第19話 宿題
翌朝――。
日曜の朝は
ミエコは別館『バウハウス』2階のベランダで、腕を組み仁王立ちに庭を見下ろしていた。
自由なる清浄な風が颯爽と吹き抜ける。帝都を包む暗雲とは対照的に、憑き物が一つ落ち、新たな決意を旨にした彼女にとって、凱歌にも等しい風だ。
この『バウハウス』は本館とは違い、幾何学的形状からなる剛直性を信条に設計されている。コンクリートを意図的に剥き出しに配置し、地から天へと走る直線的なガラスのスリットは、吹き抜けのロビーをぼんやりと、時には力強く照らし出す。
しかし、何故こんな造りをしているのか。
幼少期以来の謎であった。
「おはようございます、お嬢様」
朝鳥の声が耳を喜ばせる中、ロイド眼鏡を掛けた志乃がベランダに出てきた。
「おはよう、志乃」
「昨晩は、よく眠れましたか?」
「
高らかに朗らかに。
徹夜明けの脳味噌は明瞭に
「それは――、まだ、おやすみになられた方が」
「アハハハ、良いのよ志乃。それより行きましょう、
「だ、大丈夫でございますか……?」
「いーの、いーの、行きましょ!」
昨日、
この別館には幾つもの扉がある。
開かずの扉が
それでも全てを把握できない。
開けても雑然とした物置。或いは米次郎のコレクション置き場。第二、第三の書斎……。幼きミエコには結局家は退屈なもので、結局すぐに興味は外の世界に向いて行ってしまったのであった。
――1階の奥。
扉が幾つもある中の、同じような一つ。
「こんな所に、ねぇ」
驚きと嘆息が入り混じる。
目の前にあるのには思い出せない。『こんな扉あったかしら』と首を捻るが、その答えを志乃が飄々と口にする。
「お嬢様には認知できぬよう、
「術って――、志乃が術をかけたの?」
「さようでございます」
――と、木製の扉を当たり前のように開け放つ。
扉を潜った先に続く、見通しの悪い丸く曲がった
志乃の背中を追い、ミエコも歩みを進めた。
「――ねぇ、志乃。志乃ってどんな異能があるの?」
気にはなっていた。
昨日の天邪鬼撃退劇。
あんな無骨で長大な
どう考えても無理だ。
筋骨隆々、
「私めは……、
振り返り気味に、うふふ――と笑みを浮かべる。
「へぇ。――じゃ、この問題に答える事は出来る? 『マルサス人口論の概要を述べ、此に対し我が国における現在の人口並びに食料問題に意見を述べよ』ってね。……どう?」
「――う」
分かりやすく言葉が詰まる。
歩みを止めず、情けない顔を向けた。
「うぅ、お嬢様ぁ、意地悪にございます」
「ご、ゴメン、ゴメン。あまりにも得意気そうだったから……」
「――うふふ、気にしておりませんよ。それでお嬢様。その答えは?」
「ちょっとうろ覚えだけど……」
一八世紀、英国人経済学者マルサスが見いだした、算術級数的にしか増えない食料生産と、幾何級数的に増加する人口の相反は、帝國日本の社会的課題として認識されていたが、ミエコは都度都度引っかかりながらも、抑制的人口政策の必要性という最重要の結論を口に出すことが出来た。
――そうこうしていると。
ぐるぐると降りる螺旋の先で、鋼鉄製の扉が二人を迎えた。意匠らしい意匠と言えば、扉の縁のリベットが文様のように頭を出しているくらいである。
地下。
秘密の地下。
「この中でございます」
ギィと音を立て、くすんだ
自分の住んでいる家に知らない地下空間がある。
不可思議さは覚め果てぬ童夢。開け放たれた扉の向こう、眼前に広がる光景は――、想像を上回る
「ここが――」
「えぇ。遠近対応の射撃場、
広大な正方形の空間。
無機質な、あまりにも無機質な
金田製作所の比ではない。白熱灯が点々と規則正しく照らし出す
「お嬢様には修行をしていただきます。……と言っても、
「
「そうです。夏休みまでに力を付けていただき、――京都へ」
羅刹本拠、京都は
常人ではその眼で視ることも出来ない、幽玄の彼方に在るという幻夢館。
「……やってみせるわ。だから、志乃、――付き合ってね」
荒涼と広がる光陰明瞭な筐を見渡してから志乃の方を向いた。志乃はほんの一瞬、眉を
「勿論です、お嬢様。……では、まず敵を退治した後の
ミエコは肩を落とし、苦笑いを浮かべるしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます