第二幕【夕波の満ちる一室で】
第五場:水と油の痴話喧嘩
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決して背後を取らないその誠実さを、少しは余りある口汚さに向けてくれればいいんだけどねぇ。
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(☆は初登場のキャラクター)
【登場人物紹介】
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・第一場~第三場を参照。あの後お花見をして、けっこう話し込んだ。
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・夕ヶ波高校演劇部の3年生。アウターとして白衣を身につける、血色の悪い研究者風のお姉さん。研究者風なものの理系科目はさっぱりで、得意科目は書道。
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・演劇部3年生。ステレオタイプ京都人な大和撫子。少しでも気に入らなければその事象に対する暴言が丁寧語フィルターを通して発せられる。しゃなりとした雰囲気と丁寧語に絆されてはいけない。
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・演劇部2年生。
・『〇〇ですぇ』という我流の京都弁を使う。淡白ゆえに言葉遣いも特別棘のあるものにはならないが、日常的にそうである姉のことを咎めることもない。
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壇上に咲いたクラブ紹介の花が、暫しの春雨を跨いでもまだ散らないうち。
私たちは入部届を提出するために、部室棟1階の左、そのいちばん奥へと歩いていた。
「ねーねーかがり! ここ、奇術トライアスロン部の部室だよ!」
「だね。開けてみる?」
「……やめておきましょうう。ここの部長、すっごく面倒くさいですう」
「結局、リボン返してもらうのにマジック5個も見せられたもんね……」
明るんだ磨り硝子の引き戸の先から、鳩とインコのハーモニーが聞こえた気がするような。リボンで遊ばれたからか、墨香は少し立腹の空模様。
いや、私だってリボンに鳥の匂いをつけられたら怒るかもしれない。
「いちばん奥って言ってたよね! じゃあ目的地は〜? そこだぁ〜っ!」
と、墨香因縁の教室の先、操がそれらしき教室に充てがわれた引き戸に手をかけた──ものの。
『──だから! ほんとうにキミは心根が腐っていると言ったんだ! どうしたらそんな下劣で配慮のない視点で物を見られるんだい!?』
『はあ。相も変わらず、極めて耳障りな羽音ですね。畜生の
『そうやってすぐに人を見下す! ほんとう、キミの意地と性根の悪さにはいっそ感服しているよ!』
『感服? おっと、そうでした。小蠅にも感受性は存在しますね。失敬』
『〜っ! キミは呆れるほどに腹の立つ物言いが上手だ! いっそ清々しいね! 憎たらしさすら追い抜いて!』
「……声、聞こえますよねえ?」
「……この感じ、喧嘩だよね?」
「喧嘩してる演技なのかなあ?」
「確かに。
「それかもしれませんねえ」
廊下は行き止まりに差し掛かっていて、これも明るんだ磨り硝子の向こう、解像度の悪い白日で、誰かと誰かの言い争いのようなものが聞こえる。
「……どの道水差しになっちゃうし、ちょっと入るの待とうかな?」
「賛成ですう。君子危うきに近寄らずう……」
「おじゃましま〜す!」
「あー、だよね。操ならそうだ」
「虎穴に入らずんばあ……」
勢いよく開かれた引き戸の中。そこは、普通の教室とは大きく違っていた。
広さはおよそ教室ふたつ分。加えて、目立って違うところは瞭然。机はひとつも置いていなくて、広々しいそこにあるのはパイプ椅子が数脚。
畳まれたかなりの数のそれらも壁際に寄りかかっていて、物珍しい雰囲気が私たちを包む。
そして何よりも、その椅子が向いている先には、照明設備のついている、少しせり上がった舞台のようなものがあった。
体育館の壇上みたいに立派なものじゃない。でも、鼓動の傍が少し熱くなって、上手く言語化できない、奮い立った何かが私の中に居着く震えが生まれた。
と。設備に目を奪われるうち、口喧嘩の主と思われる、椅子に座っている綺麗な人と、立ち上がって激情を顕にしている科学者みたいな人の2人組……と、加えて、少し離れた場所で椅子に座って微笑んでいる人が1人。3人ぶんの視線が私たちに刺さっていた。
「あ、あのう、水を差してすみませんん……」
「……ああ、悪いね。とても悪かった。……
「名前で呼ばないでください。ぞわぞわと気色の悪い」
「はあ……少し空気を入れ替えようか。この部室に赴いたってことは、そう。キミたちは入部希望者だね」
「そうだよ〜!」
「はい、そうです」
「そうですう」
白衣を身にまとった、どことなく科学者……というよりは、研究者を思わせるような先輩が声をかけてくれる。
声の感じからして、すごく口の悪いほうじゃないほう。眼鏡の上からでも分かる濃い隈に、気苦労の多さを感じてやまない。
「ようこそ、
「はーい! よろしくねカニ先輩!」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いしますう」
「入部希望者の皆さん。こんな粗末な鋏を誇示する情けのないカニなんて、慕う価値などありませんよ」
「キミねぇ……」
薄紫の長髪を靡かせて、口の悪さが鮮やかな先輩も、極めてフレンドリーな笑顔で接してくれる。私たちに向ける視線は優しいものの、ちょっとだけ怖い。墨香も少し怯えてるし、操は──
「大和撫子先輩も、よろしくお願いしま〜す!」
「よろしくお願いしますね。
「撫子は合ってるの〜!?」
「はい。
「よろしくね!」
……全然臆さない。うん。分かってたけど、やっぱり操の肝の太さには度々驚かされるなあ。揺らがない恒星であることがこの子がこの子たるアイデンティティだから、特に疑う余地がないことにも感動したり。
「かがりい、この人ちょっと怖いですう……」
「ご安心を。よく知らない相手には、もちろん少し抑えてお話しますから」
「地獄耳ですう! 今の私の声、囁きどころかほぼ息でしたよう!?」
「姉さんはそういう人なんです。口と性根はお世辞にも綺麗とは言えませんが、分別のない人ではないということは保証できますぇ」
鏡宮先輩の肩を持つもう1人の先輩(多分)が声を上げる。鏡宮先輩と顔立ちは違うけど、同じ髪色をしていて、鏡宮先輩を姉さんと呼ぶということは……。
「ウチは
「鏡宮先輩が2人だ〜!」
「ややこしいですから、下の名前で呼んでくださると助かります。もしくはあだ名でも構いませんぇ」
「分かった〜! よろしくね、雲ちゃん!」
「いい響きですが、生憎雲ちゃんの席はもう埋まってます。他のはありませんかぇ?」
「じゃあ、やっちゃん!」
「気に入りました。それにしましょうか。ではあなた方も、軽く自己紹介をお願いしますぇ」
途端に、スポットライトがこちらを向く。眩しくて熱くて、目の奥が焼けてしまいそう。
でも、舞台に立ってもいないのに、スポットライトなんて本当は当たっていないのに……それでも、すごく熱かった。
演劇部という環境で自己紹介をする。それが意味することはなんとなく分かっていた。これは柔らかなマニフェストだ。スタートラインを引かれたのだから、スタートラインに立つ必要がある。
鳥の
……踏み出そう。すごく勝手なのは分かっている。
でも、でも。やっぱり、私は私という蕾を、徒花で終わらせたくはないから。水の
「そうだね、それじゃあまずは……キミ!」
「……はい!」
ピストルが劈いた。それでは、威勢よく高らかに。
「
……少し、熱くなりすぎたかもしれない。
何だ静寂がうるさかったから。
「か、かがりい……!」
「……! すみません、少し熱くなりすぎ──」
「──いやあ、素晴らしいよ!」
カニ先輩から、質のいいハンドクラップが鳴った。
それに続いて、撫子先輩と八雲先輩からも。
「ええ。真剣な想いが伝わってきましたよ。謝るのはお門違いというもの。自己顕示欲と真摯さがいずれ実を結ぶ、きっとそれが役者業というものですから」
「姉さんは役者ではないですが、正鵠を射った形容だと思います。威勢がいいは格好いい、ですぇ」
照れ隠しで梳いた指に好感触が掛かる。さらりと梳いてしまうことが少し惜しくて、何だか行き場を失った。
「というか、キミは肇と知り合いなのかい?」
「幼なじみです。私と、それからこの子、操も」
「なるほどねぇ。でも肇に魅せられたのなら、昔から縁があったはずの、彼女がいる劇団に向かわなかったのは何故なんだい?」
「それは……」
……痛いところを突かれたなあ。
「そういえばそうですねえ。どうしてなんです、かがりい?」
「……身体があんまり強くなかったの。壊すといけないからって、両親がけっこう止めててさ」
「ふむ……なるほどね、それは仕方ない。役者の卵たるもの、資本に
まさか、肯定されるとは思ってもいなかった。身体を顧みずに使い潰していただけなのに、マイナスをゼロに近づけただけなのに、褒められるなんて。
肇ちゃんに近づきたい、ただその一心で壊れがちだった身体に向き合えた自分が、ほんの少しだけ好きになれた気がした。
「さあ、では次だね。次は、目を爛々と輝かせている〜?」
「どっちだろうね、すみっち!」
「トリは嫌ですう……」
「キミ!」
「わたしだ〜!」
「トリは嫌ですう……!」
ツインテールが頭ごと、ぴょこんと小さく数回跳ねる。操の目の輝きはいっそう増して、スポットライトの光が暗く見えてしまうくらいだった。
「わたしは
まるで舞台のキャラクターとしているかのように、大きな身振りで煌めく操。
よく通る声だから、この子なりの真摯さも伝わってくるみたいで、幼なじみとしてはけっこう誇らしげになってしまう。
「声の通りがええですなぁ。おまけに表情が明るくて明るくて。
「八雲たちの代には、いい意味で周囲を振り回す子がいないからねぇ。
「やったー! 褒められた!」
ハイタッチを要求する操のジェスチャーを汲んで、両手を高めに掲げてみる。すると吸い込まれるように私たちの両手は音を鳴らして、倣うように掲げた墨香の両手とも、同じような音が鳴った。
満足げに朗らかな操の笑顔は、すごく眩しかった。
「素直で結構。貴女もこれだけ素直になれば、せいぜい目障りもマシになると思うのですが」
「素直じゃないのはキミのほうだろう。臆病を硬い殻で覆っているだけのくせに」
「臆病の柔肌を隠さないあなたはよりは幾分マシですが? エチケットがなっていないんですよ」
「はっ、強がりめ」
「……
「生憎、母親は早世してるんでね。尤も、下品はキミのほうだろう? まだ存命の母親に泣いてせがんだらどうだい? 『
「……気色の悪い」
「キミが先に吐いた唾だろう?」
「…………」
「ほら言い返せない! それでも負けを認めようとはしない意固地には少しばかり感服だよ! 残りは全て〝憐憫〟だがね?
あんまり喉越しのよくない罵倒とか雰囲気のせいで、小さく咳き込みそうになる。肇ちゃんって、こんな魔境の中でも笑ってるのかな……。
「あ、あのう……私も自己紹介をしたいですう……」
横でしおらしく項垂れる墨香が少し可哀想になってきた。本当に、いつもこんな感じなのかな。肇ちゃんはもう慣れちゃったのかなあ……。
「あの阿呆2人は置いておいてください」
「阿呆って言いましたね……!?」
「姉さんは特に、自分が劣勢になると阿呆です。お得意の弁舌が回らなくなるとああなんですぇ。情けなくてまあ、それなりに可愛いでしょう?」
「可愛……くは……うーん……」
「見ていると疲れてきますねえ……」
「カニ先輩! 撫子先輩! 仲良くしようよ〜!」
操の静止には耳も貸さない先輩たち。
ずっと見ていると、喉の閊えも相まって──
「どうです? 息苦しいでしょう?」
「……かも、しれないです。もっとに仲良くできないのかな」
「もっと静穏な関係を築けないものですかねえ……」
「どれだけ矯正しようと、相容れないものは相容れないものなんですぇ」
「それは……多分そうですが……」
「それに、他者の意思を矯正するとき、そこには自分の意思の押し付けがあるということも忘れてはいけません。分からない人は分からない。それでもいいんですぇ」
「でも、やっぱり見ている側としては息苦しいです」
「分かります。……けれどもこれ幸いと、ここは演劇部ですぇ」
やっちゃん……八雲先輩は、ウィスパーボイスで声高らかに語りかけて。
痴話喧嘩を続ける2人が解像度の低い、例えるなら磨り硝子越しの背景になっていく。
「息苦しいのなら、息をすればいいんです。息をできるようにすればいいんです。海水の満ちた息苦しい部屋に住み続けるためには、
鰓。えら。魚が息をするために使う首元のアレ、だと思う。私たちの首元を触ればあるものなんてせいぜい皮膚と、その中にある筋肉、骨、血管のそれぞれだけだろうけど……多分そういうことではなくて。
「……鰓、ですか?」
「魚だってウチらと同じ、血の通う生き物ですぇ。生きているのなら、意思があるはず。その意思を演じるんです」
「魚を……」
「意思のある生き物を……」
「演じる、ですかあ……!」
「尤も、意思のない海底の砂粒を演じても構いませんぇ。その場合は、息苦しさの概念がないため少し話は変わってきますが……」
そう。想像して憶えるんだ。私を、私たちを、空気の詰まった水泡が包んでくれるようだった。鰓をつくるモラトリアムをくれているみたいに。
だから、私たちはこの口喧嘩が鳴りを潜めるまでの今より数刻、鰓を持つ生き物を演じる。それになりきってみせる。
息苦しい夕波の満ちたこの部屋を生きるために。
耳を塞がなくても、この部屋で満足に息を吸うために。
「ちなみに、あなた方の想像する〝鰓を持つ生き物〟とはなんですかぇ?」
「マグロです」
「リュウグウノツカイですう」
「エビ!」
「えぇ、三者三様で素晴らしいですぇ。それでは折角ですし、鰓で息をしながら、この部室の設備紹介でもしていきましょうかぇ」
「「お願いします!」」
「お願いしますう」
♢♢♢
「それでは最後に、演劇部に欠かせないステージですぇ。ここはあんまり強く踏み込むと素材の木が傷むので、大胆かつ慎重に、が信条ですぇ」
「「分かりました!」」
「分かりましたあ」
「では、次は──」
『ごめん、遅れた! 今日の新☆入部希望者ちゃんズは……って、もしかしてきみたちは……?』
「あら、潮騒先輩。生徒会のお仕事お疲れ様ですぇ。えぇ、この子たちが入部希望者の──」
『失礼します! 1年6組、
『し、失礼します! 同じく1年6組、
『おや、背後から何奴!? もしや、アーユーも追加新入生ちゃんズ!?』
「……ふむ、また増えましたか。今日は愉快な日になりそうですぇ」
──────
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