第31話 農道ダートに躍る魂

 愛知パシフィックラリー2日目の午前ステージ(高速ターマック)を終えたラリーカーたちが、次の舞台へ向けて足早にサービスパークへ戻ってくる。

 各チームのテントやトランスポーターが並ぶこのパークには、競技車両を短いインターバルで整備し、再び送り出すためのスペースが確保されていた。白い雲が垂れ込め、時折細い陽射しが地面を照らしながらも、空気はまだしっとりと重い。

 朝の高速ステージをなんとか完走した愛知工業高校ラリー部のGRヤリスラリー2は、テント脇へ滑り込むように駐車する。ドライバーの**高槻亜実(たかつき あみ)とコ・ドライバーの水瀬恵理香(みなせ えりか)が車外へ降り立ったのは、まだ朝の熱気が残る時間帯だった。

 亜実は車から降りるなり、「はぁ…」と大きく息を吐き、ポニーテールをゆらして首を回す。朝のターマックでは満足いく走りができず、歯がゆい思いを抱えていた。それでも「とにかく無事に戻ってきた」ことは事実だ。

 一方、水瀬は静かにコックピットのナビ席を出て、ペースノートを抱えながら横に立つ。昨夜から続く微妙な緊張と、車体の足回りへの不安が、彼女の表情に淡い影を落としている。

 そこへ、工業高校ラリー部のメカニック担当の部員たちが駆け寄るように集まり、顧問の佐伯(さえき)も「どうだった? 車、大きく壊れたりはしてないか?」と声をかける。さらに、スポンサー兼教育委員会の委員長でもある円城寺潤(えんじょうじ じゅん)**が腕を組んで近づいてきた。


「亜実、お疲れ。午前はまあ、完走優先ってとこだな。車体にダメージは……?」

「……たぶん、問題ないと思います。なんか変にフラついてる気がするけど、これはもう昨日のクラッシュ由来の歪みでしょうね」


 亜実が申し訳なさそうにそう返す。円城寺は小さく息をつきつつ、整備班に目を向けた。


「足回りの強度はどうだ? フロントサスの付け根、まだ何とか持ちこたえそうか?」

「はい……一応、今のところは大丈夫そうですが、長距離はやはり不安が残ります。午後のステージがダートって聞いてるんで、さらに負担はかかるかと」


 部長がそう答えると、円城寺は複雑そうに眉をひそめる。かつてWRCに挑み挫折した彼にとって、車体の安全性こそが最優先。それでも亜実の成長や大きな結果に期待しているのも事実だ。


「……ギリギリ、応急処置にはなる。なんとか走れるくらいには」

「お願いします。もう一度チェックしてもらえますか?」


 亜実は背筋を伸ばし、申し訳なさと感謝を込めて部員たちに頭を下げる。彼女自身もメカニック作業を手伝える程度の知識はあるが、本格的な修理には専用の技術が必要だ。その技術を持つのは、何よりこのラリー部の仲間たちである。


 サービスパークのテント内では、さっそく車高や減衰の調整作業が始まる。農道ダート向けにセッティングを変えるためだ。フロアジャッキやインパクトレンチの音が響き、次のステージへ向けた慌ただしい空気が充満する。

 その横で、亜実はヘルメットを小脇に抱え、「午後こそ勝負をかけたいな……」とつぶやく。横に立つ水瀬が、控えめに口を開いた。


「ダートでの走り、ちょっと楽しみでしょ?」

「うん……実は、結構好きかも。雪とか雨の時にRC Fで走ってた感覚が蘇りそう」

「わたしも、ノートをもう一度修正する。ぬかるみが多いだろうから、スリップ注意やわだちの場所をきちんと頭に入れておかないとね」


 水瀬は自分のナビケースを指先で軽く叩きながら、冷静にうなずく。彼女はかつて天才コ・ドライバーと呼ばれた経験があり、その正確なナビゲーションこそが亜実の最大の武器でもある。


「高速ターマックとは違う展開になるし、焦りすぎないで。まだ2日目は長いから」

「……うん、わかってる。でも、ちょっと攻めたい気持ちがあるんだよね」


 亜実は唇を軽く噛む。午前のステージでは、車のダメージを恐れ全開で走れず、不甲斐なさや悔しさが募った。だが、農道ダートならば、むしろ低中速帯でのコーナリング技術が問われる。スピードが極端に上がるわけではない分、車体の歪みを致命的に感じることは少なくなるかもしれない。

 円城寺が少し離れたところから「まあ、無茶はするなよ」と声をかけようとするが、すでに整備班が話し込み、亜実はそちらに加わってしまった。彼は苦笑しながら、「それでも、あいつは踏んじまうんだろうな」と小さくつぶやく。


 テント内、雨上がりの湿った地面の上に敷かれたシートの上で、ヤリスラリー2がジャッキアップされている。メカニックの部員がインパクトレンチでホイールナットを外し、ダート用タイヤと交換作業に取りかかる。

 サスペンションの減衰や車高調整も同時並行で進め、地面の凹凸をうまくいなせるようスプリングレートをわずかに変更。まさに“ラリーは整備との戦い”を象徴する光景だ。


「ハブやアームに亀裂が入ってないか、もう一回見よう。もしこれで折れたら……取り返しがつかない」

「了解。ライト頼む! ……よし、ここは補強した溶接が持ってるな」


 深夜のクラッシュ修理がまだ生々しいが、それでも部員たちは少し眠そうな目をこすりながらも手際が良い。

 一方、亜実は通路脇の椅子で、靴を履き替えながら軽くストレッチをしている。ダートコースでレクサスRC Fを振り回して遊んでいた頃の感触を思い出す。

 ――あの時は車高も高くないし、もともとFRは後輪が滑りやすいからドリフト気味に曲がるコツをつかんだ。でも今回のGRヤリスラリー2は、AWDでパワーを地面に伝えやすい。ぬかるみでも踏んでいけるかもしれない。

 顔を上げれば、水瀬がノートに赤ペンを走らせて修正を書き加えている姿が見えた。彼女は「コ・ドライバーの命綱は情報」とばかりに、レッキ(下見走行)で得たデータや、昨夜の走行時に感じた車の癖を総合して、ペースノートをアップデートしているのだ。


 ――午前中に比べて、少し気持ちが軽くなっているのを亜実は感じる。

 クラッシュを恐れないわけではないが、ダートステージなら“かつての自分”に戻れるかもしれない、という予感が湧いていた。


 整備タイムが終了し、ヤリスラリー2は再び公道移動(リエゾン)を開始する。今回も運転は水瀬が担当し、亜実は助手席に収まって次のステージへと向かう。

 道中、車窓からは水田や低い丘陵地帯が広がるのが見える。昨日の雨で土が柔らかくなり、トラクターが入った跡がぬかるんでいるのが確認できる。

 ――こんな道をラリーで走るのか、と想像しただけで亜実の胸が躍る。


「ここまで雨上がりが続くと、路面状況も千差万別になりそうだね」

「うん、林道に比べると開けた場所も多いけど、そのぶん横滑りすると一気に農地へ突っ込むかもしれない」

「気を引き締めていこう。あと車高を上げたし、突っ込みすぎると横転のリスクもあるからね」


 水瀬がそう言うと、亜実は「はい」とハッキリ答える。時間が進むに従い、午前のモヤモヤは少しずつ晴れていくような気がした。

 競技エリアが近づくと、リエゾンを走る他のラリーカーの姿もちらほら見られる。コースアウトやマシン故障でペースが遅れている車両もいると聞く。先ほどから無線で「Rising Star Racingの若手ドライバーが焦ってる」などの噂話が流れていたが、それがどう影響してくるかはわからない。

 スタート地点付近には、再びオフィシャルのテントが設けられ、各車が順番待ちをしている。亜実たちのGRヤリスラリー2もスタートコントロール係の合図で整列し、ドライバーとコ・ドライバーが交代。

 今度は、亜実がハンドルを握る番だ。ゆっくり助手席から運転席へ移動し、レース用グローブをきつめに締める。ほんの少し緊張で喉が渇く。ヘルメットをかぶり、インカムを装着して水瀬の声を確かめると、耳元に微かに「聞こえる?」という声が返った。

 「うん、聞こえる。大丈夫」


 カウントダウンはいつも通り、5秒前から始まる。亜実はクラッチをつないでアクセルを煽り、踏み込みの感覚を確かめる。泥道に対する不安と興奮が入り混じる瞬間だ。

 3、2、1……GO!

 スタートラインを超えた途端、未舗装の農道へと飛び出す。路面からの砕けた砂利や泥がタイヤに巻き上げられ、車体後方にロケットのような土煙を描く。

 最初のコーナーは緩い右3程度。大したカーブ角ではないが、ぬかるみで滑りやすく、油断は禁物。亜実は軽くブレーキを合わせて車体の姿勢をコントロールする。

 ――ずるり、と車体のリアがやや振れる感覚。だが、すぐにAWDが踏ん張り、フロントがしっかりラインをキープする。RC FのFR感覚とは違い、四輪が地面を掴もうとしてくれるのが伝わってきた。


「おお……これなら行けるかも!」


 亜実の目が輝いた。水瀬がインカム越しに「滑りすぎないようにね。すぐ左4があるわよ」と冷静に釘を刺す。

 次の左4へ向けてアクセルを少し緩め、ブレーキで前荷重を作り出す。コーナーに入る直前で再度アクセルを入れると、リアが外へ流れかけるが、フロントが路面をきちんと捉えて向きを変える。

 ――ああ、これは“楽しい”。

 亜実は車体の挙動を感じながら、かつてRC Fでダートコースで走った記憶を一気に呼び戻す。FRとの違いはあるものの、“滑りを怖がらない”走り方が体になじんでいるため、泥濘の路面を逆に利用するようなコーナリングができるのだ。


 道路脇には時折、深い水たまりやわだちができている。誤ってそこに突っ込むと減速だけでなく制御不能になるリスクも高い。水瀬はレッキ時や事前情報からそれらの場所を把握しており、次々とコールを入れる。


「次、右3、ぬかるみ注意、外側が少し盛り上がってるわ。立ち上がりで失速しないよう、加速!」

「了解! 踏む!」


 亜実は元々、反応速度に優れているタイプであり、なおかつ水瀬のナビゲーションを深く信頼している。だからこそ、視界が悪い箇所や地面がデコボコの場所でも、“言われた通りに動けば大丈夫”という安心感がある。

 農道の路面には 砂利と泥の要素が入り混じり、午後の日差しが届きにくい木陰はまだ湿気が高い。だが、AWDのトラクションは大きく、FRのように極端に流れすぎることはない。

 ハンドルさばきとアクセルワークがかみ合って、亜実は自然にペースアップしていく。


「やっぱり……午前より感触がいいよ! 高速で怖かった足回りのブレが、ここじゃあんまり気にならない!」

「スピード域が少し低いし、加速度の方向が分散してるからかもね。もちろん、無理は禁物だよ?」

「わかってる。クラッシュは嫌だもん……でも、楽しい!」


 実際、コーナーを連続して抜けていくうちに、亜実のドライビングは徐々にリズムをつかむ。午前のもやもやが嘘のように、体も頭も軽い。視線はしっかりと先のコーナーを捉え、水瀬のコールがあれば即座に反応できる。


 一方、この同じダートステージを走っているライバルチームたちも、それぞれの状況を抱えている。

 特に、Rising Star Racingの若手エースドライバーは、昨日と今朝の失速を取り戻そうと焦りを募らせていた。コーナーごとにオーバースピード気味で突っ込む姿が目撃されており、チームメカニックからも「もっと落ち着け」と言われたばかりだ。

 しかし、彼は“高校生ごときに負けられない”というプライドに突き動かされ、さらにアクセルを深く踏み込む。

 ――結果、泥濘のコーナーでタイヤが流れ、リアが大きくスライドしすぎた。コ・ドライバーの「もっと外、もっと外!」という制止の声も届かないまま、コース脇の畑に車両が突っ込む形で大破。

 幸い大きな負傷者は出なかったようだが、車体はフロントサスペンションが千切れかけ、再走不能となってしまう。若手エースはハンドルを叩き、「くそっ……やっぱり焦りすぎた……」と肩を落とす。

 この情報が無線で各チームにも伝わり、亜実たちは走行中にその現場をチラリと見ることになる。

 遠目に見えるライバルチームのコースアウト車両。それを横目に通り過ぎる亜実は、「同じ若手ドライバーなのに、こんな形で終わっちゃうなんて……」と胸が疼く。

 しかし同時に、自分も焦れば同じ轍を踏むかもしれないと、自然に気を引き締めた。


 さらに別のライバル情報も流れてくる。

 Team Infinity Speedは、午前こそトップタイムを叩き出す速さを見せていたが、ダートでのセッティングが完全でなく、コ・ドライバーも未舗装路のナビに少々慣れていない模様。結果として順位を落とし、中位に沈み始めているようだ。

 「霧がなければこっちのものだとか豪語してたけど、ダートはまた別問題みたいね」

 水瀬がインカムで亜実に伝え、亜実は「やっぱり簡単にはいかないんだな」と複雑な思いを抱く。


 一方、Nagoya Spirit Rally Teamは「堅実さ」が売りのベテランドライバーらしく、大きなミスなく着実に走りをまとめている。雨上がりの泥濘でも余裕の表情を崩さず、総合順位としては安定して上位を狙える位置だ。

 そして、FUJITA Suspension Rally Teamは、レジェンド藤田拓郎が午後のダートでも安定感を発揮。コーナーごとのライン取りは落ち着いているが速い。常にトップ3圏内のタイムを記録していると、実況が伝えてくる。

 「さすが藤田さん……雨でもダートでもスキがない。走りに余裕があるんでしょうね」

 水瀬は感心したように声を漏らす。亜実も「あの人がどんな風にドライビングしてるのか、いつか真横で見てみたい」と思わず呟いた。


 そんなライバル動向を他所に、亜実と水瀬のコンビは順調にダートセクションを駆け抜ける。もちろん、トップ勢に追いつくほどの爆発的な速さはまだないが、午前の鬱憤を晴らすかのようにいくつかのタイム区間で良い成績を出し、総合順位を数つ上げるくらいの手応えを感じられるようになった。

 泥水を被りながら連続コーナーをこなし、細い農道を抜けるたびに、亜実は「よし、今のコーナーはうまくいった!」と小さくガッツポーズをする。水瀬も「良いラインだったわ」と褒め、2人の呼吸が合い始めるのを感じている。


「もっと踏んじゃっていいのかな……?」

「限界を探りつつ、ね。足が抜けそうならすぐ言うから」

「了解――踏む!」


 視界の端に飛び込んでくる畑や、木立の奥にある小さな集落の屋根が不思議な風景を作り出す。ラリーとは、舗装サーキットでは決して味わえない“地元の道を駆け抜ける”快感と隣合わせのスポーツなのだ、と亜実は改めて実感する。

 そして、泥と砂利が混じったグラベル路面を駆ける心地よい振動が、まるで彼女の体を軽くマッサージするかのように緊張をほぐしていく――。


 農道ダートステージのゴールラインが近づいてくる。最後の数百メートルは直線があるものの、やはり路面はぬかるみだ。亜実がアクセルをしっかり踏み込むと、タイヤが泥を巻き上げ、車体後方に派手なスプレーを作り出す。

 「やった……ゴール!」

 水瀬がインカム越しに朗らかな声をあげ、亜実もハンドルを握ったまま「終わったー……」と解放感に浸る。

 停止エリアでオフィシャルに書類を渡し、タイムカードにチェックを受けると、彼女らの顔には明るい笑みが浮かんだ。午前よりずっと良い走りができたという実感があるからだ。

 仮設のパーキングスペースに車を止め、亜実はすぐに外へ出て泥まみれの車体を見て、「すごいな、バンパーもサイドもドロドロだよ。でも、めっちゃ楽しかった!」と声を弾ませる。水瀬も、「そうね、前よりグリップ感を使えてたし、あなたも冷静にアクセルをコントロールしてたわ」と笑顔を見せる。

 車体を確認していた部長やメカニックが駆け寄ってきて、「おお、悪くないぞ。タイム速報によると、総合順位が少し上がってるみたいだ」と言い、亜実は「本当!?」と目を丸くする。


 ここで昼に設定されたインターバルの時間帯に入り、周囲には報道カメラや地元メディアのレポーターが多く集まってきていた。さっそく、「昨日の霧ステージでトップタイムを叩き出した高校生ドライバー」という看板を得た亜実たちへ、取材陣が殺到する。

 「昨日の霧での走り、今日のダートにも活きていますか?」

 「高校生でこのレベルの走りは驚きです。車の状態はどうなんでしょう?」

 矢継ぎ早に質問が飛んできて、亜実はやや戸惑いながらも素直に答える。


「えっと……まだ車体が完全じゃなくて、クラッシュの影響も残ってます。でも、今は走れるだけ走ろうと思ってます。ダートは、前にFR車で雪道を走った経験があって、それを少し活かせてる感じです」


 記者たちがメモを取ったりカメラを回したりする中、コ・ドライバーの水瀬にも質問が向けられる。

 「水瀬さんは、元々“天才コ・ドライバー”と呼ばれていましたよね。亜実選手とはどういうコンビネーションなんでしょうか?」

 「天才なんて……。でも、彼女が持っているポテンシャルはすごいと思います。今日のダートステージはマシンが少し安定してきたと感じるので、ここから更に上を目指したいわね」


 メディアのフラッシュが焚かれ、2人がライトに照らされる。その時、「お疲れさん」と声をかける人影があった。


 声の主は、昨年の愛知パシフィックラリー優勝者、そしてモンテカルロラリー日本人初優勝という偉大な実績を持つ**藤田拓郎(ふじた たくろう)**だった。藤田はメカニック数名と連れ立って歩いている途中、亜実たちに気づいて立ち止まったのだ。

 「あ、あの……藤田さん……!」

 亜実は思わず感激で言葉が出なくなる。レジェンドと名高い彼は、落ち着いた表情で亜実と水瀬を交互に見やり、にこりと微笑む。


「昨日の霧ステージ、見事だったね。あんなコンディションでトップを取るなんて大したもんだ」

「ありがとうございます……。まさか藤田さんからそんなこと言っていただけるなんて……」


 亜実の胸はどくどくと高鳴る。彼女がラリーを始める以前から、藤田拓郎の名前は父親やテレビの特集などで耳にしていた。モンテカルロラリーに挑み、しかもセリカGT-FOURで日本人初の総合優勝を成し遂げた英雄。その人が、今こうして目の前に立っているのだ。

 藤田はヤリスラリー2の泥だらけの姿をちらりと見て、「車、まだ少し傷んでるだろ? 焦らずに最後まで走り切るのがラリーの基本だ。若い力を見せてくれよ。俺も楽しみにしてる」と言い残す。

 「はい……頑張ります!」

 亜実がほとんど反射的に返事すると、藤田は「じゃあ、俺は次の整備があるんで」と軽く片手を挙げて立ち去っていった。彼の背中には、レジェンドたる貫録と同時に、円城寺が憧れた“世界の舞台を知る者のオーラ”が宿っている。


 亜実が興奮冷めやらぬ様子で立ち尽くしているところに、背後から円城寺がそっと近づいてきた。彼は様子を見ながら、目を細めて「藤田さんに声をかけてもらったのか?」と問いかける。

 「はい……昨日の霧ステージ、見事だったって言ってもらえました……」

 亜実がまだ上擦った声で答えると、円城寺は「そうか……」と噛みしめるように呟く。

 かつて、円城寺自身も全日本ラリーや海外挑戦の際に藤田と言葉を交わしたことがある。あのときはまだまだ若く、到底かなわない存在を前に悔しさばかりが募った。

 (憧れの人が、あんなに近くに……)

 彼の目には、若きドライバー・亜実と、偉大な先達・藤田が微かに接点を持ったことで、新たな可能性が開かれるのではないかと感じられた。自分が果たせなかった夢を、亜実が――あるいは水瀬を含むこのチームが掴み取ってくれるかもしれないと。


「いいじゃないか、亜実。お前なら、藤田さんが驚くような走りができるかもしれないぞ」

「……そんな、簡単に言わないでくださいよ……でも、わたし、もっと頑張りたいです」


 亜実は握り拳を軽く振り下ろすように力を込める。水瀬も微笑みながら「あなたなら行ける」と小さく呟いた。


 やがて昼のインターバルが終わるアナウンスが流れ、各チームが再出発の準備に入る。

 部員たちが最後の点検を終え、オイル量やラジエーターの水漏れをもう一度確認。亜実は水瀬とともにシートに座り、ホールドを確かめる。


「午後の残りステージをしっかり走りきれたら、明日の朝にはさらに順位を上げられるかも。焦らず行こう」

「うん、わかった……。今日の夜までに壊さなければ、明日も走れるんだもんね」

「そう。完走こそ大事。でも、攻められるところは攻めましょう……あなたの感覚が頼りよ」


 2人は小さく拳を突き合わせる。朝の高速ターマックでの迷いが嘘のように、今の亜実は前向きだ。ダートステージでつかんだ手応えが心を支え、なおかつ水瀬のナビに対する信頼感が増している。


 午後のステージは、午前よりは短めながらも、似たような農道ダートが続くエリア。雨上がりのぬかるみはまだところどころに残っており、一部は意外と乾き始めて逆に砂利が緩んでいる区間もある。

 亜実と水瀬は、昼の整備で少し補強した足回りとダート用セッティングを活かし、再び快走を見せる。

 途中、細い道を縫うように走る場面や、小さなジャンプスポットで車体がふわりと浮く瞬間もあり、亜実は「ジャンプってこんなに面白いんだ……!」と興奮をあらわにする。

 しかし、調子に乗りすぎると危険なのもラリーの常。水瀬が「次、深いわだち! イン寄りは踏まないで!」と警告を発すると、亜実は寸前でラインを変え、泥沼にハマるのを回避。ヒヤリとするシーンも何度かある。


「ごめん、あぶねー……」

「大丈夫。止まれたからOKよ。でも、今の速度域なら十分コントロールできるってわかったでしょ?」

「うん。次はもっとうまくやる!」


 こうして少しずつ、彼女たちはチームとしての完成度を高めていく。ラリーの恐ろしさと楽しさを同時に味わいながら、夕刻の時間が近づく中、ステージをクリアしていくのだ。


 最終的に、亜実たちのGRヤリスラリー2は、午後ダートのセクションを大きなトラブルなく完走。リタイア車両やタイムが伸び悩むライバルもいる中、少しずつ順位を押し上げていく。

 もちろん、昨年優勝の藤田拓郎率いるFUJITA Suspension Rally Teamや、堅実走行のNagoya Spirit Rally Teamなどの強豪にはまだ及ばない。だが、2日目朝の時点より確実に前へ進めている手応えがある。

 記者や観客が「この高校生、昨日の霧だけのまぐれじゃなかったみたいだぞ。ダートでも上位と遜色ないセクタータイムを出してる」などと噂し始め、亜実はその噂を耳にして小さな笑みを漏らす。


「よかった、なんとかここまで来れた……。車、壊れないで本当によかった」

「うん。夜までにもう少し距離はあるけど、メインとなるダートはこれで終了かな。あとは高速区間を少しと、また明日に繋がるステージが残ってる」

「そうだね……。でも、まだやれる気がしてきた。今回のダートで自信を取り戻せたから」


 亜実は運転席でハンドルを握ったまま、深く息をついてから微笑んだ。

 車外では夕刻の陽が傾きかけ、空はオレンジと灰色の入り混じった色彩を帯び始めている。1日目の霧や雨に比べれば、ずいぶん穏やかな天候だ。だが、それでもラリーが容易になるわけではない。


 日はゆっくりと西へ傾き、夜に向かっていくラリーの風景が、次のドラマを予感させていた。学校の部活動として始まったはずの“ラリー”が、いつの間にか亜実たちを世界へと誘う可能性をはらんでいる――。


こうして、泥まみれのGRヤリスラリー2は夕刻の薄暗い色彩の中、次なるステージの入り口へ向けて静かに姿を消す。2日目はまだ終わらない。車体と人、それぞれが抱える不安を超えて、最後のセクションに挑む覚悟を固めながら――。

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