 俺は麻生の口から英単語が飛びでたことに驚愕する。TPOとかネットリテラシーとか、さっぱり覚える気のない、コイツが。

「もう無理。先輩、すみません。失礼します!」

麻生はそう叫んで、勢いよくスラックスのベルトを外した。しゅるりとベルトが宙を舞う。ズボンが落ちて、下着姿になる。そうして、大きく息を吐いた。

「ふう、腹部への圧迫が無くなった。ライフゲージが少し回復しました。田口さんも僕を気にしないで、ベルトを外してください」

「絶対、いや。なんで閉じ込められた空間で、お前と二人でパンツ一丁にならないといけないんだ」

 下唇を噛んで尿意に耐える。座っていられないので立っているのだが、がくがくと膝が笑う。

「大崎よ、分かったぞ。僕が近所の爺さんに謝罪に行くとき、お前をつき合わせた事じゃないか?」

「えっ。ちょっと待って。何、その件。報告を受けてないんだけど」

 俺は右手の指をひろげて、麻生に向かって突きだす。その手を麻生はぐいっと下ろした。

「先輩は黙っていてください。社内にある木の葉っぱが、風で敷地内に飛んでくるって定期的にクレームを入れてくる爺さんですよ。わが社のマスコットキャラクターの描かれたペンと手拭いをもって謝罪にいきました。コイツには、なんか貫禄があるから付いてきてもらいました。爺さんも若手だけでなく、重役も謝りに来たって勘違いしたのでしょう。いつもの説教がなかった。僕のファインプレーです」

 麻生は親指をたてて、にっこりと笑顔になる。トイレにたどり着けなければ、死を迎えるこの状況で。俺の震えと、苛立ちは増幅していく。無事に生きて出られたら、必ず説教しよう。

あまりにも正解が出ず、大崎は退屈のあまりカップラーメンを食べ始めていた。その麺をすする手を止める。

『その件じゃない、違う。違うけど、あれはそういうことだったのか。お前にしかできない仕事だって言ってくれていたのに……』

 悲しそうに顔を歪める。大崎の強気な姿勢が崩れたこの時を狙って、俺は哀願した。「頼む、大崎。ヒントをくれっ」

『……よかろう。業務時間じゃない。就業時間のあと。俺の歓迎会での出来事だ』

もはや俺の両足は、産まれたての小鹿のように不安定だ。崩れ落ちると同時に漏らしてしまうことは必至! 歓迎会は皆でポット・エイトで食事をして、二次会でカラオケにいったな。──カラオケか。

俺は、最後の力を振りしぼって答える。

「分かった。カラオケでお前に歌を歌わせたことは謝る。この通りだ!」

 俺は大崎の映るスクリーンに向かって両手をあわせ、頭を下げた。精一杯の謝意だ。

 大崎が箸を落とし、動かなくなった。電波が悪いウェブ会議で、動画が停止したかのよう。しばらくして、大崎は右手でゆっくりと口をおさえた。瞳が潤んでいる。

『正解だ。一回で当てるなんて、田口係長。あんたって人は──おめでとう』

 大崎は芝居がかった仕草で、五月雨式に拍手をし始めた。

俺は【おめー。一曲目は嫌がっていたけど、二曲目からノリノリだったじゃねえか】という言葉を、必死で飲みこむ。長髪を振り乱してロックンロールをがなり立てたこの男は、帰宅して酔いが醒めた後、おそらく羞恥心で身もだえしたのだろう。さもなければ翌日、守衛に預けてあった退職届の意味が分からない。

 大崎はカメラを意識した角度で、シャッターリモコンのボタンを押す。

 ガラガラと電動シャッターの開く音がした。

「よし、麻生。急いでトイレに行こう」

 俺は栄光のガラス扉へ歩みだし、後輩に呼びかける。しかし麻生からの返事がない。振り返ると、麻生は無表情だった。いつの間にか、体の震えが止まっている。

「先輩、僕はもう駄目です。見捨てて先にいってください。ですが、社会的に死んでしまう前に田口さんに言いたいことがあります。僕は、入社以来ずっとあなたのことを目で追っていました。僕は田口さんのことが」

 う、嘘だろ。コイツそっちの気があったのか。愛の告白? そうだとしても、尿意が最高潮な今は一番、告白するタイミングじゃないだろ。

「好きなんです!」

 言い終わるやいなや、パンツ一丁の姿で俺に飛びかかってきた。


心のなかで「イヤーッ」と絶叫すると同時に、俺は悪夢から目覚めた。布団をはねのけて起きる。前日に悪寒を感じたせいか寝汗がひどい。でも、汗をかいて体温が下がったのか、熱はでなかったようだ。

昨夜の深酒で、膀胱がはち切れそうになっている。

「トイレトイレトイレ」

 震えながら便所に急いで入って、用を済ませた。今日は重要なプレゼン発表があるから、早めに家をでなければいけない。


 地獄のような夢のせいで、覚醒した俺はすぐに家をでて出社した。早めに総務課に到着し、スムーズに来客分の資料をコピーする。デスクトレーにそれをつめていき、台車に載せる。

そこに、麻生が遅刻ぎりぎりで課に入ってきた。

「準備は万端だ。お前は俺のサポートを頼むぞ」

 肩で息をする麻生に、声をかける。

念のため資料の原本をざっと最終チェックして、台車を押してもらう。会議室に向かう廊下で夢のことを思いだした。台車を押す麻生の背中に、思いきって問いかけた。

「お前って、俺のこと好きだったりするのか?」

ぴたりと歩みが止まる。朝の陽光を浴びた白シャツが輝く。振りかえった麻生の顔は、見たことがないくらい深い皺を眉間に刻んでいた。

「はあ~? 何を言っているんですか。今日は伊藤課長も出張だし、バイトさんも休みで人数がいないんだからしっかりしてくださいよ」

 そこまで強く否定しなくてもいいじゃないの、傷つくわ……と思ったものの、ほっと胸をなでおろす。今後の俺達に、BLの展開はなさそうだ。

 

 会議室の机上に資料を置き、演台にノートPCを繋げて、スクリーンに投影する。二人で部屋の設営を三十分で終えた。後は来客を待つばかり。

一息ついて、椅子に座った。俺はプレゼン発表前の緊張をほぐすため、大きく伸びをして深呼吸する。

 その時ふと、胸騒ぎがした。

視界の端にうつった会議室の入口シャッターがふるえて、ちょっと下がった。

そんな気がしたからだ。


【了】

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