トゥカルーと灰色の世界

しまうま

第一章 残灰

第1話 灰色の少年

【トゥカルーの見聞録 その3】

 それは王城より連れ去られた姫を救い出すために、数々の苦難と試練を乗り越える一人の騎士の冒険譚。各地に残されたその騎士にまつわる伝承をつなぎ合わせた、継ぎ接ぎの物語。


 その本に書かれた最後の物語は、とある流浪の民に伝えられていたものだ。姫を攫った敵国から、迫害を受けている少数民族の元に騎士は突如として現れた。既に彼には左腕がなく、幾つもの切傷が顔に刻まれているボロボロの姿。にもかかわらず、彼は数十人の敵に向かい剣を振るい、更に傷を増やしながらも戦っていた。そんな見知らぬ騎士の姿に少数民族は奮い立ち反旗を翻すと、多くの犠牲を出しながらも解放を勝ち取った。

 

「なぁアンタ、本当にその身体でこの山脈を越えるのか?」


「ああ、姫はきっと、この先におられる」


 そんな言葉と共に山へと消える騎士の姿は、沈む太陽のようであったと伝えられている。


 その一文を最後に著者トゥカルーはこの本をこう締め括った。


【騎士のその後の伝承を見つけることはできなかった。いや、私はあの後すぐに探すのをやめてしまった。その理由は記さない。ただ、いつの日か私は、もっと別のことに執着するようになってしまった。】



 ************


 灰色髪の少年はホッと息を吐くと、分厚い皮表紙の本を閉じた。

 小柄で線の細い彼は丸椅子の上に座っている。その【トゥカルーの見聞録その3】読み終えたばかりの愛読書を抱えた細腕は、素朴だが清潔なチュニックから伸びていた。


 9歳のその灰色髪の少年は、読後の余韻を尊ぶように目を瞑っている。


 しばらくしてふと、少年の目が開かれた。掠れた女の声が咳混みながら彼の名前を呼んだからだ。


「グレイ……ごめんね。水を一杯もらえる?」


 彼の側にあるベッドが少しだけ軋む。そこに横たわっていた女が上体を起こしたのだ。

 少年グレイはサイドテーブルの上に置かれた木製のピッチャーを手に取ると、その横にあるコップに半分まで水を注ぎ入れては女に渡す。


「はい、母さん」


 グレイと母の容姿は良く似ていた。同じ灰色の髪色と瞳、通った鼻筋。だが、母は細身の少年よりもさらに痩せている。頬はこけ、コップを受け取った手は骨と皮だけ。容器半分の水ですら、両手を震わせて慎重に口まで運んでいる。


「グレイは本当にその本が好きね」


 コップを空にした母は微笑むと視線を本から息子に移す。

 窓からは陽光が差し、穏やかな空気。二人の影は奥の壁一面にある本棚まで伸びている。


 グレイの柔らかな頬に吸い込まれるように、彼女は震えた手を息子に伸ばした。冷たい手が温かい肌に触れる。そうして、彼女はグレイを撫でるように、包み込むようにして言葉を紡ぐ。


「大きくなったね。どんどん、お父さんに似てきてる」


 彼女の手は冷たい。だが、少年の心には何とも言えない温もりが染み込んでくる。その感覚に委ねるように彼は目を瞑ると、糸を解くように口を動かして母に尋ねた。


「ねぇ、母さん……。この本の騎士みたいに、父さんは戦ったのかな?」


 その騎士の物語は決して英雄譚とは呼べなかった。姫を救い出すために必死に足掻いては無数の傷を負い、何かを失いながらも前に進み続ける騎士の姿は、まさに血と泥にまみれていた。


「ええ、そうよ。お父さんが騎士として、最期まで諦めずに戦い続けてくれたから、みんなは暮らしていけているの」


 その物語は泥臭くてつまらない。心踊る幻想もなければ、希望を抱かせる理想もない。それでも、グレイの胸は熱くなる。


 あの騎士は、辛い道のりを歩んでいる。

 あの騎士は、大きな苦境を乗り越えている。

 英雄でも超人でもない彼は、己の責務と今できることを全力で全うし、着実に前に進んでいる。


「お母さん。僕も立派な騎士になるよ。何があっても絶対に最期まで諦めない。お父さんみたいな、この物語の騎士みたいな、立派な騎士になるんだ……!!」


「それなら、私もこの病と最期まで戦わなくちゃね……。貴方の騎士になった姿が見たくてたまらないもの」


 その物語は貴方の背中を押しはしない。貴方の手を引っ張りもしない。

 ただただ、立ち上がる決意を誘う。立ち上がりたい者に力を湧かせる。



 グレイの瞳に映るのは母の姿。そして、その奥の窓の向こうに広がるのは木造の街並み。露天商がひしめき合う市場は賑わい、通りには馬車と人々が絶えず往来している。

 この石壁に囲われた城郭都市が彼らの国だ。

 小国だろうが引け目はない。懸命に生きる人々と足掻いて死んだ先人達が築いた国だ。

 窓越しにでも聞こえてくる、彼らが守った、生きる者達の喧騒がこの国の行進曲だ。



「グレイ!窓を開けて!!」


 突然、母が大きな声をあげた。固まるグレイを見つめる彼女の瞳は小さく揺れている。


「グレイ!早く!!」


 少年は初めて、母の怒鳴り声を聞いた。病弱で、か細い声しか出せないはずのその口が大きく開いている。

 気がつけば、グレイは駆け出していた。丸椅子が倒れることなどお構いなしに窓に駆け寄っていた。

 その勢いのままに窓は開く。

 心地よい風が入ってくる。


「え?」


 この国の喧騒が止んでいた。

 この国の行進曲が止まっていた。


「母さん……この音って……」


 代わりに聞こえてくるのは鐘の音。頭の中を揺らし、身体を震わせるように鳴り響く。


 それは敵襲の報せ。開戦を告げる顕れ。

 


 グレイには守りたいものがあった。愛するものがあった。

 しかし、彼はまだ騎士ではない。


 どれだけ憧れていようとも、どれだけ決意を抱こうとも全くの無意味。

 無力な一人の少年は戦火の中で灰となった。

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