第33話 水槽の中の宇宙人
俺は薄ぼんやりと目を醒ます。
薄暗い部屋のベッドに寝かされていた。
薬品のにおいが鼻腔を刺激する。上半身を起こす。俺は薄緑色の患者服を着用していた。
あたりを見回すとシンクのついた机が複数ある。壁棚にはビーカー、フラスコ、シャーレなどが整列していた。部屋の前方には古い黒板、後方には巨大な水槽。その横には顕微鏡が並べられている。そして一画に人体模型があった。
俺は心臓が跳ね上がる。
なぜならその人体模型がシロヤギにそっくりだったからである。
「――ッ!」
急に動いた衝撃によって突如左手が痛んだ。
しかし当然だが、俺の左上腕の途中から先がなかった。
どうやら今のは幻肢痛だったらしい。
左上腕には灰色のソケットが接合されていた。
とそこで、黒板の隣のドアが開く。
奥は理科準備室に続いていると思われる。
「やっと目を醒ましたかね。待ちくたびれたよ」
現れた人物は車椅子に乗った老人だった。
ザンバラの長い白髪。ひび割れた丸眼鏡をかけている。身にまとった白衣は着古しているのか薄汚れていた。
「あんたは……」
妙に見覚えのある老人だ。
利発な少年の面影がちらつく。
「もしかして……博士なのか?」
俺の問いかけに白衣を着た車椅子の老人は答えた。
「イエス。アイム・ドクター」
やはり博士、月光時幸村だった。
あのタイミングで俺を救助できるのは博士しかいないだろう。
さすがにランドセルは背負っていなかった。
「生きてたのか?」
「うむ」
博士は重く頷いた。
そこには過ぎ去りし時間の長さが感じられた。
「博士、ひとつ聞きたいんだが今は何年の何月何日だ?」
「2094年8月15日、2時22分22秒だね」
博士は丸眼鏡のディスプレイに映し出された時間を読み上げた。
「……そうか。俺はちゃんと帰ってこられたのか」
あのタイムマシンは完璧に修理されていた。
「ちなみにヤモリ、きみは1週間ばかり眠っていた」
「1週間も?」
その間に俺を治療してくれたのか。
「で、ここはいったいどこなんだ?」
「旧十六夜小学校の理科室だ。今では廃校となっているがね。ちなみにそのきみが使っているベッドは保健室から拝借したものだ」
「第2の飛鳥神社ラボってとこか」
本家はばっちゃんの葬式のあと取り壊されたはずだ。
「現在、僕はここを根城にしている」
「かつての天才も今や住所不定かよ」
「僕が天才……?」
面喰らう博士。
それから皺の深い笑みをこぼした。
「あはは……そういえば、そんな時代もあったかね」
長い人生だ。いろいろあったのだろう。
察するにあまりある。
その象徴ともいうべき博士の下半身に俺は目が留まる。
「足、悪いのか?」
「まあね。でも今となってはこっちのほうが便利なものさ。飛べるしその場で用も足せる」
博士は強がるように言って、枯れ枝のように細くなった足をさすった。
「この車椅子は温水洗浄トイレ一体型さ。排泄物は車椅子の中の汚物タンクに溜められる。飛行しつつ汚物タンクから排出すれば身軽になる寸法だ」
「単なるバイオテロじゃねえか」
鳥じゃねえんだから糞をして飛ぶな。
「つーか、どうして歩けなくなったんだ?」
「さあ、なぜだったか……? 最近物忘れがひどくてね」
「認知症かよ」
「はて、認知症とはなんだったっけね」
「…………」
まさかの藪蛇だった。
博士も今や80歳なのだ。
俺は実に70年ぶりに尋ねる。
「博士、あれからどうなった?」
あれからとは、あれからだ。
言葉を濁さずに言うと太平洋大震災から、である。
「あれからシロヤギの自爆によってレインボーブリッジが崩落した」
博士は語り聞かせるように話す。
「だが、東京湾に落ちた僕たちはソルティライトに助けられた。彼女はヒバカリと僕を背負って飛鳥神社ラボまで運び、そして瀕死のヒバカリと一緒に塩漬け睡眠(ソルトスリープ)に入ったのだ」
「塩漬け睡眠って……」
たしかソルト人が地球に飛来するまでに使った最終手段だ。
「うむ。仮死状態のようなものだ。ソルティライトは口から糸を吐くと繭を形成した。その繭を青白い不凍代替血液で満たし、ヒバカリの命を繋ぎ止めた。しかしそれは応急処置の姑息療法に過ぎない。当時の医療技術ではヒバカリを救う手立てはなかった」
心臓に風穴が空いているのだから当然である。
「だから僕はそれからというもの人工心臓を創る研究に邁進した。人体解剖学、医学、機械工学、様々な分野からアプローチした。十代のすべてを捧げたよ」
「その間、ばっちゃんは?」
「刑部ヒバカリは行方不明者として扱われた」
ばっちゃんの他にも大震災で行方不明者は大量に出たはずだ。
「そして僕はついに人工心臓の開発に成功した。ちょうど医師免許を取った頃で、僕自らさっそく心臓移植手術に取りかかった」
博士は医者になっていたのか。
「で、ばっちゃんはどうなった?」
「息を引き取ったよ。きみも知っているとおり」
「は?」
「昨日、葬式があった」
「ってことは……生きてたのか、一昨日まで」
そうか。
だから火葬されたばっちゃんの遺体から鋼鉄の心臓が燃え残っていたのだ。
あれは博士が開発した心臓だったわけだ。
つまり俺は同じ世界線に戻ってきたのか。
「ばっちゃんは俺の父ちゃんを生んだのか」
「息子は僕には懐かなかったがね。僕は家庭のことはほったらかしだったからさ」
俺の父、ヤマカガシと博士は折り合いが悪かったようだ。
「なら、あいつは……ソルティライトも生きてるんだよな?」
俺は意気揚々と尋ねる。
すると博士はすぐには答えずに車椅子でスーッと移動する。
「塩漬け睡眠は本来ソルト人単独で行う最終手段だ。子供とはいえ地球人ひとりを養うのには限界があった」
「前置きはいい。端的に言ってくれ。ソルティライトはどうなったんだ?」
博士は理科室後方の大型水槽の前で止まった。
そして言う。
「水槽の中に溶けだしたよ。彼女のすべて」
「なんだって?」
俺はベッドを降りてペタペタと裸足のまま大型水槽に近付く。自分の顔の写りこむ水槽に右手を当てた。
ひんやりと冷たかった。
「この水槽のなかの水が……あいつだってのか?」
俺はとてもじゃないが信じられなかった。
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