第二章 腐女子、動く

第11話 『フェリシア』


 全身がとても寒い。

 寒くて冷たくて、息が苦しい。

 体が重い。まるで水の中にいるようだ。


 ごぼり、口から空気の泡が漏れた。

 本当に水の中にいるみたいだった。


 同時に気づいた。――これは夢だ。

 私が……フェリシアが八歳のとき、義妹の手で冬の池に突き落とされたあの日の夢。


(ねえ、待って。行かないで)


 もがき苦しんでいる小さな女の子に呼びかける。

 あれは、フェリシアだ。

 彼女は苦しみを諦めて、そのまま命を手放そうとしていた。


(行っては駄目。もう少しだけ頑張って!)


 けれどその子は首を振って、いなくなってしまった。

 それから意識が急浮上する。

 おおごとになるのを恐れた侍女が、フェリシアを池から引き上げて助けたのだ。

 それからフェリシアは『私』になって、日常が再開されてしまった。


 そうか。

 今、やっと分かった。

 私は転生したんじゃない。

 フェリシアの体を乗っ取ってしまったんだ。


 ごめん、フェリシア。助けてあげられなくて。

 ごめん、フェリシア。その後もずっと辛い思いをさせて。

 こんなことならもっと早くに実家を逃げ出して、辛い思い出から遠ざかればよかった。


 ふと、指先に何かが触る。

 手を動かして輪郭を確かめてみると、箱だった。

 あぁ、そうだ。

 フェリシアの本当のお母様の形見、嫁入り道具のネックレスが入った箱。

 何もかも取り上げられる前に隠しておいて、帝都を出るとき持ち出したんだっけ。


 これは我ながらよくやったと思う。

 フェリシアの心が少しでも残っていて、動けたのかもしれない。だったらとても嬉しい。


(私も少しは、役に立てたかな……)







「フェリシア先輩!」


 ぼんやりと目を開けると、泣きそうになっているリリアがこちらを見ていた。

 場所はメイド部屋、私のベッドだった。


「リリア? あれ……私、どうして」


「先輩は、クィンタ隊長を治療して倒れてしまったんですよ。三日も意識が戻らなくて、わたし……」


 リリアの目から涙がこぼれる。


「クィンタさんは、無事?」


「ええ、無事です。傷もすっかり良くなりました。先輩が目を覚ましたら、お礼を言いたいと言っていましたよ」


 そっか、良かった!

 推しの幸せを守れたとは、腐女子冥利に尽きるというもの。

 起き上がろうとして、お腹の上に載せられていた箱に気づいた。


「あら、これは……」


「フェリシア先輩がうわごとで『お母様の形見』と言っていて。失礼だと思ったんですけど、荷物を探しました。その箱でいいんですよね?」


「ええ、これで間違いないわ。おかげで悪夢から戻ってこられた。ありがとう、リリア」


 リリアが泣き笑いの顔になった。

 ゆっくりを身を起こす私を支えてくれる。


「フェリシア! 目を覚ましたんだね」


 メイド長や他のメイドたちもやって来た。

 水や軽食を差し出してくれた人がいたので、ありがたく頂戴する。

 三日も飲まず食わずで寝ていたせいか、改めて空腹を感じていた。

 一息つくと、メイド長が言った。


「軍団長から、あんたが目を覚ましたら部屋に呼ぶよう言われている。歩けそう?」


「ええ、大丈夫です。向かいますね」


 形見の箱をしっかりしまってから、軍団長の執務室に行った。

 部屋の中には軍団長とベネディクト、クィンタもいた。

 私が目を覚ましたと聞いて、待っていたようだった。


「フェリシア嬢。よく来てくれた」


 軍団長は立ち上がって私を迎えてくれた。

 ベネディクトとクィンタは礼の姿勢を取る。


「体調はもう平気かね?」


「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


「当然のことだ。きみは死に至る傷を見事に癒した、真の聖女なのだから」


 軍団長の言葉に目を丸くしていると、ベネディクトとクィンタが進み出た。


「フェリシアちゃんは命の恩人だ。おかげで死の淵から舞い戻ることができた」


「これを助けてくれて感謝している。聖女の奇跡を目の当たりにして、心から感動した」


 そうして二人揃って私の足元に跪いた!


「あ、あの! どうか頭を上げてください!」


 そういう姿勢は私じゃなくてお互いにやってください。

 そのほうが私、元気になるから。

 というか、イケメン二人が跪いてるの絵になるな。

 これで跪く相手が軍団長だったらどうだろう。……うむ、ええのう。

 軍団長を頂点とした三角関係、なかなかオツ。


 などと私が妄想に興じていると、彼らは立ち上がった。ちぇ。

 軍団長が改めて口を開く。


「しかし聖女の力が本物であるならば、帝都の皇帝陛下はいったい何をなさっておいでなのだろう。聖女は皇家に嫁ぐ決まりなのに」


「婚約破棄と帝都追放をされたと聞いたが?」


 ベネディクトが言うと、クィンタが顔を歪ませた。


「何だそりゃ。フェリシアちゃんを手放すなんざ、ありえないだろ。皇帝陛下は頭腐ってんのか」


「クィンタ。わきまえろ」


 ベネディクトは言葉ではそう言うが、不満そうな顔をしている。

 軍団長が続けた。


「何か行き違いがあったのだろうか。フェリシア嬢、今回の件を陛下に報告して帝都に戻れるよう取り図ろう。少し待っていてくれ」


「いいえ、軍団長。報告は不要です」


 私が言うと、皆がこちらを見た。

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