五本脚の蛸

木園 碧雄

五本脚の蛸

 奥羽山脈。


 本州最北端である青森県の北部沿岸から那須岳までを南北に連なる日本最長の山脈であり、また奥羽と出羽とを東西に二分する事実上の境界線でもある。


 その距離は百里を悠に超える。


 その奥羽山脈の中腹に存在するという御首村おくびむらを訪ね、明治政府内務省の役人である篠塚重保しのづかしげやすが旅出したのが、明治もようやく十年目を迎えた時分であった。


 御首村は明治維新に伴い変更された様々な政務と登記の内容を記した通達、および彼の村から提出された戸籍に関しての返信を送付したのであるが、その全てが所在地不明による不配で内務省に戻ってくる。


 自ら好んで出立した道楽の旅路であれば、春を得て次々と芽吹き花咲かす山奥の景色は、何ものにも代えがたい絶景に映るのであろうが、騒がしかった情勢が近年ようやく落ち着きを取り戻しつつある新政府が見落としていた確認業務の尻拭いで彼の地を訪れる破目になった篠塚職員としては、その光景すら鬱々とした苦難への道標にしか映らなかった。


 前任者からの引継ぎを経て棚の書類整理を始めた際、偶々机の隙間に引っ掛かっていた封筒の中身をあらため、上司に報告したのがまずかった。


 後に内務大臣と称される内務卿、大久保利通から目を掛けられていると噂されている上司の秋月友行あきづきともゆき――旧名は友之進とものしん――は、それならば直接伝えに行けばよかろうと、他人事のように出張を命じたが、命じられた重保の方は堪ったものではない。


 奥羽と言えば、賊軍として官軍に抵抗した連中の本拠地であった土地なのだ。

 天皇の御威光により鎮圧には成功したが、未だ凶悪極まりない賊軍の生き残りが燻っていたとしてもおかしくはない。


 そのようなところへ新政府の役人が単独で赴こうものなら、どのような危害を与えられるか、わかったようなものではない。現に地方では士族や農民による暴動が頻発しており、犠牲となった役人の名前が次々と耳に飛び込んできたのが、昨年までの話である。それでも往来での暗殺や刃傷沙汰は減っているのであるが、重保自身が新たな犠牲者の名簿欄に名を連ねることになるかもしれぬと考えただけで、瘧おこりにかかったかのように身が震える。


 幸か不幸か独身であり、郷里の親には手紙で近況を伝えるだけで済ませた重保は、線路の敷かれぬ奥州街道を、馬車が進めるところまでは馬車で行った。後年、彼を見送った知人の証言では、鍋物屋の炊事場に迷い込んだ鶏のような顔をしていたという。


 しかし、重保の不安は杞憂に終わった。


 当時官軍に反抗した賊徒の大半は去勢牛の如く大人しいものであり、血気盛んな連中はその活力を北海道の開拓に費やさんと北進したらしい。また通過したF県とS県は前年に行われた近隣の県との併合問題で忙殺されており、むしろ県庁に顔を出した際には、中央より派遣された先鋭的な知識人として指導を求められることさえあった。


 尤もっとも、篠塚重保がインテリゲンチャとして歓迎されたのはここまでで、御首村が在ると言われている奥羽山脈に近づけば近づくほど、重保の不安は否が応にも増す一方であったことは変わらない。


 文明開化の影響が日本全国に浸透するのはまだ先の話だと、重保が痛感するほどに、地方は封権制度から抜け出せずにいた。


 ホテルはもとより、宿場などというものが存在しない村での宿泊は、運が良ければ板間、悪ければ土間に筵むしろを敷いたのみであり、食事も初めは持ち込んだ米を調理してもらっていたのだが、その米も尽きてからは銭と威厳でどうにか飯を出させるのが精一杯であり、酷い時には半ば脅すような形で食事を提供させたことさえある。


 同じ県内でも、これが県庁付近の郊外であれば、探し出すのにもさして苦労はしなかったのであろうが、生憎と御首村は山脈の奥地に在る。報告書に記されていた所在地と適当極まりない地図の組み合わせはまるで役に立たず、その怒りのぶつけどころも見当たらず、未だ目的の地を見つけ出せぬまま、重保は奥羽の山中と麓の村とを往復する日々を送っている。


 政府から派遣された要人としての箔を付けようと燕尾服に革靴、シルクハットに黒鞄という洗練された洋服で出立した重保であるが、時代の流れも感じ取れぬような田舎の人間は彼を珍しがるだけであり、その容貌や威厳を畏れたりかしこまったりすることはない。名聞を有難がるのは、似たような立場の役人だけである。


 県庁を出るまでは胸中で彼らを見下し、馬鹿にしていた重保であったが、山奥に足を踏み入れてから早々に、馬鹿な愚か者は自分の方であると理解した。


 正装で山に入る馬鹿は、そうそういない。


 道路の整備などというものは、あくまでも平地を対象にしたものであり、切り拓かれてもいない山道にまともなものを期待する方がどうかしている。


 人間がそれなりに歩くことが出来る山道でさえ、目も眩むような長い年月の間に山を出入りする人々の間で作られた利便に過ぎないものであり、重保のように勘違いしたまま山に入ろうとする愚か者の為に作られたものではないのである。


 燕尾服とスラックスは忽ち土埃に塗まみれ、冬を越した落ち葉と枯れ枝の破片が靴下と革靴の隙間に入り込み、散切り頭を整えるために付けた練香油ポマードのせいで、髪には羽虫がびっしり貼り付くという有り様。

 枝にぶつかっては頭からずり落ちていたシルクハットは、宿泊先にて粗末な洗い桶として借り出されている。


 初日で己の高慢と愚かしさを思い知った重保は、翌日からは村人から買い取った蓑を身に纏うようになったが、下山してから燕尾服やスラックスにこびり付いた藁屑を払い落すという作業に苦労しなければならなくなった。


 追い討ちをかけるようにしばしば振り出す春時雨に足止めを食らう日もあり、新しい時代の為と奮起する重保の不屈の精神も先細りする一方である。


 ようやく顔を出した太陽の下、「滑り易いから気を付けなされ」という村人の忠告を背に受けながら、その日も重保は山に入った。


 露玉を受け瑞々しさを増す草花に足を取られ、チロチロと伝い流れる雨筋を横目にしつつ、決してなだらかではない山道を無言で登り続ける重保。頭上ではタムシバの白い花弁が、足元ではカタクリの紫弁が重保の悪戦苦闘を面白がるように咲き乱れているが、当の本人にはそちらに目を向ける余裕など微塵も存在しない。


 江戸――もとい東京には、まだ目を通してすらいない書類が山積みにされているのだ。早々に御首村に辿り着いて通達を済ませないことには、遅延に次ぐ遅延で上司に自分の能力を疑われてしまう。


「山間で人家を求めるならば、炊煙を探すのが手っ取り早い。人間、生きている以上は必ず飯を喰い、その為には火を熾さねばならぬのだからな」


 村探しなどという珍しい任務を仰せつかり困惑する重保に、訳知り顔でアドバイスしてくれた先輩もいたが、今のところ炊煙どころか湯気のひと筋すら見当たらない。


 ある程度登ったところで立ち止まり、振り返る重保。


 出発点である村里は遥か遠方に隠れ、もはや視界には入らない。


 再び歩き出そうとした重保の耳に入ってきた、小さなせせらぎ


 登り坂に向かっていた足を止め、音のする方へと向かう。


 恐らくは昨日の雨を含んでいるのであろう幅六尺ほどの小川が、木々の間を縫うように滾々と流れていた。


 清流と呼ぶのは大袈裟だが、山登りで疲弊した両足を癒すには十分であろう冷気を湛えた透明感のある水流が、重保の身体を自然に其方へと向かわせる。


 外した蓑を敷布代わりにして腰を下ろした重保は、藁沓わらぐつと靴下ですっかり蒸れてしまった両足を小川に突っ込んだ。


 川の流れを心地よく感じ、竹筒の水筒から水分を補給してから、さて出発しようかと足を引き上げ立ち上がろうとした重保の視線が、それとぶつかった。


 大人の握り拳より、ひと回り大きいくらいの蝦蟇。


 赤土に紛れていれば見つけ出すことすら不可能だったのであろうが、その右前足が重保の蓑から零れ落ちた藁屑に乗っかっていたことで、逆に目立ちやすくなっていた。


 勿論、東京にも蝦蟇はいる。


 しかし、幕末から維新にかけての慌ただしさの中を駆け足で生き抜いてきた篠塚重保の目には、深沈しんちん此方こちらを凝視する蝦蟇の姿に、何やら懐かしさすら込み上げてくるのだった。


 突如、その蝦蟇の尻から巨大な尻尾が生えた。


 わっ、と重保は悲鳴を上げた。


 尻尾のように見えたのは、赤斑のくびを持つヤマカガシという蛇だったからである。


 咬みつかれながらも、捕食者から逃れんと必死に手足をばたつかせる蝦蟇と、そうはさせぬと上下の顎を動かしながら少しずつ餌食を呑み込まんとするヤマカガシ。


 その戦いを、固唾を飲んで見守っていた重保の耳に、聞こえることはないであろうと思い込んでいた音が聞こえてきた。


「何しとる、さっさとこっちゃ来い」


 人の声。


 はっと我に返った重保が、荷物を抱え込みつつ振り返ってみたものの、そこに人の姿は見当たらない。


 それでもまさかと思いながら立ち上がり、畜生同士の息詰まる戦いの場から逃れるように移動した重保の前に、ぬぅと姿を現した影ひとつ。


「危ねがったな」


 そまか、猟師か。


 重保のものとそう変わらぬ蓑を纏い、頭は手拭いで頬被り。


 腰に山刀、手挟み竹籠を抱えるその姿は、杣や猟師とは違うようにも見て取れる。


 山賊ではないか、という懸念は早々に捨てた。山賊であれば、わざわざ重保に声を掛けて誘導した理由がわからない。


「ヤマカガシは、あれ、毒ば持ってっかんな。下手に動いて刺激するより、ああやって蝦蟇さ喰ってる間に殺すか逃げるかするのが一番だべ」


「何を言っておるのだ。ヤマカガシは蝮と違って、牙に毒など持っていないぞ。そんなことも知らんのか」


「何言ってんだ、おめぇ」


 相手の無知を笑う重保に、しかし男もまた重保を見下すかのように笑い返す。


「蝮は口の前に牙持ってんけんど、ヤマカガシは奥歯に毒持ってんかんな。んだで、深く咬まれねぇと毒は入らん。まあ毒が入ったらイチコロだけんどな」


 まさか、と笑い飛ばしたくなるところを堪えた重保は、笑顔だけを男に返す。


 地方の迷信に縛られているのであろうが、このような奥地で奇跡的に出会えた人間だ。その正体が妖怪でもない限り、無下には出来ない。


「おめぇ、名前は?」


「えっ」


「命の恩人に礼も言わねぇ、名乗りもしねぇ。おまけにおかしな格好してからに。まさか天狗じゃあんめぇな」


 さすがに天狗までは考えが及ばなかったと、妙なところで感心しながら、重保はあらためて仁王立ちした。


「天狗ではない。篠塚重保という。明治政府は内務省の者だ」


「何無性?」


「役人だ」


「そうか、役人か。おらぁ健吉けんきちってんだ」


 気さくに笑いながら男――健吉は手拭いを外し、顔と首回りの汗を拭う。晴天ならば陽光を反射しかねない、見事な禿頭の持ち主である。


「坊主にしては、おかしな格好をしているな」


 問われた健吉は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに己の頭をぴしゃりと叩いて破顔した。


「違う、違う。こいつぁ生まれつきだ」


 その禿頭に浮かんだ汗も拭きとる健吉。重保よりは年下であろうが、山に暮らす者らしい隆々とした筋肉の持ち主であり、凛々しさの中に田舎者らしい幼さと純朴さを残した精悍な顔に流れる汗は、それまでの運動が激しいものであったことを如実に物語っている。


「変な格好は、お互い様だぁ。あんたの格好だって、とても山に入るもんとは思えねぇべ」


 何を、と言い返そうとした重保だが、己の格好を思い出して口を噤んだ。


 燕尾服とスラックスの上に蓑と藁沓、頭には藺草いぐさの編笠である。


 どちらがおかしいかと人に尋ねれば、指さされるのは重保であろう。


「健吉さん、あんたはここで何をしていたんだね?」


たでと、ついでに茸採りだべ」


「茸が採れるのか?」


「採れるに決まってっぺぇ。ほれ」


 健吉が、中身を見ろと言わんばかりに手挟み竹籠を重保の眼前に押しつけてくる。


 籠の中には細長い草と、煎餅のように硬そうな茸ばかり。


「これは喰えるのかね?」


 重保の質問には答えず、健吉はまた竹籠を小脇に抱える。


「ほんで、役人の重保さんはなんでここにおるんかね?」


「私は、この奥羽山脈にあるという御首村に用があって来たのだよ……君は御首村を知っているかね?」


 うぅん、と健吉は禿頭を揺らした。


「確か、おらがトコがそう呼ばれているって、ととに聞いたなぁ」


「本当かい!」


 山奥で初めて出会った人間ということもあり、一縷の望みを賭けて尋ねたことが大当たりした喜びも相まって嬌声にも似た歓声を上げる重保に、またしても怪訝な顔つきになる健吉。


「なんだ、おめぇは。おらの村になんの用があるんだ。役人なんてのは嘘っぱちで、本当は何か売りつけに来たのか。それとも人買いか」


「そうじゃない。そうじゃないんだ。私は政府の役人として、村長の上尾一斎かみおいっさいという人に伝えなければならぬ要件があって、こうしてわざわざ東京から馳せ参じたのだよ」


「なんじゃ、おらの父に用があんのか」


「あんた、村長の息子だったのか。それならちゃんと氏も名乗りなさい。一昨年の太政官布告で、氏の使用も義務化されたんだから。さ、早く御首村に案内してくれ。今日中に到着したら飴をあげよう」


「偉そうだな、おめぇ」


 汗を拭き終えた健吉が、呆れたように呟く。


「役人でなけりゃ、今すぐバラシて犬の餌にでもしてやるとこだけんど、まあ面白い格好しとるからええわい。ついてけらしぇ」


 物騒なことを言いながら手拭いを被り直し歩き始める健吉に、取り残されては一大事とばかりに慌てて後を追う重保。


 山育ちと都会人との違いであろう。勾配のきつい山中の隘路を平地の如く悠々と歩き回り、時に立ち止まっては振り返る健吉に較べ、時として転がるように、或いは斜面を這うように醜態を晒しながら必死に追いつこうとする重保。


 迂回するように山を歩き、斜面を登り下りしたうえで、谷底を川に沿いながら歩き続ける山人と役人。


「着いたぞ」


 人がようやく通れるか否かという細道の先に、ぽつぽつと建つ民家からは、夕餉の支度か炊煙が立ち靡いていた。


 なんとはなしにその行く先を見届けていた重保は、成程これでは炊煙が見つからぬ筈だと納得した。


 御首村の頭上では、茸の笠の如き崖が炊煙を受け止め、霧散させていたからである。






「この度は、遥々東京からお越しいただき、ありがとうございます」


 村と称するには疎らな民家。


 本堂があるのかさえ怪しげな菩提寺。


 祀っているのは畜獣の類ではないかと疑いたくなるような、みすぼらしい神社。


 むしろ村としての体裁を保ちながら今まで生き永らえてきたことが不思議に思えるような、御首村。


 その辺境の貧村には不釣り合いに見える建物が、上尾一斎の屋敷であった。


 維新を経ても尚、東京の地に残る武家屋敷に勝るとも劣らぬ洗練された、しかし明治という時代の視点からは旧式に見える座敷に案内された篠塚重保は、当主である上尾一斎により上座に据えられ、歓迎の辞を受ける破目になった。


 政府役人としての威厳を誇示したい重保ではあるが、旧時代的に応対されたのでは話を切り出しにくい。やはりこれからは、無駄に重々しい座布団に脇息きょうそくなどではなく、早々に会談の場を椅子とテーブルに変えるべきなのだ。


 正面で膝をつき深々と座礼する上尾一斎は、小柄な老人であるが、綿雪の如き白髪で未だに髷を結っており、着ているものも山吹の小袖に毛皮の羽織と古臭く、清潔で洗練された屋敷の持ち主とは、とても思えない。


 ただし毛皮については、明治に変わってから東京でも庶民向けの販売店が登場し、高級品として評判が高いので、重保としてはなんとも複雑な気分になる。


「お役人様。此度こたびの御来訪は、いかなるご用件に御座いましょうか?」


 息子とは違い、一斎は訛りの無い流暢な言葉遣いである。


「そんなに畏まる必要はありませんよ、上尾さん。私は政府の役人として貴方にこの書類を届け、少しばかりの通達をしに来ただけですから。私自身は、何処ぞの殿様のような身分ではないのです」


 蓑笠と藁沓は家人らしき女性に預け、燕尾服とスラックスに貼り付いた藁屑を落としてから座敷に案内された重保は、洋風の黒鞄から取り出した黄朽葉の封筒を、そのまま老人に差し出した。


「新政府樹立から今日までの、御首村に関する書類の一切です。こちらの住所が特定できなかったもので、改めて直接手渡しという形式になりました。お納めください」


「これはこれは。ご親切と御配慮、感謝いたします」


 封筒を受け取った一斎が、中身をあらためようとしたのか早速取り出した書類の一枚目を見るなり、不可解と言わんばかりの顔つきに変わった。


「この、併合とは?」


「ああ、それはこの御首村が在るK郡が、昨年S県に復帰しましたよ、という内容のお知らせですな」


「復帰?」


「つまり、これまではK郡として独立していた土地が、元通りS県の一部になったということですよ。それにより住所の規定や管轄が変更されておりますので、しっかり把握していただきたい。まあ、そのへんの仔細も同封されておりますので」


「それは」


 書類から重保の方へと視線を移した一切の表情が、僅かながら険しいものへと変わったように見えたのは、決して重保の思い過ごしではない。


「御上の御命令でございますかな?」


 その眼力に気圧されながらも、自分は政府の役人であると心の中で何度も繰り返した重保は、平静を装いながらも毅然と答える。


「左様」


「もし逆らえば、罰せられるのでございましょうな?」


「無論。これは政府の決定であり、逆らうことは許されませんな。事と次第によっては警察、或いは軍隊を派遣されることになるかと」


「吉報でございます」


 まさかと思いながら反抗を警戒した重保の前で、しかし老人は――

 にいっ、と笑顔を見せた。


「実は、この村に限らず奥羽の山々は陸奥と出羽の境界も同然でございましてな。言ってしまえば、双方の麓の村里を襲い略奪するための足掛かりでもあるわけでございます。古来より、この境界を巡って血生臭い暗闘が繰り広げられ、その度に山の住民が泣いておったのです。それが政府とやら……失礼、政府により所属が決定され、奪い合いを禁じられるということであれば、それは御首村にとって願ってもない幸せになります」


「いや、徳川の時代から藩領として区分されていたのでは?」


「表向きは、でございます。この村のように、所在も不明瞭な土地では、助けを求めたところで藩主も幕府も知らぬ顔の半兵衛を押し通すばかりでしたからな。これからは、その様な心配をせず安眠できるということであれば、万々歳でございます」


「そうでしたか」


 ほっと安堵の息をついた重保は、脇息に肘を乗せた。


「お手数ですが、その書類に記載されている内容に従って、これからはちゃんとした住所を明記してください。ご自分で仰った通り、所在地が不明瞭なままでは書類が届きませんし、村までの道筋を人づてに聞いて探し求めるようでは、軍も警察も派遣できなくなりますからな」


「承りまして御座います。しかし、元々この御首村は麓や山間からは見つけ出しにくい場所に在ると、村の者にすら愚痴を言われる始末。いつの日か、雲に紛れて地上を見下ろす術が見つかれば宜しいですなあ」


「まったくですな。そういう技術が見つかれば、我々もこうして辺境に足を延ばす、などという余計な苦労をしなくて済むようになるでしょうに」


 老爺の笑顔につられて笑いながら、我知らず皮肉を飛ばした重保であったが。


「左様。それに、そのような技術がございましたから、五稜郭も手こずることなく早急に落とせたものでしょうなあ」


 逆に皮肉で返されてしまった。


「それと、書類の中には先日……いや五年前の壬申戸籍に関して確認して、場合によっては訂正してもらいたい点を述べた確認状も同封しております。そちらにも目を通し、疑問があれば遠慮なく質問していただきたいのです」


「それはまた、ご迷惑をお掛けしました。恐らくは、この老僕の衰えた眼力により、誤りを記入してしまったのでございましょう。そちらも含めて只今確認いたしますので、しばらくお待ちを」


 さして恐縮した風にも見えぬ一斎がポンポンと手を打つと、重保の外衣を受け取った女性が座敷の前で三つ指を付いた。角張った顎に太い首、浅黒い地肌に獅子鼻と、女性として好まれる容貌よりも雄々しさの方が目立ってしまう容貌である。


「篠塚様に、お食事を。それと、あれも用意してくれ」


「畏まりました」


 程なくして酒と共に運ばれてきた膳の中には、重保がこれまで一度も目にしたことの無い料理があった。


「これは?」


独活うどふきと人参、わらぴに味を付けて巻いたものに御座います」


「こちらの黄色いのは?」


「南瓜と豆腐を裏ごしして、人参と椎茸と銀杏を入れ蒸したものに御座います」


「豪勢ですな。昔なら殿様ぐらいしか味わえなかったでしょうに」


 お世辞を言いながら箸をつける。


 味は悪くないが、まだ中年に差し掛かったばかりで、しかも洋風の料理や牛鍋といった濃い味付けに慣れてしまった重保の舌には、どうにも淡白で物足りない。


 それでも酒が出たのは、重保にとってありがたいばかりであった。


 酒であれば洋の東西を問わぬほどの酒好きであるが、県庁を出立してからというもの、呑めるのは精々濁酒とぶろくばかりで、良質の酒にありつける機会は微塵も無かった。


 どういうわけか、お銚子から盃に注がれる酒は濁りの無い清酒である。


 久方ぶりの美酒につい杯が進み、それに合わせるかのように重保の舌と態度も次第に柔軟なものへと変化する。


「篠塚様、こちらはどのように訂正すれば宜しいので御座いますかな?」


「重保でいいですよ。どれどれ……ああ、これは家長が二十歳なのに息子が三十八歳になっているでしょう。これは多分、逆なんじゃないかなぁ」


「成程、仰る通りですな。しかし、この程度であればお役所の方で訂正していただいても構わないかと」


「記載者に確認せず勝手に訂正することは、許されないんですよ。これだって、後添えの連れ子という可能性は捨て切れないでしょう?」


「ああ、言われてみれば。そういえば小耳に挟んだのでございますが、お尋ねしても宜しいですかな?」


「なんでしょう?」


「薩摩……今の時代では何県と言うのですかな、そちらで戦が起こったと聞き及んでいるのですが、それは本当で御座いましょうか?」


 重保の身体から、酔いが半分ほど消失した。


 正直に答えなければ、この先の「相談」に話を繋げることは難しい。


「なんでも、あの西郷南洲さいごうなんすめが反旗を翻したとかで」


「そうらしいですな」


 征韓論から勃発した軋轢により、明治政府と袂を分かち下野した西郷南洲こと西郷隆盛が、政府に不満を持つ士族らを率いて東上したのが二月の話である。緒戦こそ薩軍が優勢であったものの、徐々に征討軍が押し返しているという戦報までは聞いている重保であったが、御首村に入るための出張により、そこから先の情報はとんと入ってこない。


 東京に帰ってみれば薩摩政府樹立――などという事態にはならないであろうが、未だ趨勢の見えぬ戦争に、時季外れの肌寒さを覚えぬわけでもない。


「実は、その件に関わることで、ご相談があるのですが」


「ほう?」


 それまで目を通していた書類からこちらに顔を向けた老人の、不思議そうな顔。


 景気づけにと、さらにもう一杯を呷ってから重保は切り出した。


「先の倒幕に至るまでの間に繰り返されてきた徳川家との暗闘、明治政府樹立直後の地方での農民騒擾、戊辰から五稜郭陥落、明治三年の稲田屋騒動に、藩主の東京移住に反対する元家臣らの粛清問題、果ては不満を持つ士族らの反乱と、我々の前途は未だ危険と混沌のさなかにあるわけです」


「ふむ」


 上尾一斎がポンと手を打つと襖がひとりでに開き、先程の女性が己の顔ほどもある甕を五つも運んできた。


「重保様は、お召しになられるようで御座いますな」


 酒のことを言われていると気付き、まあ、と頷く重保。


「ぜひ試して戴きたいものが御座いまして」


「何かな?」


「私が趣味で漬けている薬酒で御座います。まずは、こちらの梅酒を」


 どうやら、辺鄙へんぴな村に唸るほどの清酒がある理由が、それらしい。


 甘い酒は苦手な重保であるが、持て成しの酒を断るというのは気まずいし、それに一斎の作った梅酒にも興味はある。


「では、一杯だけ」


 差し出した盃に注がれた、黄味がかった半透明の液体に口をつける。


「如何でしょう?」


「良いですな。梅酒にしては甘さも控えめで、すっきりしている」


「ありがとうございます。老いの道楽とはいえ少々度を越してしまいまして、味見を勧めるあまり、今では村の者が敬して遠ざけるといった有り様でして」


 梅酒で喉を潤した重保は、また語り始める。


「特に前年は際立って酷い。廃刀令に反対する熊本の神風連こと敬神党が起こした乱では、敵味方合わせて二百名近くの死者が出ており、これには鎮台司令官や県令も含まれております。続いて起こった秋月党の乱では二十余名が命を落とし、山口県の殉国軍との戦いでは戦死者こそ微小であるものの参加者は二百名を超え、遂には我が東京ですら会津藩の元藩士による反乱未遂事件が起こっております」


「重保様、こちらは如何で御座いましょう」


「今度はなんです?」


木天蓼またたびで御座います。疲れが取れますよ」


「猫になったみたいだな」


 そう言いながらも差し出した盃に、琥珀色の液体が注がれる。


 木天蓼酒は、思っていたより苦みが強かった。


 盃を乾しても、重保の弁は止まらない。


「外には蝦夷、いや北海道に琉球、朝鮮や列強諸外国。内には維新を認めず新しい時代の波を受け容れられぬ士族の反乱や要人の暗殺計画。そして西郷の反乱と、立て続けに起こる事件により、現状の我が政府に不足しているものが明らかになったのです」


「ほう、それは何ですかな?」


「間諜」


 本当に不足しているのかどうかまでは、実は重保自身も詳しくは知らない。


 出発前に上司の秋月から、間諜不足と御首村の正体について説明を受けただけであるが、これまでの落ち着かぬ情勢を顧みる限り、少なくとも前者については頷けなくもない。


「聞いた話では、この御首村も嘗ては伊達家や芦名家、南部家に雇われ、優れた忍びの者を輩出したと聞き及んでおります」


「忍び……で、御座いますか」


 梅酒と木天蓼酒を下げるよう言づけていた一斎が、ぼんやりとした声を上げた。


「重保様の仰る通り、確かに昔はこの村で忍びを育てていたという記録と名残は御座いますが、その忍が忍としての用を成していたのは公儀――徳川が、江戸に幕府を設置するまでのお話。それ以降は碌に声も掛けられず見向きもされず、雇い主も現れぬまま、また公儀からの猜疑を向けられぬようにと自粛に自粛を重ねた結果、すっかり廃れてしまいましたわい……もう一杯、如何です?」


「戴こう」


 うっすらと碧がかった三杯目には、見覚えならぬ嗅ぎ覚えのある臭みがあった。


「何かな、これは?」


 呑み干してから問う重保に、老人は新たな甕を用意しながら答える。


「赤松の葉を焼酎に漬けたもので御座います。不眠と血行に良う御座いますよ。続いて、その赤松の下で採れた此方をご賞味くだされ。松茸酒に御座います」


 臭いも味も強い一杯だった。


「殉国軍を相手にした時には虚報の術が、東京での暗殺未遂には間者による調査が事件解決への決定打になっておるのです。日本を列強に対抗でき得るだけの強国へ変える為には、間諜の増員が必要不可欠なのです。今のところ、岐阜や紀伊にも声を掛けているのですが、色よい返事は貰えていないようです」


「それはそうで御座いましょうな。そこで応じるような者であれば、幕府が倒された時点で早々に鞍替えしておるでしょうし、我々のように、応じない者には応じない者なりの理由も御座いましょう」


「しかし」


「そもそも、新しい時代が明るい将来を目指すものであるならば、間諜などというものが必要とされぬような政を行うべきでは御座いませぬかな?」


「政府がそう思っていたとしても、それを良く思わぬ者が日本の内外にはまだまだ沢山いるのです。彼らが暴挙に打って出ぬよう監視し、事及ぶ前に手を打たねばならぬ時もあるのですよ」


 五杯目として注がれた酒は、これまでの四杯に比べて、味も香りも普通の焼酎と変わらないものだった。


「これは何かな?」


「間諜をお求めならば」


 薬酒の中身には触れず、一斎は言葉を続ける。


「女をお使いなされ。賢く身の程を知る女を」


「女に務まるものかなぁ」


「いやいや。男を篭絡して意のままに操る女の魔性、男の時代が続く限りは侮れたものでは御座いませぬぞ」


「そうでしょうか?」


「男の間諜なぞ、今となっては見張り程度でしか役に立たないでしょう。頑張ったところで、精々が足止め用の捨て石にしかならないかと」


 篠塚重保も男である。男は役に立たぬと貶されたのでは、良い気がしない。


「暗殺とて、これからは刀ではなく鉄砲の時代。聞けば、女でも造作なく扱えるほど軽い、しかも片手でも撃てるピストルなる鉄砲が出回っているとか。こうなってしまっては、もはや侍の出番は御座いませんな。重いだけの刀を未だ腰に差している連中も憐れですが、その刀で殺される者はさらに哀れで御座います」


 重保は、素直に頷いて良いものかどうかさえ、わからなくなってきた。


 神風連とは、その重いだけの刀を棄てることに拒絶反応を示した士族の集団である。


「愚見を申し上げれば、そもそも時代が変わるに応じて反乱や暴動が起きるのは詮無きことに御座います。何故ならば、日本を生まれ変わらせようとする動きの中で、その動きに乗じて利権を得ようとする者が、新たな組織の中に必ず存在するからで御座います。それらの悪漢を排除出来ず、暴利を貪る様に対して見知らぬふりを続けようとする限り、これからも騒動は起こり続けるでしょうな」


 それは、これから変わっていくし変えていく。


そう反論しようと意気込んだ重保の耳に、ぱたぱたと何かを叩くような軽い音が飛び込んできた。


「おや、これはいけませんな」


「何事ですか?」


「降り出してきたようで御座います」


「雨?」


 新たに注がれた薬酒のお代わりを呑み乾してから問い質す重保に、頷く一斎。


「左様で。この時期の雨は降り続くことが多うございます」


 重保も、それは麓の村で体験している。


「ぬかるむ山道を夜間に歩き回るのは、山道に慣れた我々でも命にかかわります。今夜、いえ明日も外出はお控えなさった方が宜しゅう御座います」


 一斎の言葉通り、ぬかるむ山道は昼夜を問わず危険なのだということも、重保はここまでの道程で、嫌になるほど体験している。それに、滞在中も説得を続けていれば、或いは間諜の募集に関して変化が見られるかもしれない。


 そうですな、と答えようとした重保だが、舌が回らない。


 返事代わりに頷こうとしたところで老人の顔が歪み、座敷が転回する。


 これは、政府の役人として出席したパーディーの席上で、彼の酒好きを聞きつけた上司や先輩にしこたま呑まされた時と同じ感覚である。


 視界が暗転し気を失う寸前、一斎の慌てた声が重保の耳に届いた。


「しもうた、蛹茸さなぎたけ酒の呑ませ過ぎは拙まずかったかのう」






「篠塚の重保さんよ」


 木綿の敷布に綿入りの夜着。


 山奥なので、麓の村と同じように筵で雑魚寝を覚悟していた重保にとっては嬉しい誤算であったが、本来ならば髷を崩さぬようにと首に当てて使う箱枕は、散切り頭にはどうにも馴染まず、しかし受け止めるものが無い頭部の違和感に幾度目かの寝返りを打った直後に、その声は聞こえた。


 薬酒の効能か、深酒で倒れたにもかかわらず頭の方はすっきりしており、連日山中を歩き回ったというのに、身体に圧し掛かっていたはずの疲労もすっかり抜けている。


「誰だ」


 跳ね起き誰何すいかしながら、枕元の黒鞄に手を突っ込む。


 酔い潰れて寝室に運ばれた際に、この鞄も運んでもらえたのは有難い限りである。この中には財布や身分証明証、上尾一斎から預かったばかりの訂正済み書類、隠しポケットには護身用の拳銃まで入っているのだ。


「おらじゃ、健吉じゃ。声に聞き覚えがあろう」


「健吉君?」


 確かに、聞き覚えはある。


 もっとも、麓の村を出立してから言葉を交わしたのが健吉と一斎の二人だけであり、少なくとも声の主が後者ではないという程度の消去法による判断でしかない。


「おうよ。おめぇの言ってたこの禿げ頭が、何よりの証拠だべ」


 証拠も何も、壁と襖に遮られ夜光すら差し込まぬ客間では、確かめようがない。


「ちょっと待っておれ。今、灯りを点ける」


 言いながら黒鞄から手を抜き、確かこの辺にあった筈と見当を付けながら、暗がりの中手探りで行灯を求める重保。


「そっちじゃねぇ。もっと右、右……ああ、おらが渡せばええのか」


 声の直後に、重保の前でどすんという音がした。


「なんじゃ、これ。火打ちが切れとる。客ば泊めっこたぁ滅多にねぇもんだから、こういう時さ抜けちまうんだなぁ」


 そうか、と答えながら、重保は再び黒鞄に両手を突っ込んだ。


「ちょっと待っててけろ。火打ちば持ってくっかんな」


「いや、それには及ばん」


 救難に備えてと、餞別代りに上司から渡された箱マッチ。


 一本取り出し、手にした行灯の火受け皿の底に擦りつけて着火する。


「おお」


 灯油を吸い上げた灯心に点火すると、薄紙に覆われた行灯から放たれる仄かな輝きが、客間と片膝つく健吉の姿を照らし出した。


「重保さん、こいつはなんじゃ?」


「マッチという。外国では五十年くらい前から作られているものだが、日本で作られるようになったのは一昨年くらいからだそうな。見ての通り、その辺の硬いものに擦りつけるだけで簡単に火が点く。火打石とは段違いの手軽さだな」


 それだけに、容易に火事を起こしかねないという懸念もあるにはあるが、小さな文明の利器に目を輝かせる健吉相手にそこまで語るのは野暮に思われた。


「それで、こんな夜更けに何か用かね。私は君の父上にしこたま呑まされて辛いんだ。現に、今も頭痛がする」


「父の酒盛りの相手、御足労に御座います」


 急に正座し恭しく座礼した健吉は、しかし顔を上げてから、にかっと破顔した。


「けんど、頭痛は法螺じゃな。父の酒には細工がしてあって、いくら呑んでも後にゃ残らん。ただ、あれもこれもと立て続けにきつい酒ば呑まされるもんだから、村のもんは嫌がっとるだけじゃ」


 痛いところを突かれ狼狽する重保であったが、指摘した健吉の興味は、人間ではなく小さなマッチ箱に注がれていた。


「こんなもんがあれば煮炊きも風呂も簡単に火点けられるようになるし、夜が更けてもこうして行灯や提灯に火ぃ入れんのが楽になんだろうなぁ」


「東京では、行灯を使っている奴などおらんよ。今はランプの時代だ。こんな行灯の光など比べものにならない。部屋どころか外だって昼間のように明るくするぞ」


「石灯籠みてぇなもんか」


「灯籠だって、銀座じゃガス燈に代わっている。ガラスの中でガスに火を点けて燃やすのだが、その明るさは石灯籠の比ではない」


「ガスってなんだ?」


「気体だ、空気みたいなものだ」


「空気が燃えるのか」


 ガス燈の明るさについては説明できるが、燃焼の原理について説明したところで、無学なこの若者に理解出来るとは到底思えない。


「光源だけじゃない。移動手段だって進んでいる。鉄道を知っているかね」


「なんだ、そいつぁ」


「蒸気の力で線路を走る、巨大な鉄の車だ。東京から横浜まで百人以上を乗せて走るのだ。駕籠どころか馬より速いぞ。それに食事も変わった。いや、米と魚と野菜は相変わらずだが、東京の人間は牛肉、つまり牛の肉を好んで食べるようになった」


「牛なんて喰うのか。うめぇのか?」


「猪肉は不味いかね?」


「うめぇ」


「そういうことだ」


 率直に答えるより、相手に質問を返して適当に合わせた方が楽である場合もあることを、重保は職務経験から学んでいた。


 ほう、ほうと何度も頷いていた健吉の、目の輝きが強さを増す。


「おんな、女はどうだ?」


「どうだ、と言われてもなぁ。肩掛けや傘といった小道具や化粧なんかは変わったが、中身は幕末とそう変わっておらんぞ」


「良い女がいるのか」


「そりゃあ、いるだろう。この村にだっているんだろう?」


「いるにはいるが、村のしきたりで、生まれた時から誰の嫁になるかは決められとる。けんど、おらには嫁がいねぇ。父は、三番目の兄貴が嫁ば貰うまで我慢せぇって言っとるけど、その兄貴の嫁すらめっかんねぇんだもん。どうなるかなんてわかったようなもんじゃねぇ」


「三番目?」


「んだ。おらにゃ兄貴が三人おってな。だども、おらのかかは東京からの後添えで、おらがガキの頃には、よう江戸の話ばしてくれたもんだべ。なんでも幕末の動乱っちゅうやつで皆散り散りになって、こっちゃ逃げてきたとこで父に拾われたんだと」


「そうだったのかい」


 しかし、元服直後に嫁を娶ってから明治政府の役人となった篠塚重保には、地方の嫁不足や人不足というものは字面の上での問題でしかなく、どうにも共感しづらい。


「んだから、いっぺん東京さ行ってみてぇとは思っているんだけどな。父がどうしても許しちゃくんねぇ」


「一斎殿が」


「おめぇみてぇな世間知らずのガキが行くとこじゃねぇ。田舎もんの馬鹿っぷりさ曝け出して、周りに迷惑かけて恥かくだけだから許さねぇって」


 そう言ってから口を尖らせ、不満を露わにする健吉。


 ひょっとしたら、見た目よりもずっと若いのかもしれない。


「東京、行ってみたいかね」


「もちろんだべ。それに、おらならおめぇの言ってた間諜とやらもこなしてみせるべ」


「聞こえていたのかい」


「そりゃ聞こえるべ。おらだってあの座敷におったんだから」


「嘘だな。座敷に居たのは私と一斎さんの二人だけだった」


「隠れておったんじゃ。あの座敷の地袋はな、底が抜けておる。そこに人を隠して、何かあればすぐ飛び出せるようになっておるんだべ」


「えっ」


「おらは父さ言われて、ずっと地袋の中さ隠れておったんだべ。他所もんさ連れてきて、父に万一があっちゃならねぇかんな」


 座敷の床の間には、確かに地袋があった。

 尤も地袋などというものは床の間にはつきもので、さして気に掛けるようなものではない。


「この村が、昔は忍ば育てていたって言ってたべ。その頃の名残で、ここにゃそういう絡繰りがわんさかあるし、おらも隠れたり走ったりするのは得手だかんな。忍の真似事ぐれぇはできんべ」


「しかし、一斎さんは」


「父が、なんであんなこと言ったのか、おらにゃよぐわがんねぇけど、おらが知っとる限りは嘘っぱちだっちゃ。おらは父や兄さんたちから色々教わっとるもん」


「そうか」


 新時代の動乱に巻き込まれたくはない、という意思表示なのか。


 それならそれで、政府に対する数々の皮肉にも納得できる。


 その一斎を説き伏せるのに、この裏表がない純朴な若者は使えるかも使えるかもしれないと、重保は考えた。


「健吉君。君が望むのであれば、一度限りの東京見物どころか政府の間諜として東京で暮らしてもらうことも、あり得ない話ではない」


「本当けぇ!」


「ああ、私が保証しよう」


 とは言ったものの、健吉が東京に定住できるか否かまでは、重保が決めるわけではない。それでもとにかく、健吉を東京に向かわせることが先決なのだ。


 健吉の瞳が、行灯に照らされた彼の禿頭以上の輝きを見せる。


「しかし、一斎さんが君の東京行きを許してくれるだろうか」


「無理じゃねぇかなあ」


「無断で、こっそり村から抜け出すというわけにはいかないのかな?」


「多分、おらが村ば連中に知られたら、すぐに兄貴たちが追ってくんだろうな。一日で麓ぐれぇまで逃げ出さねぇことには、追いつかれて村さ無理やりにでも連れ戻されちまう」


「兄さんたちを説得して、味方につけるというのはどうだろう?」


「兄貴たちゃ、おらとは腹違いだかんな。おらの母から江戸の話ば聞いてもいなけりゃ、東京ば褒めたこともねぇ。それに、兄貴たちが父とおらと、どっちの味方ばするかっつったら、やっぱ父だべな」


「つまり、君が東京に行く夢は一生叶わないというわけだな」


 やけ気味に吐き捨てた重保に、顔の下半分に手を当てながら床板を凝視するような姿勢で思案を続けていた健吉は、不意にがばりと顔を上げた。


「まともに父を頷かせるのは無理だ。そうかといって、力づくもあり得ねぇ。父はあれで、村のもん同士の揉めごとば押さえつける程度にゃ腕っぷしも強えし、鉄砲で脅されても強情ば張る頑固もんだ……だから、こいつば使う」


「こいつ、とは?」


「これじゃ」


 健吉は、己の帯に手挟んだ小袋に手を入れ、何か小さなものを掴んだまま引き抜いた拳骨を重保の眼前に突き出した。


 ぱっと広げた掌の上には、歪な形をした干し豆のようなものが五つ。


「こいつば粉にして飲ませりゃ、暫くの間は酔っ払ったみてぇになって、まともにものさ考えられなくなんべ。これで父の頭ば鈍らせてから説き伏せて、うんと言わせてやんべ」


「薬かい?」


「んだ。半日ぐれぇで効き目は無くなるし、手足もまともに動かせるけんども、その間に言われたことにゃ死ぬまで逆らえねぇ。だからこいつで父の頭が鈍ってる間にハイと言わせりゃ、おらたちの勝ちみてぇなもんだ」


「そ……その薬は」


 乾いた喉に生唾を送り込んでから、重保は言葉を続けた。


「どんな命令にも従うのかい」


「使ったことは一度きりだけんどな。夜通しの雷さんが怖くて眠れなくなっちまった奴さ寝かしつけるために飲ませたら、寝ろと言っただけでイチコロだったべ」


「君が作ったのか」


「父の作り置きからもらったもんだ。父は村の長だで、昔から伝えられとるって薬の作り方ば山ほど知っとる。ほれ、おめぇさ助けた時にいたヤマカガシな。父ならあれの毒に効く薬も作れんぞ。毒が回る前に飲まねぇとお陀仏だけんどよ」


「その、例えば、不老長寿の薬なんかはどうかな?」


「どうだべな。作れるようなら作ってるような気もすんなぁ。父、長生きしとるけど、元気なもんじゃし」


「回春薬はどうだろう?」


「カイシュンって、なんだべ?」


 どうやら、この若者はまだ性の苦楽に関する経験が薄いらしい。


「では、子供が授かり易くなる薬を知らないかな?」


「ガキは天からの授かりもんだべ。でもな、言われてみっと、この村にゃガキのおらん家は無がったかもな」


「傷の痛みが感じられなくなるような薬は?」


「それは、あるな。吉蔵さんとこの二人目が崖から落ちて、怪我ば治そうとしても暴れて薬が付けらんねがった時に、飲ませていたな。飲んだら急におとなしくなったもんで、傷口に薬塗り込むのも楽だったとか」


 歓声を上げたくなる衝動を、どうにか堪える重保。


 書類の手渡しと通達は元より、間諜の募集すらも、実は重保が御首村を訪問した真の目的では無かった。


 日本の為、国民の為、さらに言うならば天皇家の血脈を絶やさぬ為、秘かに内務卿から直々に命じられていたのが、藤原氏が奥州を治めていた頃から存在が噂されていた、それらの秘薬の探索である。


 そうでなければ、東京の人間がわざわざ奥羽山脈の奥地まで足を運ぶことなどあり得ないし、書類の問題など地元の県庁にでも押しつけて済ませていたであろう。


 非公式に調査し、いずれ世間は元より列強諸国にも知られるであろうこの村から早急に数々の秘薬とその製法を入手する事こそが、重保に課せられた真の任務なのであった。


 ただし最初の痺れ薬だけは、西洋医学で頻繁に行われている外科手術の手助けと発展に繋がりはしまいかと以前から考えていた、重保の独断による追加である。


「健吉君は、何か作れる薬があるのかい?」


 重保に問われた健吉は、禿頭を左右に振った。


「いんや、おらは頭が悪いで、父が作ったもんば持たされとるだけだべ。父なら全部、兄貴たちと兄貴たちの母も、そこそこ知ってんじゃねぇかな。皆、父から本草書っちゅうもんば貰っとるからな。二番目の兄貴に聞かされたことがあんけど、そいつにゃ昔から伝えられてきた薬の作り方と、使い方が載っとるんだとよ」


「本当かい」


「さあな。おらも、そう聞かされただけだかんな」


 如何にして、上尾一斎から薬の製法を聞き出すべきか。


 その策について思案していた重保の鬱屈が、健吉からの情報でたちまち解消した。それならば、わざわざ聞き出して紙にしたためる手間も必要も無い。薬の力を借りて、その本草書とやらをこちらに渡すよう命令すれば良いだけの話である。


「それで君は、その薬をどうやって一斎さんに飲ませるつもりだね?」


 酒か。


 しかし、他人を操るような薬を作り息子に軽々しく持たせるような人間が、果たして薬を盛られるような事態を想定しないものだろうか。


「んだな。父は、自分の飯は自分で作るような人だべ。飯や酒に薬ば盛る隙なんて、まんず見っけらんねぇべな」


「それでは」


「んだから、村の井戸さ盛る」


 発想の弾丸が、重保の脳髄を貫いた。


「待ってくれ。それは、村の人全員に薬を飲ませるということにならないか?」


「なぁに、効き目があんのは半日だけで、なんも言われんかったらぼけっとしとるだけの薬だべ。村のもんが一斉に惚けていたところで、どうってことなかんべよ。それに、父から許しば貰ったら、おらたちゃすぐにでも村から離れにゃならん。おらが村から出るのを止める奴が、村におらんとも限らねぇからな」


「今日みたいに、茸採りに出かけるのだと言い張ればいい」


「おめぇと一緒にか。おめぇ一人で山さ下りれんのか?」


「あ」


 確かに、それは健吉の方が正しい。健吉に出会ってからこの村に入るまでの道程は、言わば彼の先導に従ってのこのこと歩き続けていただけのようなものである。


「そ、それに君と私の分はどうなる?」


「何が?」


「村に居るということは、井戸の水を飲むということだぞ。君と私まで惚けてしまったのでは、説得も下山も出来なくなってしまうじゃないか」


「なんだ、そんなことか。薬を入れる前に、水を汲んでおけばええ」


「ここは君の家だから、君は水を溜めておく手段に事欠かないだろうが、私は一体どうすれば良いのかね。勝手にこの屋敷の陶器を借りて使ったのでは不審がられる」


「おめぇ、竹の水筒ば持ってたべ。あれ貸せ。今から汲んできてやっから。おらの分汲んで薬入れるのは、その後だ」


 言われるがままに差し出した水筒を受け取った健吉は、にんまりと笑った。


「おら、ようやく東京さ行けんだなあ。ガキの頃からの夢だったっぺ」


「上手くいけば、だがな」


「わかっとる、わかっとる。ほんじゃすぐに戻ってくっけど、夜が明けたら水筒の水以外は飲むんじゃねぇぞ」


「一斎さんの薬酒は?」


「それは、呑んでもええ」


 立ち上がり、音も立てずに襖を開いた健吉の姿が見えなくなってから、重保は改めて「大変なことになった」と、口中で何度も同じ言葉を繰り返し呟いた。






 翌日は、朝からしとしとと地雨じうが降り続く一日となった。


「やはり、本日のご帰還もお控えになった方が宜しゅうございますな」


「なに、渡すべきものは渡して、受け取るべきものを受け取った身です。一日二日の遅延ならば気にしませんよ」


 朝餉を済ませてから座敷に顔を出した重保は、こちらの顔色を窺うような一斎の言葉に、さして気に掛けていないという様相で答えた。


 雨が降り続けたことは、重保にとっては寧ろ僥倖である。


 今日一日は上尾一斎に貼り付き、昨夜のうちに健吉が井戸に投げ込んだ薬の効き目が表れるまで待たなければならない。


 効き目が出てしまえば、あとは此方こちらのものである。思考の鈍った一斎に、秘薬の精製法が記された本草書を差し出させ、ついでに健吉の東京行きを認めさせてから、止める者もいないであろうこの古びた村から出てしまえばよいのだ。


「そういえば本日は吸い物をお召しになられなかったようですが、どこかお身体の調子に悪いところでも?」


「ああ、いや、吸い物に山椒の実が入っていたでしょう。私はあれが苦手でして……お心遣いはありがたいが、そのまま下げてもらったのです」


「左様でございましたか」


 座敷へと赴く前に、水筒の水は飲んでおいた。


 喋り過ぎなければ、喉が渇くことはあるまい。


「しかし、丸一日の足止めは手持ち無沙汰になりますな。何か、此方のお手伝いできることはありませんかな?」


「いやいや。お客様にお手伝いなどさせたのでは、当家の沽券にかかわります。どうか、ごゆるりとお寛ぎくだされ」


「では、何か読めるものをお貸しいただけませぬか。此方でしかお目に掛かれないような珍しい物であれば、一層目が冴えると思うのですが」


 重保の要望に対し、ポンポンと手を打ってから一斎は答えた。


「あいにくと、この様な辺鄙な村に珍書奇書の類などは御座いませぬ。それより、此方など如何で御座いましょう」


 がらりと襖を開け、厳つい女人が入ってきた。


 その両手で持ち上げているのは、四方に厚さがそれぞれ一尺はあろうかという巨大な脚付きの将棋盤である。


「私は自慢できる程の腕では御座いませんが、家中にはこれが三度の飯より好きという者がおりましてな。一つ、下手くそな老人の稽古相手となってくださらんか」


「それは構いませんが、私如きの腕では咬ませ犬にしかなりませんよ?」


 謙遜しながらも、上着を脱いだ重保は盤上で駒を並べ始める。


 将棋ならば、しめたものである。勝敗はともかく、目論見通り一日中一斎に貼り付いて、様子を伺うことが出来るのだ。


「ただ勝ち負けを決めていたのでは、稽古になりません。負けた方は、罰として薬酒を一杯呑み乾すというのは如何で御座いましょう」


「お好きなように」


 これもまた、重保にとっては嬉しい罰則である。負けたとしても、薬酒で喉の渇きを癒すことが出来るのだ。


 まずは、重保が先手となった。


「それにしても、立派な将棋盤ですな。これでは駒を打つのが勿体無いと思えてしまう。これだけの逸品、東京や大阪でもなかなかお目に掛かれませんぞ」


「いや、お恥ずかしい。村の少ない産品の一つに御座います。木を伐る、削る以外に売り物など御座いませんので、このような代物や臼、俎板まないたなどを作る者が増えたので御座います」


「木材を加工しているのなら、これから繁盛するかもしれませんな。西洋では大勢で歓談する際、テーブルと呼ばれる台の上に食事や飲み物を置き、その周りに人が立ち座りする習慣があるそうですが、日本もそのテーブルを作って売る時代になるでしょうから」


「それは良いことを伺いました」


 あまり喜んでいるようには見えぬ風体で、老人は駒を動かす。


 指し手に迷いは見られず、どちらかといえば重保の方が長考に入ることが多かった。


「時に、大橋の本家と分家、伊藤家の近況について、何かご存じありませんかな?」


「えっ?」


「将棋所、家元で御座います。徳川の時代は五十石五人扶持の身分、流石に賊将として処罰を受けた、などという噂を耳にしてはおりませぬが」


「私も聞いたことはありませんね。しかし幕府の後ろ盾を失ったのであれば、今頃は職探しに走り回っているのではないでしょうかね」


「左様でございますか。先ほど申し上げました通り、将棋盤は我が村の数少ない産品で御座います。また村の中にも将棋好きは多く、それが廃れてしまうのは悲しいことに御座います」


「なぁに、将棋は優れた盤上遊戯です。我々が今こうして楽しんでいられる以上、新しい時代が訪れたところで消えることもないでしょうし、また政府の法律により禁じられることも無いでしょう」


 一戦目は重保が勝ち、一斎が薬酒を呑んだ。


 しかしそれ以降は重保が負け続け、立て続けに罰杯を重ねる破目になった。


 一斎の手口は、成り駒を巧みに操る。銀将や桂馬、香車等を三段目まで入れずに守勢のまま重保側の動きを封じ、隙が生じたところで踏み込んで金に成り、圧し潰すように攻め込んでくる。その巧妙な手口に、重保は何度も盤上で仰天させられたのである。


 ほぼ一日中打ち続けながら、薬の効き目が表れるのを今か今かと待ち続けていたのであるが、一斎の思考が鈍る気配は一向に見られず、まだかまだかと窺いながら盃を重ねていくうちに、酔いが回った重保の意識が混濁する。


「篠塚様?」


 二晩続けて酔い潰れた重保が目覚めたのは、客間であった。


 がばり、と跳ね起き襖を開けると、東の空から眩いばかりの朝日が昇っていた。


 三日目である。健吉の姿が見当たらなかったのは、泥酔した重保が起きなかったからであろうか。


 運ばれてきた朝餉あさげを済ませ、本日の吸い物に口をつけなかった言い訳はどうしようかと考えながら、重保は座敷に向かった。


 座敷には昨日と変わらず一斎が座っていたが、今日は将棋盤の代わりに、麻布を覆い被せた直径二尺半程の大盥おおだらいが置かれていた。


「篠塚様」


「上尾さん、お早うございます。一昨日に昨日と醜態を晒し続けてしまい、面目ない」


 愛想笑いと共に非礼を詫びる重保であったが、それに対する老人の表情は強張ったままである。


「雨も上がったようですし、昼までには土も乾いていることでしょう。先日の件も色よいご返事はいただけそうにないので、今日のところはこれで失礼させていただこうかと」


「左様で御座いますか」


 答えた一斎の顔に、昨日までのような柔和な笑みは無い。


「最後に、やはり間諜の件……お考え直し戴くわけには」


「参りませんな。それどころか、これからはお役所の戸籍や地図から、この御首村の存在は抹消して戴きたい」


「えっ」


 突然の申し出に、重保は息を呑んだ。


「いや、そういうわけにはいきませんよ。政府、いや国として、日本に実存する村の所在を抹消するわけには参りません。それでは、この村を消失させるようなものです」


「それ故に、お願いしておるのです。何しろ、この御首村は本日をもって文字通り、この世から消失いたしますのでな」


「はあ」


 勿論、俄かには受け入れられるようなものではない。


「それは、村から誰も居なくなるということですか?」


 飢饉等の原因で村人全員が離散し、村が壊滅するという事態は、徳川幕府の時代より前から起こっていたという記録も残っているし、或いはこれからの時代にも起こり得るかもしれない。


 そう考えながら尋ねた重保に、しかし一斎は被りを振った。


「変わりゆく時代に少しでも合わせようとしたのが、そもそもの間違いで御座いました」


「なんのことでしょうか?」


 恍けてから、黒鞄より取り出した竹筒から水分を補給する重保。


 それを見た一斎が、本日初めて笑顔を見せた。


「篠塚様。まだ薬の効き目をご期待なさって御座いますかな?」


 水は既に呑み乾しておりせることこそ無かったものの、そのひと言で、重保の手から水筒そのものが零れ落ちた。


「な、何故それを」


「座敷に忍ばせていたのは、健吉一人だけでは御座いませぬ。いえ、篠原様が当屋敷の門をくぐられた時点で、失礼ながら監視の者が付いておったので御座います……篠原様、マッチとは便利なもので御座いますな」


 見られていた。いや、知られていた。


 重保と健吉の企みは、ふしを抜いた竹さながらに筒抜けだったのである。


「健吉は、井戸に薬を入れようとしたところを取り押さえました。膳の汁物に薬は入っておりませぬ。とんだ徒労で御座いましたな」


「捕まったのですか、健吉君は」


「母親から伝え聞いた都会が魅力的とはいえ、村を出たいばかりに父はおろか村中を相手に一服盛ろうなどとは、とんだ思い上がりの親不孝者に御座います。篠塚様、荘子をご存じですかな?」


「勿論」


「蝉を狙う蟷螂の話は」


「それも」


 荘子こと荘周が弓矢で狙っていたかささぎが、それとは知らず木に止まって蟷螂を狙い、その蟷螂も鵲の存在に気付かぬまま木の幹に止まっていた蝉を狙っていた。そして荘周自身は鵲の止まっていた木、栗の実を狙っているものだと森番に誤解された話である。


「篠塚様。人間、私利私欲に走っている時ほど、己の置かれている状況に気付かぬもので御座います。この調子では、貴方様の上役の中からあと四、五人は死人が出ますな」


 恐ろしいことを、一斎はさらりと言う。


「いや、企み事が知られていたのならば、寧ろ好都合。上尾一斎殿。件の秘薬とその製法、是非とも日本の為に役立ててはいただけませんか」


「お断りいたします」


 老人は、極めて強い拒絶の態度を露わにした。


「薬の製法は、御首村の秘中の秘に御座います。何故ならば、その知識は富み過ぎており、作れぬ薬などほんの一握りに過ぎぬもの。その一握りを作り上げることをば私の、いや一族の悲願としておりましたが、愚かにも我が息子健吉の私欲により貴方様に秘を漏らしたことで、その夢は潰えることになったので御座います」


 文明開化のこの時代では、いずれ知られることではないか。


 それより健吉は無事なのか。


 問い詰めたいところではあるが、何よりも先に聞き出さねばならぬことがある。


「作れぬ薬は、ほんの一握りと仰いましたな」


「はい」


「例えば、河豚の毒消しなどは」


「食した直後に服用すれば、効き目は御座います」


「天然痘」


「治療法は、そちらの方がお詳しゅうございましょう。尤も、似たような原理であれば以前から記されておりましたが、実戦は中々」


「育毛」


「薬があれば、健吉は髷を結っておりましたな」


「では」


 老衰に効く薬は。


 その問いに、一斎は落胆とも失望とも取れるような息を吐いた。


「どうあっても、其処そこに辿り着いてしまいますな」


 何処かで、水の跳ねる音がした。


「篠塚様の御所望は、傷や病を癒す薬などではなく、不老不死。それと、回春薬に懐妊の薬で御座いましょう」


「その通りです」


 もはや隠し通す意味が無い。


まさにそれこそが、政府により託された私の任務なのです。いいですか、上尾さん。不老不死こそは人の見果てぬ夢であり、天皇陛下による永続の日本統治に必要不可欠なものなのです。回春薬や懐妊の薬も同様です。未だ息を潜める徳川の残党、そしてこれから干戈を交えねばならぬ海外の列強に負けぬ為には、まずは皇族の血を絶やさず、その力を確立せねばならぬ。その為に貴方の作る薬の力が必要不可欠であることを、是非とも理解していただきたい」


「篠塚様。貴方は純真なお方だ」


 老人が、再び柔和な笑顔を見せた。


「それだけに、お役人には向いておられぬ」


「どういう意味ですか?」


「健吉に、傷の痛みを感じなくなる薬の有無を尋ねておられたようですが、これに不老不死を掛け合わせると、とんでもない物を生み出すことには気づいておられぬようですな。斬られても死なず、痛みも感じず、ただ命令に従い殺して回るだけの兵隊を作ろうとしている。そんな怪物が戊辰ぼしんで暴れ回っておれば、今頃は明治政府などというものは出来上がってすらいないでしょう」


「兵……隊?」


 今も西日本で薩軍と交戦しているであろう、しかし自分とは何処かで縁遠いものと認識していた軍隊の姿が、重保の脳裏をかすめる。


「左様。天皇の為、皇族の為というのは、篠塚様に命令を下した者の詭弁に過ぎませぬ。懐妊、堕胎の薬も同じようなもの。帝の御威光を笠に着て、己らが命脈を繋ぎ、私利私欲の為に求めようとしているとしか思えませぬ。御首村の、いや上尾一族の長として、その様な輩に授ける知識など持ち合わせておりませぬ」


「そのような意図などありません」


「では、お尋ねいたします。健吉がこの一斎に飲ませようと企み井戸に投げ込もうとした、あの薬。あれを暴動中の村の井戸に放り込めば、どうなりましょう?」


「あっ」


 その手を使えば、確かに鎮圧は楽になる。


「政府は、然したる苦も無く暴動を鎮められましょう。なれど、それは村の苦しみや訴えを聞いたことにはなりませぬ。村人を薬で騙し、自分たちの都合の良いように操っただけで御座います」


 其処まで考えが及ばなかった重保は己の浅薄さに恥じ入り、今すぐにでもこの屋敷から退散したくなったが、藁沓は上尾家に預けている。


「元来、薬というものは人の身体に影響を与えるもの。傷や病を癒す使い方もあれば、心身を害し壊すような使い方も御座います。その製法を極めんとするは、ただ一族の悲願であるのみ。悪戯に世に広めようものならば、現世に阿鼻叫喚の地獄絵図を生み出すことになるやもしれませぬぞ」


 一斎の言葉に、しかし重保の体内で何かがかっと熱くなった。


「いや、そのような使い方はしないし、させません」


 改めて居ずまいを正し、己の右腿をパンと強く打つ。


「私の目の黒いうちは、その知識――薬学を決して私利私欲の為に使わせたりはしません。この場で誓ってみせます」


「真面目なお方だ。正義漢というのですかな」


 一斎は一度、覆いの掛けられた盥に視線を移してから、また重保の方へと向き直った。


「しかしながら、失礼を承知で言わせていただきますが、ここで篠塚様が誓ったところで、まるで意味が御座いませぬ。人づてに、或いは書物文献を通じて得た知識を如何なる形で用いるか、それは知識を得た人間に委ねられます。言わば知識そのものに善悪の裁量は無く、知識を得た人間が悪用せぬという誓いを立てたわけでもなければ、それを全員が遵守するという保証も御座いませぬ。重ねて失礼を申し上げれば、篠塚様ご自身には政府の人間が誓いを破らぬようにするだけの御力をお持ちではないようで御座いますし、何より五十年後、百年後に政を司る者が、同じように誓いを遵守するとは、到底思えませぬ。約束事など、長い刻と共に人々の記憶の中から薄れ消えゆくもので御座いますれば、今の時点で何も知らず伝えずのまま消えるのが最善かと思われます」


 また、何処かで水の跳ねる音が聞こえた。


「幸か不幸か、御首村の村人が有する知識は傷やあかぎれの薬と、病に対する予防法のみ。これだけならば日本各地に散らばり広まったとしても問題は御座いませんが、我々上尾一族だけは村と共に消えねばなりませぬ」


「他の村人と一緒に行かないのですか?」


「はい、此処で消えます」


「駄目だ」


 その返答の意味するところ――そこから漂う死の臭いに、重保の声がうわずる。


「早まってはいけない。命を無駄にすることはないじゃないか。それにこれからは科学の、医学の時代だ。新しい時代の波と共に押し寄せてくるであろう西洋医学の知識と技術に、貴方のような人間の見識が加われば、大勢の人間が助かる未来が来るのだ」


「同時に、大きな悲劇に見舞われるので御座いましょう。こうなったのも、元はといえば健吉の母が息子に自慢話や思い出話を散々に吹き込んだのが原因。今すぐにでも地獄へ赴いて、お前のせいで一族は全滅の憂き目に遭ったわと、叱りつけてやりたいくらいですわい」


 水音と共に、健吉の無邪気な笑顔が重保の脳裏に浮かんだ。


「そうだ、健吉君。彼はどうなったのでしょう。何処かに閉じ込められているのですか?」


「これはまた。先程から此処にいるでは御座いませぬか、ほれ」


 笑顔を崩さぬまま、上尾一斎は側の大盥を重保の前に突き出し、覆いを取り去った。


 満面の水を湛えた大盥。


 その中央にプカリと浮かぶ、鞠まりのような物体。


 下部に貼り付いているのは苔か藻か。


 訝しむ重保の眼前で、鞠は意思を持っているかの如く、クニャリと歪んだ。


 否。


 意思を持っていた。


 僅かに角度を変えた鞠は、表面にへばり付いていたものが苔ではないことを主張する。


 人の、眼球。


 鞠ではない。


 それは、上尾健吉の頭部そのものであった。


 この世のものとは思えぬ光景に、しばし思考力を失った重保の姿を如何に捉えたのであろう。頭部のみの健吉は、そのまま歪に蠢く。


 その頭部は、上唇から下が消えていた。


 一個の鞠とも表現できる健吉の下部には、萎びた蔓のような肉色の触手が生えている。


 その一本が、パンッと水を叩いた。


 飛沫を顔に受け正気を取り戻した重保が最初に行ったのは、屋敷内に留まらず村全体に響き渡るような絶叫。


 それでも一斎は動じず、今となっては仮面とさえ思えるような笑みを崩さぬままである。


「こ、これは何ですか!」


 腰を抜かしながらも震える指で盥を――正確には盥の中の生き物を指さした重保に、やはり笑みを崩さず答える一斎。


「御覧の通り、我が上尾家の末子、上尾健吉に御座います。一族の秘密を明け渡し、世間に広めることも辞さなかったこと。並びに一族の長であるこの上尾一斎に薬を盛って意のままに操ろうとした罰として、頭蓋と胴とを切り離し、骨を抜いた四肢に己の腸はらわたを詰め、顎を取り除いた頭部に縫合したのです。言うなれば人の手により作り上げた四本脚の蛸……いや、生殖器も残したので五本脚の蛸といったところですかな」


 重保を視認したことが何かの刺激になったのであろうか。それまでぐったりとしていた「蛸」は、ぱちゃぱちゃと盛んに四本の脚を動かし、盥に小さな波を作る。


「おお。どうやら、まだ人間であった頃の記憶を残しているようで御座いますなあ」


「あんたっ!」


 変わり果てた我が子の姿を、まるで魚籠の中の魚でも眺めているかのように素っ気なく扱う上尾一斎に、腰を抜かしながらも重保は四つん這いで詰め寄った。


「あんた、これが父親の、いや人間のやることかっ!」


 しかし一斎の返答は、重保の糾弾よりもさらに辛辣であった。


「このようなことが出来る知識を、篠塚様――貴方は日本中に広めようとしておったのですぞ」


 衝撃が、重保の脳天を撃ち貫いた。


「先程も申し上げました通り、得た知識を如何なる形で用いるかについては、知識を得た者に委ねるしかないので御座います。そして上尾一族の知識は、このような逸脱した行為をも可能にする両面を有する知識。それを、我が息子の肉体を持って証明し、ご照覧いただいたので御座います」


 盥に覆いを被せた一斎は手を叩き、現れた厳つい女性に語り掛ける。


「篠塚様がお帰りなさる。お前、麓まで送って差し上げなさい」


「上尾さん。流石に女手で山を下りる先導は」


「ご紹介が遅れましたな」


 女が、軽く会釈した。


「上尾家の次男、上尾良亮りょうすけに御座います」


「は」


 末子の惨状と家長の譴責けんせきに、全身の力が萎えた重保は、気の抜けたような声を上げた。


「女でしょう?」


「乳房と陰陽を、女房のものと付け替えて御座います。こやつめ、折角嫁に来てくれた女房の浮気を疑うあまり殺しかけたものですから、ならばこれで浮気は起こるまいと付け替えたので御座います」


 もはや言葉も出ない。




 乳房を持った次男の先導で麓に辿り着いた重保であったが、道中の出来事は殆ど覚えていない。


 ただ、山に戻ろうとする良亮に声を掛けたことだけは鮮明に覚えている。


「消えゆく村に戻るのかい?」


「同じ目に遭った妻が居ります」


 同じ妻帯者として気付くべきであった。そう恥じたところで、愚問であったことに変わりは無い。


 翌朝に東京へ発つと説明し、泊めてもらった麓の村では、夜中に轟いた轟音により重保を含めた村人の全員が叩き起こされた。


 山の奥地に雷が落ちたのではないかという村人の言葉に、重保は山津波に呑み込まれた御首村の姿を幻視した。


 大久保利通が不平士族の刃に散ったのは、翌年の話である。






                                  (了)

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五本脚の蛸 木園 碧雄 @h-kisono

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