第9話 タキと千鶴
その部屋の中は白い靄で包まれていた。
タキは少し緊張していた。本当にこれから元の世界に帰れるのか?という不安がまずあり、しかしいざ本当に帰れるとなると、これまた別の不安が襲ってくる。
部屋の奥の方へ行くと、少し靄が晴れて、奥の方で誰かが質素な椅子に座っているのが見えた。
「来ましたね。お待ちしておりました」
奥に居たのはゆったりとした衣装を身にまとった美しい女性で、三人が来ると、椅子から立ち上がって出迎えた。
「私はこの扉の間で世界間の『調整』を執り行う者。領事とでも呼んで下さい。さて、挨拶はこれぐらいにして、本題に入りましょう。樹里さんは正規の道を通ってこちらの世界へ来訪されているので、時間差無しで元の世界へ帰ることができます。タキさんは、残念ですが正規の道を通っていないので帰ることができたとしても時間差が生じてしまいます。そして、ヨクさん、あなたに至っては……」
領事の女性は少し不安そうにヨクの方を見た。
「帰れないんだろ。わかってる」
「はい。では、お別れを言いに来たんですね。わかっているのなら、よかった」
帰れない?どう言うことだろう?タキは、少し怪訝に思いながら領事とヨクさんのやり取りを見ていた。
「では、今からタキさんに元の世界での記憶を取り戻していただきます。しかし、その前に、タキさん、覚悟は本当にできていますか。元の世界に帰った時に、自分がどのような状況にあったとしても、それでも帰りたいと、本当に思えますか」
タキは、頷いた。何があっても、帰る。それは、とっくに決めていることだった。
「わかりました。では、タキさんに今から元の世界での記憶を流します。こちらに立って」
領事は、タキを自分の前に立たせると、タキの額に人差し指をそっと当てて、
「これを受けた人は、少なからずショックを受けます。良いですか」
と言った。タキは、コクリと頷いた。
「では」
その言葉を聞いたが最後、タキは膝からくずおれた。
タキが膝をついて、ふー、ふーと荒い息をしているので、樹里はとても心配だった。本当に大丈夫なのだろうか、これ、と思いながら、タキが落ち着くまでじっと待っていた。タキは今、色んなものを一気に見せつけられているのだ。ショックだろう、そりゃ。タキが砂漠に来たのが四年前のことらしいので、十二歳の時だ。十二年。十二年分の記憶を一気に思い出させられている。それを思うと樹里は、がんばれ、タキ、と心の中で応援せずにはいられなかった。ヨクも同じ気持ちらしく、じっと深刻な顔でタキを見守っていた。
タキの呼吸はだんだん落ち着いてきた。完全に落ち着いたと思われた頃、タキが樹里の方をくるりと振り向いた。そして、
「樹里さん、だったんだね」
と言って笑った。
え?と樹里は思って、一瞬思考が止まった。目の前には、以前より柔らかい表情になったタキが、子供みたいに笑っている。
「私、元の世界では風間千鶴で通っていたみたい」
タキは、照れ臭そうに笑いながら、そう言った。いや、この子は、千鶴、なのか。
樹里は、タキの言ったことが、しばらく飲み込めなかった。しかし、目の前の記憶を取り戻したタキの笑顔の中に、確かに千鶴の面影を見た。それで、
「ああ」
とまず樹里は言って、
「今まで全然気づかなかった」
と続けた。タキは、
「私もです」
と完全に千鶴の口調に戻って言った。
「そっちは記憶なかったから仕方ないじゃん。でも、私は……うわぁ……、なんてポンコツなんだ」
樹里が頭を抱えて狼狽えていると、
「何だ、お前ら知り合いか?」
とヨクが口を挟んで来た。
「まぁ、樹里のポンコツは今に始まったことじゃないからな、許してやってよ、タキ、いや、ちづるさん?」
とヨクが言うと、タキなのか千鶴なのかわからない人格の少女は複雑そうな顔をして、笑った。
「そうだ、せっかく帰るんなら、やっぱり私、全員で日本に帰ったほうがいいと思う。ねぇ、ヨクさん、もう一度、考え直す気はない?」
と、タキが言ったので、樹里は、はっとした。駄目だ。それは多分、駄目だ。
「言われただろ、タキ、俺は、予言書に帰るって書かれてないって」
と、ヨクが答える。
「でも、ヨクさんは、私と同じ来訪者なんだよ。それに、予言の言うことは、今まではその通りになって来ただけで、絶対従わなきゃいけないってものでもないでしょ」
とタキは言う。
「タキ、同じじゃないんだよ。俺とお前は。俺は、日本には帰れない。例え帰る気があったとしても、帰れないんだ」
ここまでヨクが言ったところで、まずいな、と樹里は思った。早く止めなきゃ、このやり取りを。でも、どうしたら止められるのかがわからない。
領事が助けてくれないか、と思ってそっちを見ると、彼女も、少し困ったような顔をして、樹里と同じようにこのやり取りを見ている。
「なんで?予言に従わなきゃってことを、そんなに気にしてるの?ヨクさんらしくもない」
タキがそこまで言ったところで、何でもいい、何か言おうと樹里は思ったが、ヨクの方が早かった。
「違うよ、俺は、元の世界で生きる資格がないんだ。自殺したからね」
沈黙が訪れた。
言われてしまった、言わせてしまった。その台詞を。樹里は、見ていられなくなって、顔を背け、足元を見た。
タキは、言葉を失ったとみえて、黙り込んだ。
「事故による仮死状態でこっちに来たんなら、まだ帰ることができる。でも、自殺して来た者は、何があっても帰れない。代わりに、こっちの世界で生を全うしなければならない。そうだろう、領事さん。デザに来てから、何となく察してたよ」
とヨクが言うと、領事は頷いた。
「ああ、こんなこと、餞の時に言うことじゃないよなぁ」
樹里は、罪悪感に狩られた。知っていたのだ。本当は。ヨク、いやハジメは、自殺して死んだ、と日本にいた時、聞いたのだ。その時からずっと知っていた。どうして、ヨクと一緒に行動する中で、このような事態になることを予測できなかったのだろう?
タキは、完全に泣きに入っていた。
「ごめんなさい……、ヨクさん、本当にごめんなさい」
「いいって。もっと早く話さなかった俺も俺なんだから。悪かったな。こんな時に、本当にごめん」
ヨクはそう言ってタキを慰めたが、樹里はそれでは済まなかった。
「ごめん、私知ってた。でも、何も言い出せなかった。この世界の仕組みがよくわかってなかったのもあるけど、どうしても聞けなくて……」
ここまで樹里は言うと、勇気を出して、続けた。
「何で、自殺したの?」
ヨクは少し悲しそうな顔になったが、いつも通り笑って、
「なんか、全部嫌になっちゃったんだよね」
と言った。
「まぁ、ぶっちゃけ俺って優等生だったじゃん?」
とヨクは続ける。
「親の期待とか、鬱陶しかったっていうか……、優等生気取ってんのがしんどくなったっていうか、ある日、人生のルートが全部見えちゃったような気がして、気づいたらプラットフォームから電車の前に飛び出てた。ま、ありがちな話だろ」
樹里は、
「ありがちじゃないよ」
と言った。
「何で、心が悲鳴あげてるのに、誰にも助け求めなかったんだよ……。喧嘩したけど、私だって、何か力になったのに……」
と樹里が言うと、
「悪い」
とヨクは言った。それからしばらくみんな黙っていると、
「そろそろお時間が……」
と領事が切り出した。それを受けて、ヨクが
「お通夜になっちゃったな、悪い。俺、餞の言葉本当に寝ないで考えて来たのに、今ので全部飛びました。すみません」
と言った。
「嘘だ、考える柄じゃないだろう」
樹里がそう言うと、
「わかってんじゃん」
とヨクは言って笑った。タキは相変わらずまだ黙りこくっている。
「餞の言葉といえば、ヨク、私はあんたに言うことがある。逆餞の言葉とでも言うべきか。ヨク、いいか、ちゃんと聞けよ。一度しか言わないからな」
樹里は突然あることを思いついてそう言った。ヨクに言うことがある。今言わなければ、もう二度と言うことはないだろう。
「何?」
ヨクは、面倒くさそうに、でも笑ってそう言った。ふうぅと息を吸い込むと、樹里は、一息で言った。
「困った時は、星を見ろ」
樹里は、自信満々でそう言った。なのに、ヨクはポカンとしている。
「えっ⁉︎何、その反応⁉︎」
樹里が思わずそう言うと、
「いや、クサいこと言うなぁって思って……」
とヨクは笑い出した。
「はぁ⁉︎あんたが昔言ったんでしょ?、俺たちは宇宙を見上げる限り宇宙仲間なんだからって……」
と樹里が言うと、
「マジ?俺そんなこと言った?」
とヨクは完全に忘れていたようだった。それを見て、タキは、笑い出した。それを見て樹里は、
「あっ、そうだ、タキも、いや千鶴も宇宙仲間なんだよ。ほら、二人、握手しときな」
と言うと、二人の手をつかんで強引に握手させた。握手しながら、
「元気でな」
とヨクが言う。それを受けて
「ヨクさんも」
とタキ。
本当にそろそろ行かなきゃいけない時間だな、と三人は察して、領事の方を見た。領事は、こくんと頷いて、部屋のさらに奥の方、まだ靄がかかっている方へ三人を誘った。行くと、靄は晴れた。そこには、あの不思議な模様の扉があった。
「じゃあ」
と樹里が言い、
「さよなら」
とタキが言い、
「おう」
とヨクが言った。
ドアを潜る前にタキと二人、振り向いたら、ヨクは親指と人差し指と中指を立てて鉄砲みたいな形にした手を、こめかみの当たりから一回だけ振った。それを見て、樹里はだっせぇ、と思った。
ドアの向こうは暗闇で、そこを潜るとだんだん意識が遠のいていった。
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