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織島かのこ

01.「心よりお慶び申し上げます」

(どうして私はこんな時間に、こんなところで全力疾走しているんだろう)


 二十三時五十二分。大汐おおしお真帆まほは今、胸にA4サイズの茶封筒を大事に抱えたまま、駅から地上へと続く階段を勢いよく駆け上がっている。

 全力疾走するのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。社会人になってからはマトモに運動をした記憶もなく、たまに思い出したようにジョギングをしても三日坊主で終わる。

 荒い呼吸をするたびに肺が痛い。膝下丈の上品なスカートも、踵の高いパンプスも、見た目重視で走るのには不向きだ。もし許されるなら、今すぐ脱ぎ捨てたい。

 少し前を走る男――五十嵐いがらし穂高ほだかは、真帆の方を振り返りながら、やや焦れたように腕時計に視線を向けた。


「頑張れ、大汐。あとちょっとで日付が変わる」

「わ、わかってる、んだけど……」


 そのとき段差にヒールがひっかかって、真帆はバランスを崩した。転びそうになったところを、逞しい腕にがしりと支えられる。驚くほど整った顔が、目の前にあった。


「大丈夫か?」

「……うん……いや、どうだろ……大丈夫じゃない、かも」


 怪我はしてないけれど、もう足も上がらないし、限界が近い。真帆ははあはあと荒い息を吐きながら、穂高に向かって茶封筒を差し出す。


「……ごめん五十嵐くん……これ、一人で出してきてくれないかな。私、もう走れない」

「なんでだよ。二人じゃないと意味ないだろ」


 一人で行っても受理してもらえると思うよ、と真帆が言う前に、穂高は真帆の右手を掴んだ。思いのほか強い力で、ぎゅっと握りしめられる。強引に引っ張られるようにして、真帆は再び走り出した。

 階段を上って地上に出ると、信号がタイミング良く青に変わった。穂高は真帆の手を引いたまま、一目散に駆けていく。行き交う車のヘッドライトの明かりに照らされた横顔は、はっと息を飲むほど綺麗だ。

 横断歩道を渡って、二人は交差点の向こうにある区役所へ飛び込む。時間外で正面玄関は閉まっていたが、少し離れたところに時間外窓口へと続く入り口があった。

 時刻は二十三時五十七分、ギリギリセーフ。


「すみません……婚姻届を提出したいんですが」


 受付窓口にいたのは、頭髪の薄い年配の男性だった。彼は深夜に勢いよく駆け込んできた男女をぽかんと眺めていたが、すぐに気を取り直す。ニコリと朗らかな笑顔を浮かべて、丁寧に頭を下げた。


「ご結婚、おめでとうございます」


(ああ、本当に。朝目覚めたときには、まさか今日結婚することになるなんて、夢にも思わなかった)


 真帆は反応に困って、チラリと隣の男の様子を伺う。

 これから夫となる人は、相変わらずの無表情のまま、「ありがとうございます」と平坦な声で答えていた。

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