エピローグ 香りのある日々

 ローラン邸の窓辺に、朝の光が差していた。冬の終わりを告げるような、柔らかな光だった。


 ジャックはキッチンに立ち、マキネッタをコンロに置いた。


 その背後から、オブリエが声をかける。


「ねえ。自分が好きでつける香りって、あってもいいのかな? 誰かに見せるためじゃなくて、ただ、自分がつけたいから選ぶ香り」


 ジャックは振り向かずに言った。


「いいも何も。フレグランスってそういうものだよ。いま気づいたの?」


「香印制御用の〈アルカ〉しか持ったことがなかったからね。純粋に香りを楽しむ香水は、ジッキーが作ってくれたものがはじめてだよ」


 ジャックは思わず目を瞬かせた。短い沈黙が落ちる。


「……あー、それじゃあ、香水でも選びに行く? フラコン並べて二時間くらい悩みましょうよ」


「何を言ってる? わたしはノブレサントだぞ。調香師を独り占めして香りを創らせたところで、お金には困らない」


 言いながら、わざと大げさに声を張ってみせた。その調子は芝居じみていて、茶化すようでもあった。


 ジャックは別の鍋を取り出し、マキネッタの隣でミルクを温めはじめる。泡立て器で鍋のふちを小さく鳴らした。


「なら、正式に依頼してください。受注したら、ムエットをまた四十本、用意しておきますよ」


 オブリエは口元をゆるめた。


「ジッキーらしいな」


 しばらくどちらも言葉を継がず、ミルクをしゃかしゃか泡立てる音とコーヒーの香りが部屋を満たした。


 廊下の奥から、小さく足音が近づいてきた。やがて扉が少し開き、アンシーが顔をのぞかせた。


「グラントは戻ってきてるか?」


「うん。外に」


 ジャックは泡立て器を持ったまま、テラスで煙草をふかしているグラントを窓越しに示した。アンシーが近づくと、グラントは煙を吐き出しながら言った。


「ああ、買ってきてるぞ」


 タバコの匂いを背負ったまま室内に戻ってきたグラントは、紙袋を持ったまま口を開けた。


 甘い香りが弾けた。バターと砂糖の層が熱でゆるんだようなクロワッサンの香ばしさに、パン・オ・ショコラの濃いチョコの甘さが重なる。焼きたての二つの香りが、袋の中で融け合っていた。


 その香りを捉えたジャックが、思わず眉をひそめた。


「うそでしょ。どれだけ買ってきたんですか?」


 グラントは平然と答えた。


「四人で食べるとちょうどいいだろ」


 ジャックは紙袋を覗き込みながら、半ば呆れたように言う。


「四人? オブリエがいるってわかってたんですか?」


「さあな」


 グラントは紙袋をテーブルに置き、何事もなかったかのようにジャックの肩を軽く叩いて通り過ぎた。


 それぞれの手が迷いなく役割を担っていく。

 ジャックはコーヒーの上に泡立てたミルクを載せ、カフェ・クレームにしてトレイごと持ってきた。それをオブリエが受け取り、全員に配る。

 グラントはナプキンを人数分用意し、アンシーは紙袋の底からクロワッサンとパン・オ・ショコラを取り出してさらに並べる。


 小さな動作が重なり、朝の食卓が形になっていく。


 クロワッサンを割ると、焼きたての皮がぱり、と音を立てて崩れた。湯気が立ちのぼり、焦がしバターの香りが空気を染める。


 ジャックはカフェ・クレームのカップを口元に運び、ひとくちだけ含んで目を細めた。


「一口目は甘いのに、あとでちゃんと苦いな……」


 ジャックが呟くと、グラントがパンを齧りながら、ほんの少しうんざりしたように言った。


「いちいち解説しなくていい。食え」


 そのやり取りに、オブリエがくすりと笑った。


 この香りは、二時間は鼻に残るだろう。

 でも、それでいい。

 今日は、ただ香りを楽しむだけでよかった。


 香りはふたたび選び取られ、名前のない日々が始まろうとしていた。




〈完〉

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奇跡とは呼べない香り 遠野文弓 @fumiyumi-enno

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