五等分の信長

阿弥陀乃トンマージ

六月二日早朝

                 序

天正十年(1582)、六月二日の早朝、京の本能寺に宿泊していた織田信長おだのぶながは周囲のただならぬ騒がしさに目を覚ます。信長は半身を起こし、ふすまの向こうに声をかける。

「お蘭……!」

 信長は甲高い声を発し、自らが寵愛、深い信頼を寄せる近習、森蘭丸を呼びつける。

「はっ!」

 蘭丸が信長の寝所のふすまを行儀よく、それでいて素早く開ける。

「……どこの兵だ?」

 さすがは第六天の魔王、織田信長である。寝ぼけた頭をすぐに切り替え、寺周辺の喧騒は自らに仇なすものだと理解した。

「桔梗の紋でございます!」

 蘭丸も余計なことは付け加えず簡潔に答える。桔梗紋というだけで誰の仕業か分かる。

「そうか……是非に及ばず」

 信長は座った状態のまま、正面をじっと見据える。蘭丸がやや慌てる。

「お、お館さま!」

「ふっ、一応もがいてみるか……」

 信長は泰然とした様子で立ち上がり、近習の者から弓矢を受け取り、廊下に出ると、間髪入れずに発射。鋭く放たれた数本の矢は、相手にことごとく命中。攻め寄せる軍勢の前線の一部をやや混乱させた。混乱はすぐに落ち着き、攻め手から声が上がる。

「信長はあの白装束だ! 首を獲れ!」

「そう簡単にはやらん……!」

「!」

 信長は矢を器用に、そして自在に放ち、自らに近づこうと殺気立つ敵兵士を片っ端から射抜いてみせた。蘭丸が称賛の声を上げる。

「お見事でございまず!」

「……いや、どうやらここまでのようだ。弓が折れた」

 信長は思わず苦笑してしまう。対照的に蘭丸はその端正な顔に悲壮感を漂わせる。

「! こ、こんな時に……槍を持て!」

 蘭丸の指示で、信長に長槍が手渡された。信長はこの長槍も器用に扱い、迫りくる敵兵を何人か突き殺した。何人目かを斃した後、信長は長槍を寺の廊下にズイっと突き立てる。

「お、お館さま!」

「お蘭、露払いは任せる……邪魔だてだけはさせるな……よいな?」

「……! ははっ!」

 蘭丸は溢れそうになる涙をこらえて頷く。信長は寝室よりもさらに奥の部屋に向かった。自らの運命を悟った信長は誰の邪魔も入れずに腹を切ろうと決意した。

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