第12話 青い瞳の青年

「どうしたんデスか? お嬢サン」

「え……?」

 暗き隧道(トンネル)に跳ねた身体。

 そのはずだった。


「突然倒れ込んで来たのデ、吃驚(ビツクリ)しましたヨ」

 意識が急速に覚醒し現世を見渡す。

 眼前の路地裏と、自分の身体を支えている――、男?


「えッ……?」

 幾度も素っ頓狂な声が上がった。

 姿勢を崩した自分の身体を、黒い制服を着た書生が肩を支えてくれている。ぼやけていた焦点が、目の前の男にピタリと絞られる。


 ――外国人?

 ミエコは呆然と男の顔を見つめていた。

 学生帽から溢れる金色の短髪に、映画俳優のように鼻筋の通った顔立ち。白き肌は凜と張り、それでいて瞳は透き通るように碧(あお)く、曇天にも拘わらず輝いて見える。


「……綺麗」

「――はイ?」


「な、……なんでもないですッ!」

 思わず零れた言葉に、顔から火が出るように紅潮した。慌てて姿勢を立て直し、男を突き飛ばす勢いで距離を取る。


「わ、私――、あ、アナタにぶつかったのね!」

「――? そうですヨ」


 片言の日本語がしおらしい。

 ――嗚呼(ああ)、何を想っているの!

 ――私らしくない!


 早鐘の鼓動(ハートビート)が、火を噴く顔(かんばせ)が、吹き出る汗がミエコを情動の坩堝(るつぼ)に叩き落とした。慌てて場を取り繕うとする姿を男は冷たい眼差しで見つめている。しかし、ミエコには優しさに濡れた瞳に見えた。


「怪我がナイようで、ホント良かった。それにしてモ、スゴイ勢いでしたヨ。誰かに追われてたんですカ?」


「え、あ――、いや」


 ――怪異。

 牛のような怪異。

 筆舌に尽くしがたい物騒な妄言。

 人語を解し、予言めいた言葉を重ねるだけ重ねた、人ならざるモノ。身体は熱いのに、流れる汗は冷たく頬を伝う。書生姿の白人は微笑みを浮かべた。


「まァ、路地裏にはもう誰もいないようでスシ、ダイジョウブでしょう。――それではボクはコレで」

 艶消しの外套(マント)を翻(ひるがえ)し、見慣れぬステッキを左手に掲げる後ろ姿に、ミエコの眉がピクリと動いた。


「あ――、ま、待って!」

 強烈な違和感に裏打ちされて、ミエコは半ば無意識的に男を呼び止めていた。

「まだ、なにカ?」

「あ、あの――、お名前を」


 ――聞いてどうするのよ、私。

 即座に挟み込まれる内省は、残された理性の証。

 怪異への恐怖と情動の狭間で。その荒波の中でも動じないために、ミエコは名前という手向けを欲した。

 男は涼しげに振り返り、片目を瞑りステッキに寄りかかった。


「……デービッド。今はそれだけにしておきまショウ」

 その言葉を残し、男は大通りの人混みに音もなく消える。まるで最初から何も、誰もいなかったかのように忽(こつ)然(ぜん)と、その余韻すら残さずに。


 ――デービッド。

 ――デービッド。

 ――デービッド!


 名前が胸中奥深く木(こ)霊(だま)する。

 ミエコは暫く呆然と、瞼に焼き付いたハンサムな顔立ちを思い出しながら立ち尽くしていた。

 熱に浮かされ寒気に震え、怒涛の勢いで眼前の景色が移り変わった。何もかもが非現実的で、何もかもが幻想的で、たった一つの単語だけが余りにも現実的だ。


「金田製作所…………」


 ――あべこべな事が起こる。

 ――神宮司財閥傘下の工場。

 労働問題の表象、近代怪談噺の一葉に過ぎぬはず。

 だが目の前に迫った怪異が同じ言葉を言い放ったのだ。

 絶望の妄言に入り混じった、至言にも似た予言。


 ――運命が変わる。

 ――確かめなくっちゃ。


 好奇心は猫を殺す。しかし、ミエコにはそれ以上の思いが募りつつあった。喩えこの身に危険が及ぼうとも、このまま何もしないなんて私らしくない。


 ミエコは一人、神保町の裏路地で曇天を見上げた。

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