第28話 闇を裂く灯火――霧のナイトステージを切り裂く二人の鼓動
愛知パシフィックラリーの1日目は、すでに長い一日となっていた。朝からの山岳ステージ、途中の林道グラベル、そして観客を回避したクラッシュ——そのすべてで、高槻亜実と水瀬恵理香はぎりぎりの状況を乗り越え、なんとか車両(GRヤリスラリー2)を修理して再スタートしていた。
午後後半に入り、空が朱色から闇へと染まり始めるころ、サービスパークでは次のステージへ出発するチームが慌ただしく準備を進めている。ここで1日目最後のステージが行われるという。霧が出る時間帯になり、トップドライバーですら攻めきれずに慎重な走りを強いられる……と噂が広がっていた。
亜実は車の横で頭を抑える。夕方から降り続いている雨は小やみになったが、なんと深い霧が発生しているらしい。しかも夜だ。ラリー部の仲間たちも「夜+霧って、最悪のコンディションじゃ……?」と不安を露わにするが、コ・ドライバーの水瀬はノートを握ったまま静かに言う。「そう、でもここがチャンスよ。トップドライバーも抑えて走るなら、私たちが攻めればトップタイムを取れるかもしれない。」
亜実はどこかで躊躇している。1日目の朝からまともに走れず、さらにクラッシュしてラジエーターやバンパーを修理したばかり。車の調子も万全とは言えないし、トップ勢のスピードには遠く及ばない……それなのに、ここで強気に攻めていいのか。
最終ステージへ向かうリエゾン(公道移動区間)は暗闇に包まれ、街灯の少ない山道が続く。運転席は公道規定ゆえ、コ・ドライバーである水瀬がハンドルを握る。一方、亜実は助手席でシートベルトを締めている。
窓外に広がる景色は、黒と灰色のコントラスト。霧が斑に漂い、ヘッドライトの光が幻想的な白い幕を作り出す。その中を、水瀬は割とスムーズに走っているが、話し出す声はどこか緊張を孕んでいる。
「亜実、どう? 車の調子……まだ完璧じゃないと思うけど、2日目に影響しないといいわね。さっきのクラッシュ、一応ラジエーターとバンパーは修理したけど……。もしかしたら、2日目にまた不具合が出るかもしれない」
亜実は苦い顔をする。「うん……サスペンションとか足回りは大丈夫そうだけど、正直分からないよね。長距離を走ってみないと……」
水瀬はさらに唇を引き結び、「あなたに世界の舞台を見せたいと思ってるの。円城寺も同じね。だからこそ、この大会で“結果”が必要だった。好タイムを出せばスポンサーだって注目するし、次の大きなラリー参戦に繋がる。でも、先のクラッシュでそれも失いかけてる……」と心中を吐露する。
その言葉に亜実は心臓が苦しくなる。「世界の舞台を見せたい」——そんな大層な望みを自分が背負っているなんて、責任が重すぎやしないかと。
「私、世界なんて……まだ想像できないです。でも、円城寺さんや水瀬さんがそう言ってくれるなら、頑張りたいって思う。……だけど、タイムも順位も今のところ良くないし……」
水瀬は少し笑う。
「まだ1日目は終わってないわよ。この最終ステージは夜+霧。トップドライバーも攻めきれないなら、チャンスがあるじゃない。やる気、ある?」
亜実は息を飲み、「……あります。最初は怖かったけど、今はむしろ燃えてます。このステージで私たちにしかできない走りをして、タイムを稼ぎたい……!」と拳を握り込む。
水瀬は微笑。「そう、じゃあそうしましょう。さっきのクラッシュの影響を心配しながらも、ここで走りきれば“あの高校生ラリーチームは侮れない”って皆に思わせられるかも。やってみましょう。」
最終ステージは、1日目を締めくくる夜の山道。コースは比較的短めだが、霧の発生が多い場所として有名で、視界不良になるケースがよくある。
スタート地点には多くのチームが集まり、ヘッドライトやライトポッドを眩しく光らせながら順番を待っている。豪雨は止んだが、代わりに濃霧が漂い、空気はひんやり。トップドライバーのランエボやWRX、ラリー2セミワークス勢も、さすがに慎重モードらしい。
亜実と水瀬が乗るGRヤリスラリー2は、昼のクラッシュによる修復跡が痛々しい。フロント周りは仮のバンパー、ボディには傷が残る。前に並んでいる車からは「まだ走るのか……」「高校生チーム、懲りないな」といった囁きも聞こえるが、2人は耳を貸さない。
水瀬がノートを開き、ヘッドライトの明かりで確認しながら呟く。「ここは霧が深いから、ペースノートが頼り。……私も今までのどのステージより正確にナビするわ。あなたは、私の言う通りに走ってくれれば大丈夫。」
亜実は深呼吸し、「はい……水瀬さん、お願いします。私、トップタイム……取りたいです!」と決意を固める。さっき、車が破損し失意に沈んだはずだが、不思議と心が軽い。全てを吹っ切るかのように、ハンドルを握る。
サービスパークでは円城寺潤がカメラ越しからチームを見守っている。ライトに照らされたヤリスラリー2の傷跡を見るたび、彼の胸は疼く。
(無理して走って大丈夫なのか……? でも、俺がリタイアを勧めても止まらないんだろうな。)
「頑張って……」と口中でつぶやくが、声にはならない。まるで親鳥が飛び立つ雛を送り出す瞬間のようだ。
亜実はスタートコントロール係から合図を受け、車を所定位置へ進める。残り10秒……9……。水瀬がノートに視線を落とし、亜実は少しだけ目を閉じる。今、私にできる最大限を出し切る——そう心に決めた。
GO!の合図とともに、ヤリスラリー2が暗い山道へ飛び出す。周囲は深い霧が立ち込め、ライトポッドの光が白い塊となって反射している。通常の視界はほぼゼロと言っても過言ではない。
「次、右3、距離30……残り10で左2マイナス!」と水瀬が叫ぶ。彼女の声もいつも以上に張り詰めている。霧で外の看板やガードレールが全く見えないからこそ、コ・ドライバーの指示が命綱だ。
亜実はその声だけを頼りに、ブレーキを遅らせ、コーナー進入角をイメージしながらハンドルを切る。車体は思ったよりスムーズに曲がり、加速へ繋げられる。(すごい……視界がないのに、ラインが読める。水瀬さんのナビが完璧だからだ……)
2人の呼吸と心拍が同期するように、コーナー、ブレーキ、加速、コーナー——がリズムを生み始める。午後の雨ステージで調子を取り戻した亜実は、今や霧すら恐怖を掻き立てる要因に感じなくなっていた。
「私には水瀬さんがいる……大丈夫!」
一方、水瀬の指示は驚くほど正確。レッキ時のノートに加え、走りながら微調整した情報を咄嗟に補足する。「ここは道幅狭い、少しイン寄りで!」「もう少し踏める!」「いや、そこでブレーキ!」——最小限の言葉で最大の導き。まさに“天才コ・ドライバー”。
同ステージを走っているトップドライバーたちは、霧のせいでスピードを押さえていると聞く。事実、先にゴールした数台はタイムが予想より遅いらしい。
だが、亜実と水瀬はほぼ通常速度で攻めているに等しい。道端の応援観客たちは「え、何だあの車速……霧なのに!」と驚愕する声を上げている。
亜実はハンドルを握りしめながら、(怖くないわけじゃない。だけど水瀬さんの声通り走れば、見えないはずのコーナーが鮮明に頭に描ける。こんな感覚初めて……!)と興奮を抑えられない。
林道が連続する中、ライトポッドの光が霧で拡散し、外からは車が白い煙の中を突っ切っていくようにしか見えない。だが、その中でヤリスラリー2は確実に1つ1つのコーナーを完璧に攻略している。
サービスパークで観戦モニターを見ている円城寺は、彼女たちの走りに鳥肌が立つ思いだ。実況から「Car No.27、驚異的なスピードでコーナーを攻略している」という情報が入り、タイム計測ポイントではセミワークス車両を上回る区間ベストを叩き出す瞬間が確認される。
円城寺は(あいつら、何があった……? まるで視界があるみたいに走ってる)と唇を噛む。喜びと不安が入り混じる表情。クラッシュ後の修理で不安定かもしれないのに、こんなに攻めて大丈夫か?——そう思いつつも、彼らが“やれる”と確信している自分に気づく。
部員たちも「すげえ!」「うちのチームが今セクター1トップだって!」と大興奮。佐伯顧問は「夜+霧なのに……水瀬さんのナビが相当凄いんだな」と驚嘆する。
円城寺は心の中で(頼む、無事でゴールしてくれ……)と祈るように呟く。親鳥が羽ばたく雛を見守る気分をまた味わっている。
コースの後半も濃密な霧が立ち込め、急勾配のS字カーブが連続。普通なら30〜40%落とすペースだが、亜実は昼のアグレッシブさを完全に取り戻し、むしろRC F時代の“滑る感覚”を4WDで再現するかのように、スムーズにアクセルをオンオフ。
水瀬の声もテンションが上がり、「ここ、左3プラス、出口ですぐ右4マイナスが連続……注意!」と速射の如く指示を飛ばす。亜実は「了解!」と即座に反応し、まるで視界があるかのようにラインを取る。
観客やオフィシャルが「何だあの車、霧が無い時と同じスピードじゃないか……?」とざわつく。
(踏めば踏むほど車が応えてくれる……こんなに楽しいんだ、ラリーって……!)
亜実は気づけば笑顔になっていた。ここは絶対に怖いはずなのに、不思議と恐怖がなく、水瀬のナビが前方視界を作り出してくれているかのようだ。まさに一心同体の瞬間が続き、そのままゴールラインへ突入する。
ゴール地点を通過し、停止エリアに入るとすぐにオフィシャルから「おめでとう、Car No.27。今のところトップタイムだよ」と声がかかる。亜実は「え……トップタイム?」と呆然。
続々ゴールする車両がいるが、セミワークス勢も霧で抑えた走りをしたためか、タイムが伸びず、「GRヤリスラリー2を駆る高校生チームが最速」という噂があっという間に広がる。
亜実はヘルメットを外し、ハンドルに額を押し当てる。「やった……本当にトップタイム……」と息が上がる。水瀬も大きく呼吸を整え、「ふう……流石に疲れた。でも、これが本気のナビよ。あなたも応えてくれたわね」と微笑む。
“工業高校ラリー部の高校生が、1日目最終ステージでトップタイムを叩き出した”——このニュースは瞬く間に他チームをざわつかせる。「あの子たち午前まで遅かったのに、一体何があった?」「クラッシュ修理した車で霧のナイトステージ……信じられない」と口々に驚きの声。
いくらこのステージでトップタイムを出しても、午前中の遅れ+クラッシュによるペナルティが大きいため、総合順位自体は下位に留まっている。それでも、観客や他チームが急にこの“小さな高校生ラリーチーム”に注目を始める。
メディア記者が「Car No.27のドライバーさん、コ・ドライバーさん、一言いいですか?」と声をかけてきたり、セミプロのドライバーたちが「すごいじゃないか!」と握手を求めてきたり、状況が一変するほど反響が大きい。
亜実は照れながら「まだまだです、今日はクラッシュもしたし、正直失うものがなかったから思い切り踏んだだけで……」と謙遜するが、内心は頬が火照る喜びで溢れている。(私でも、やれたんだ……夜+霧の舞台でトップタイムを出せるなんて!)
水瀬は後ろで静かに微笑む。「これで2日目に繋げられるわね。……総合タイムは良くないけど、チャンスはまだある。これからよ」と力強い眼差し。
サービスパークへ戻ると、円城寺やラリー部の面々が拍手で迎えてくれる。「お帰り! トップタイムだって!?」「信じられないよ、さっきまで下位だったのに……」と口々に喜びを表す。
円城寺は眉を下げながら「お前ら……大丈夫か? すごい走りだったんだろうが、何かもう俺は心臓に悪い……」と苦笑しながら、しかし瞳には希望の光が混じる。「よくやったな。あの霧でトップタイムとは……まさかここまでとは思わなかった」
亜実は少しあたふた。「私もびっくりです。でも、水瀬さんのナビが完璧で……」と感謝を込めて水瀬を見る。コ・ドライバーは、疲れた笑みを見せつつ「あなたが応えてくれたから取れたタイムよ。私一人じゃ何もできない」と答える。
部長らが「総合順位はまだ下位だけど、明日の2日目次第では中位以上に浮上できるかもね」と期待を高めるが、円城寺は「無理はするな。明日も長いし、車のコンディションもわからないから……」と釘を刺す。
こうして1日目が終わり、夜も遅い。亜実と水瀬は疲労困憊だが、心地よい高揚感が残る。まさに、霧のステージで一瞬の輝きを放った。彼女らのラリーが本格的に注目されるのは、ここからかもしれない。
ラリー部のテント内で簡単なミーティングが行われる。亜実や水瀬、顧問の佐伯、円城寺、そして部員たちが集まり、1日目の総括と2日目への戦略を話し合う。
「クラッシュ修理の影響がどこに出るか分からないから、あまり無茶しない方がいいかも」と部長が真面目に言うが、亜実は「はい……分かってるけど、まだ上を目指せるかもしれないし……」と迷いを吐露。
水瀬は「2日目は平野や高速系のステージが多いし、車体のダメージが操作性に影響するかも。スピードが出るほど空力や微妙なバランスが問われる。本格的な車体整備が必要かもしれない」と指摘。
円城寺は真剣にメカニックたちへ言う。「今夜のうちにできる範囲で補強するんだ。ラジエーター周りやバンパーをもっと万全にしよう。亜実と水瀬には、2日目の朝まで体力を回復してもらいたい。……気持ちは分かるが、これ以上事故があれば取り返しがつかなくなるぞ。」
亜実は深く頷き、「はい、明日は気をつけます。でも今日最終ステージでトップタイムが出たのは本当に大きいです。観客さんも怪我がなかったし、私たちまだ勝負を捨ててません!」と声に力を込める。
1日目の終了とともに、ラリー部メンバーは宿泊先へ戻る。亜実と水瀬は同室で簡易的な旅館に泊まることになっており、夜遅くに2人で翌日のノート調整をしていた。
亜実はベッドに腰掛け、「ああ……疲れた。でも、最後のステージ……まだ興奮してます。私、本当にあんな走りができるんだ……」と笑みがこぼれる。
水瀬はテーブルでノートを読み返し、「あなたはポテンシャルあるわ。世界に行けるって言ったのも嘘じゃない。……明日、車が壊れずに済めば、さらに上の順位を狙えるかもしれないし。リスクはあるけどね。」
亜実は「ごめん、いろいろ負担をかけちゃって……」と一瞬弱気になるが、水瀬は首を振る。「いいの。私も自分の償いのために走ってる。それに、あなたの走りが見られて……ちょっと嬉しい。」と優しく微笑む。
窓の外に夜風が吹き、明日の予感を運ぶ。2人はベッドに潜り込む頃には、すでに深夜を回っているが、興奮で簡単には眠れない。1日目を乗り越えた達成感と、2日目の不安が入り混じる夜……しかし、彼女たちの心には確かな光がともっていた。
——夜は静かに更けていく。サービスパークではメカニックたちがヤリスラリー2の修理・調整に追われており、亜実たちが眠っている時間でも作業は続く。雨上がりの湿った空気がテント内を満たし、時折工具の音が響く。
円城寺はそっと車体を見つめ、「こいつら、ここまでやるとは……。2日目もどうなるか分からんが、最後まで走り抜けてくれ……」と瞳を伏せる。
一方、各チームがざわつく中、「あの高校生ラリー部、最終ステージでトップタイム取ったんだって?」「霧の中でどうやって……」などの声が聞こえる。周囲の注目を集めることになった彼女らは、果たして明日のステージでさらなる奇跡を見せるのか。
こうして1日目が終わり、緊張や衝突を乗り越えた亜実と水瀬が深い眠りにつく頃、夜明けの準備がゆっくりと進んでいる。2日目の朝日が昇ったとき、さらに過酷な舞台が待ち受けるが、少なくとも今は、彼女たちが1日目最終ステージの闇と霧を切り裂き、トップタイムを叩き出した余韻に包まれている。
夢の続きを見るのは、明日。世界へ一歩近づくために。
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