第13話 秘密のお出かけ

 風が吹いていた。

 もうすぐ水無月の終わりだというのにを伴った風は肌寒く、晒された帝都の街並みは日常の喧騒戦時下を遙か記憶の彼方に留め、時間そのものが止まったように静寂しじまに沈んでいる。


 何気なく空を見上げる。

 先程までのおぼろづきは夢の如く醒め、煌々と白銀の月が彼方を流れる雲の切れ間から顔を出している。爛爛と月光が差し込むガレージで――、ミエコは黒いリネン生地のジャケットに、濃い紺のセーラーパンツに身を包み独り佇んでいた。


 乙女の秘密――。

 父にも志乃にも打ち明けていない

 ここ数年で色んな機械や道具おもちやを詰め込んだ

 表看板の一枚もなく、作業机には工具が所狭しと並び、レンチやスパナが壁から見下ろす中、

一台の二輪車がエンジンの始動を今や遅しと待っていた。


「さ、行かなくっちゃ」

 使命感に似た思いを呟き、牛革の手袋をぎゅっと締めた。


 英国製自動二輪スピードツイン――。

 欧州大戦と世界恐慌を経て、驚くべき価格設定により英国市場に衝撃を与えたというコベントリー生まれ、排気量500CCのバーチカルツインエンジン搭載車。ミエコは舐めるように赤紫色と白銀のボディラインを眺めた。


 ――悪いことしちゃったかな?


 乙女の悪戯は値が張った。

 そもそも父、米次郎の好意で買って貰った一台だが、家の中にあると何かと都合が悪い。使用人達や父の目もあるので好き勝手出掛けられない。……ならばにあれば良い、と。


 ――壊れたという嘘。

 ――隠された1台目。

 ――与えられた2台目。


 流石のミエコも罪悪感に胸が痛んだが、それも最初ばかりで、十六歳になり正式に小型免許を取得した日から、両車とも事あるごとに競い合うように乗り比べる始末だった。


 今宵もまた、秘密の出立。

 車体をガレージの外へ押しだし、静かに施錠する。

 気持ちを引き締めてゴーグルをめ、徐にキックスターターを数回蹴飛ばすと、エンジンの咆哮が腹の底に響き渡るように回る。


 ――オイルゲージ、AMアンメーター良し。


 肺に空気を目一杯吸い込んで、静かにスロットルを回した。英国製自動二輪スピードツインのエンジンが低音を震わせ、一陣の風となる。


 速度は時速40キロメートル

 前照灯ヘツドライトが煌々と闇夜に塗れた地面を照らし、空気を切り裂いていく。

 頬を撫でる風が心地よい。ライダー用のジャケットではないが、十二分に風を防いでくれている。温かみのある白熱灯の輝きが隧道トンネルの光のように左右に流れていく。


 目指す目的地は――、金田製作所。

 脳裏に過るは一週間前の

 嗄れた声で予言した時刻。チラリと左腕を翻して腕時計を見れば、瞬きする間の街灯の輝きが、十一時を回った針を照らし出す。


 ――子の刻。

 ――運命が変わる。


 金田製作所はそう遠くはない。

 半刻と掛からぬ旅路でミエコは始終無言のまま走り続けた。不安と使命感が綯い交ぜに蠢く胸中を風にすすいだ。


 暗闇に沈む街並みは、記録と記憶の狭間で不確かに揺蕩う。

 しかしミエコにはおぼろながら覚えがあった。父の用事で青山に通っていた頃に出来た精密部品用の工場だ。場所は青山から少し離れているが、視察で連れられた記憶が頼りだった。


 ――あれね。

 子どもの頃、青山で出会った香奈恵と彼女の悲運を思いながら、ミエコは金田製作所の敷地に隣接する小高い丘に英国製自動二輪スピードツインを停めた。


 丘の上。

 影法師すら草露に濡れる。

 雑草が月夜に靡き、断髪ダツチボブの毛先が風に揺れる中、ミエコはポケットから小型双眼鏡を取り出して敷地内をぐるりと見回した。


 だが、一目見て気づく。

 ――おかしい。


「停電……?」

 工場は闇に沈んでいた。

 鈍く月夜を浴びる建屋、漆黒を纏う煙突、闇に滲んだ窓硝子も、何もかもが漆黒に塗りつぶされている。普段ならいるはずの宿直勤務の気配すら感じない、冷たい静寂に包まれた監獄。


 ――いや、

 レンズ越しに光が揺らぐ。


 ある長方形の建屋の窓辺、よく見つめるとパチパチと不定期に光が瞬いている。屋根にはいくつかの換気装置ヴェンチレーターが林立しており、キラリと月光を受けた銀木のようである。2階部分の窓から漏れる不穏な瞬きに、ミエコの脳裏に一抹の不安が過った。


 さりとて目星も無し。

 ――まるで飛んで火に入る夏の虫ね。

 ミエコは溜め息交じりに自嘲するしかなかった。


 工場敷地を囲む境界は木の柵に鉄線を巻いてるとはいえ、高々1メートル程度の高さしかない。隣接地が空き地なのを良い事に、警備は二の次なのが大略あらまし見て取れる。ミエコは軽やかにさつと柵を跳び越えた。


 延々と続く同じかおをした建屋の合間を、青白い月明かりを頼りに走り抜けていく。

 視線の先にある建屋は――、混凝土コンクリートと石材が渾然と方形を成す頑丈そうな建物である。入口のシャッターは下りているものの、隣りの鋼鉄製の扉は僅かばかりに傾いているのが見えた。


 ――

 施錠もなく電気もなく。

 不穏が凝縮したような建屋の前で、ミエコは息を整えて扉に手を掛けた。


 沈黙に沈む工場に輝く

 分かっていても、確かめずにはいられない。

 冷たいドアノブの触感と重みが、現実と衝動の狭間にいることをまざまざと思わせる。


 ――闇。

 ――時々光。

 ――時々破裂音。


 入った途端、ミエコの眼に入って来たのは金属製の棚、そして製品の製造過程で使うであろう運搬装置コンベアが整然と並んでいる光景であった。闇が蹲る中でも、電気機器のショートらしい断続的な光を浴びて奥行きがはっきりと浮かび上がる。


 ――で、運命が変わるっていうの?

 疑念に眉を潜ませても仕方ない。ブーツのかかとで音を立てぬよう慎重に歩みを進める。


 ――何がいるか分からない。

 怪異の予言と父の怪談噺。

 ミエコはいつ何時なんどきでも殴れる様に拳に力を込めながら、闇を纏って直歩ひたあゆぶ。直線的な金属棚の狭間を抜け、運搬装置が並ぶ区画に出て、壁の柱に壁掛け時計があるのが見えた。


 天井からぶら下がった白熱灯がチカチカと瞬き、照らされた時計の針は、を差している。


「え……?」


 ミエコが思わず言葉を漏らした。

 慌てて左腕の時計を見ると、である。


 ――早い、いや、違う。

 、だ。


 色々となんだ――。 

 父の言葉が脳裏を駆け抜け、非現実的な記憶怪異の予言が彼女の意識を僅かに霞ませた。

 その時だった。


「まったく……、何であなたがにいるのよ」


 背後から、凜と響き渡る声。

 一度聞いたら忘れられない、透き通りながらも鋭利に突き刺さる音声おんじようの刃。ミエコは驚きながら振り返った。


「――あなたは」

 瞬く光に照らされて、闇から生まれるように漆黒の巫女ヒノエが錫杖片手に現れた。その余りにも冷たい眼差しと酷い仏頂面で、ミエコを鋭く射貫いていた――。

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