第11話 「人」の顔した「牛」

 ――どうなってんのよ!


 ミエコは一人、喫茶『黒猫』を出て、当てもなく彷徨い歩いていた。初江達には「悪いけど笑顔でいられないの」と別れを告げて以来、かれこれ半刻ほども街をぶらついていたが、腹の底の虫は一向に収まる気配はなかった。


 ――てるわ!

 低く垂れ込めた曇天の帝都。

 神田神保町の喫茶店は、書生や文化人が集う独自の文化空間を確立しており、ミエコがたまに来る『黒猫』もそのクチであった。

 戦雲漂う緊迫した世相から逃れようと、そして徴兵から逃れようと――書生達は今日も勉学に励む。一方、華の乙女も否応なしに世の中のルールに縛られる。


 ――香奈恵が、香奈恵がかわいそう。

 

 それは動かしがたい不文律家父長制

 かんどうする権利も、何もかもがしゆが握っている以上、あの気弱な香奈恵には抗う術はないだろう。それにしても――、よりにもよってが。


 城戸の顔が脳裏を過る度にミエコの表情かおは、とても人様に向けられたものではない程に凶悪に歪み、行き交う人々がぎょっとしながら振り返る。偶然すれ違った面皰にきび連の若人3人組などは、彼女の顔を見て仰天する有様であった。

 ――何よ、私の顔に何か憑いてる?

 憤りのままに睨み返せば、男共はてんの速さで逃げ去った。その姿にミエコは鼻を鳴らし、ならしの如く歩き始めた。


 ――何よ、何よ、何よ!

 有りと有らゆる不満に目の前が真っ暗になる。

 世相も、戦争支那事変も、あの男城戸も、姿の見えない羅刹も、自分の将来も――。先の見えぬ霧に溶け込む己の影ばかりが目に余る。未来も、脚が向かう先も分からぬまま、只管ひたすら地面を踏み鳴らす。


 怒り心頭、不安に五里霧中の中しばらくして――、気づけばミエコは人気のない路地裏に入り込んでいた。

 曇天に光なく、影がうずくまる路地裏で。

 湿り気と冷たい空気が肌を撫でては寂しげに滑っていく。

 一体何処どこに来てしまったのだろう、と立ち止まり、辺りを見回した。

 ミエコは眉を顰めた。


 ――おかしい。

 路地裏というのは得てして暗いものだが。

 暗すぎる。

 余りにも暗すぎる。

 建屋はまるで混凝土コンクリート壁で、真っ直ぐ続く不自然な隧道トンネルの先からは一筋の光が差し込んでいる。ミエコは怪訝にその光の先をじつと見つめた。


「な、なに……?」

 光がひようめいて揺らめく。

 いや、光ではない。

 こうを有しただ。悠然とちらに近づいてきているのが見えた。背格好はどう見ても人のそれではない。ミエコは内心静かに言葉を漏らした。


 ――牛?


『帝都はやがて……、紅蓮の炎に包まれよう』


 突然、れた女の声が耳に響いた。脳髄に染みこむ冷たいこわに、怖気が背中を走り抜け、全身の身の毛がつ。

 だが、同時にミエコは思い出していた。

 つい先日、真夜中の聖ウルスラ高等女学校で耳にしたヒノエ達のを。

 ――闇、声、光。

 ――――


『天より降り注ぐ油まみれの火雨ひさめは等しく命を奪おう』

 湿った闇に滑るよう悠然と近づきながら、意味不明な言を繰り返す光う牛。溢れ出る言の葉は、せいじやくの水面に波紋を広げるようおぞましく物騒だ。

『餓えに満ちる緑の地獄、血に染まるただれた赤土せきどえんに肺は焦げ、波がさらう屍の魂は朽ちて忘れさられる』

四方よもの海も北の地も南の島も、鉄火に飲み込まれしゆじようことごとく絶え逝く』

 ミエコは僅かな武者震いと共に拳を握った。


 ――真に受けちゃ駄目。

 まぶたに焼き付いている、大蝦蟇おおがまの舌を殴った自分の拳。輝く光環クラウンにヒノエの言う「力」があると信じて、ミエコは拳闘家ボクサーの如く猫背気味に身構えた。


 わないてはいけない。

 武器はこの拳だけ。


 みたいに上手く行くとは思わないけど、恐怖に飲み込まれるなんて。一筋の冷や汗を対価にミエコの瞳は澄み、迫る怪異を真っ直ぐに見据えた。

 やがて――、牛らしき物がハッキリ見えるところまで近づき、ミエコは思わず眼を見開いた。


 牛ではない。

 いや、

 だが――、


 艶めかしく輝く黒い長髪をなびかせる、銅像のような人間のおもてがそこにあった。

 

 これは怪異だ。


 ほほ――、と


『黒き闇、……いずれ形を成し、人の子を操らん』

 意味不明な嗄れ声には希望の欠片もない。

「……あんた、一体、何者よ……」

 人語を解するならば意味も解するはず。

 ミエコは高鳴る鼓動を押さえ込むように声を落とした。


『ほほ――、は人の子の業よ。うつろにゆたあしもとを失念し、自らはかなき命を砕くはこつけいの限り。かんじよえど衆生苦しむのは、己が業よ』


 ――訳が分からない。

 言葉が不要なら残されたのは拳だけだ。

 ミエコは迫る怪異を真正面に見据えて拳を掲げた。その様子に三度みたび、牛が笑った。


『ほほほ――、今より七日の後。の刻、……、其方そなた運命さだめが変わろう』

「か、金田製作所ですって……!」


 ――

 敢闘精神ファイティングスピリツツに満ちた拳が、思わぬ言葉に揺れる。


『ほほほほほほほほほほほほほほほほほ』

 昂然と――、聞くに堪えない高笑いが暗闇いっぱいに響き渡った。

 異形、異質、人ならざる気配にされ、ミエコは僅かにたじろぎあと退ずさった。怪異は固まった表情かおを崩さず、ミエコをじっと見据えたまま――突如として駆け出した。


『洋の東西、あやかしびこるこのきようあいなるクニで、其方が――、其方が導く先で』

 牛の如き巨躯が地を蹴り上げながら猛然と迫ってくる。

 真っ直ぐ勢いフツと風を切り、止め処ないほんりゆうとなる。怪異は何か言葉を続けたようだが聞き入る間も、声を上げる暇すら無い。


 ――ぶつかるッ!

 瞬時の覚悟は彼女の身体を仰け反らせ、ミエコは目を瞑って真後ろに飛び退いた。


 ――パタ。

 なすがまま、あるがまま。

 身体を投げ出した先に待っていたものは、柔らかい

 気の抜けた音と共にミエコの身体が布地の感触に受け止められる。


「ダイジョウブですか?」

 耳慣れぬかたこと日本語が、ミエコの意識を静かにすくげた。

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