第五十六話 北極星の先に

 ペルジャンの夜は暗い。

 祖母と一緒にいた庭先で、彼は北の空を指差されて星を教わった。


「あれは北極星だよ。動かない星」


「ふーん……」


 ジャックはどうでも良さそうな声で答えた。アンシーは意に介さず続ける。


「道に迷ったら、あれを指針にして歩きな。どこかには着くからね」


「どこに辿り着くかわからないなんて変なの。昔の人はなんであんなものが信じられたんだろう」


 ジャックは星を見上げながら、心底不思議に思って聞いたものだ。


「空の上には行けないのに」




 ***


 技量不足のジャックにとって、オブリエの香印は北極星だ。

 目指して歩き続けてさえいれば、きっとどこかには辿り着ける指針。空の上の異界。見えていても永遠に到達できはしないのだ。それをわかっていて目指す場所だ。



 調香台の上には、ガラスのビーカーが並んでいる。試作の数が百を超えたあたりで、ジャックはようやくひとつの確信に辿り着きつつあった。


 オブリエの香りを〝取り戻す〟こと――その目的自体が、彼女を外側から定義しようとするにすぎなかったのだと。


「最初から、ぼくが決めることじゃなかった」


 その言葉に、オブリエが驚いたように顔を上げる。


 ジャックは小瓶を並べ、香りを次々とムエットに移していった。


「オブリエ。今からムエットを並べるから、好きだと思うものを選んで」


「好きだと、思うもの……?」


気がつけば、オブリエの目の前にはムエットがずらりと並んでいる。全てに番号が振られているから、いくつあるか容易に計算できた。


 四十本。


「こ、この中から……?」


 ジャックは真剣な顔で頷く。


「もちろん、一日でとは言わないよ」


 オブリエはそっとため息をついた。伸ばしかけた手が止まる。だが、ジャックの視線に押されるように、彼女はひとつ、ムエットを取った。その手はかすかに震えていた。


「……この香り、嫌いじゃない。でも、違うな……」


 そんな風に呟いて、彼女はムエットを戻した。

 次のムエットに手を伸ばす。




 ***


 十日かかった。ムエットを嗅いでは、他のものと比べた。そして今日、ようやく、オブリエはたった一つを手に取り、それをずいぶん眺めていた。


 ほんの少しキャラメルの混じった、コーヒーの香り。

 オブリエは香りを嗅ぎながら目を閉じる。

 それは幼少期の思い出でも、香印の模倣でもない。


 自分のために選んだ香り。

 彼女自身の選択。


 手が震える。

 心の奥で何かが動き始める。自分で選ぶこと。それがこんなに――難しいとは。


 オブリエは小さく微笑み、ムエットを一つだけ、ジャックに渡して、困ったように微笑んだ。吸った瞬間に、思わず涙が滲む。


「これ、かな……」


 その声には、少しだけ不安が混ざっていた。ジャックは彼女の表情を見て、頷きながらムエットを受け取った。




 オブリエが選んだムエットをもとに、香りの核となるベースを決める。これは彼女が「自身の香り」だと認識できるものでなければならない。


 一滴ずつ慎重に香料を垂らしていく。

 過去の記憶だけでは足りない。オブリエはこれから、新たな一歩を踏み出さなければならない。


 彼女自身が進むべき道を照らす香り。


 彼女が興味深げに見ていたカルダモンと香辛料。ジャックとオブリエが話し込むたび、アンシーが入れてくれたコーヒーとアーモンドチョコレート。そして、フリージア。オブリエの香印から感じた光。決して主張しすぎず、それでいて、いつか振り返ったときに思い出せるような、ほのかな輝き。


 ジャックは香料が均一に混ざるのを待った。試作液をムエットに染み込ませ、香りを確かめる。


 最初に感じるのは、カルダモンがひとさじ。サフランの金糸が湯気を割ると、空気に薬棚を開けたような、乾いた芳香が流れ出す。

 そして、フリージアが遅れて咲く。記憶と予感の狭間に、白く澄んだ花びらがそっと光っている。

 ベースには、柔らかく炒ったアーモンドの皮が、熱気とともに弾けたような微かな焦げ香。それがコーヒーの丸く深い苦味に包まれる。焦げたアーモンドとコーヒーが溶けあい、ミルクのぬくもりがそれらを包み込むように漂う。

 香りに、皮膚を与えていく。


 ジャックは深く息を吐いた。

 オブリエの香り。オブリエのための香り……。




 ジャックは、オブリエの前にそっと試作液を差し出した。

 オブリエは、ゆっくりと手を伸ばし、それを手に取った。躊躇うように、一瞬だけジャックを見つめる。


 目が合う。何も言わないまま、彼はオブリエを見ていた。


 オブリエはずっと自分の手元をみていた。息を吐いて、ぽつりと口を開く。


「……あなたと暮らしていたとき、わたしの香印って暴走してたのよ。知ってた?」


 ジャックは少し困惑した表情で首を振った。そして、次の言葉を待った。


「……でもね。わたし、止めようとしなかった。むしろ、これで楽になれるって思ったのよ」


 言いながら、オブリエは笑った。


「香りに包まれてると、誰にも見られなくなったような気がしたの。わたしが薄まって、空気になる感じ。……あれが、心地よかった」


 オブリエは、そこでようやく視線を上げた。

 ジャックが、真剣な顔で彼女を見ていた。


「……今は、違うけどね」


 そして、静かに、目を閉じた。香りが、彼女の鼻腔を満たす。


 ジャックは、無意識に息を呑んだ。


 彼女の輪郭が、ゆっくりと濃くなっていく。ぼやけていた空間に、確かな存在の感触が宿る。

 まるで空気が彼女を形作るように、オブリエが、いる。


 未だ定まりきれてはいないが、確かに、そこに。


 オブリエは、ゆっくりと目を開けた。彼女の瞳は、確かにあった。

 彼女はもう一度、深く息を吸い込む。


「……これが、わたしの香り」


 その目には、迷いがなかった。


 ジャックの胸が、ふっと軽くなる。


 香印の完璧な再現ではない。

 過去をそのまま呼び戻したわけでもない。


 オブリエは、ゆっくりとムエットを握りしめた。

 そして、小さく笑った。


「ジッキー。ありがとう」


「……お礼を言われるほどのことじゃないよ。仕事だからね」


「次は、もう少し甘い香りがいいかな」


 ジャックは思わずといった調子で吹き出した。自分でも、何がおかしかったのかはわからなかった。ただ、何かが緩んだ。


 正解も、奇跡も、ここにはなかった。

 これは、彼女が〝今〟を歩くために自分で選び、誰かに届くことを許した香りだ。


 ジャックは知っている。

 この香りは、オブリエのすべてにはなり得ない。


 それでも、今だけは、彼女の歩みを照らすことができる。




 ***


「一区切りかい?」


 後ろから、アンシーの声がした。ジャックは振り返らずに答えた。


「……たぶんね。でも、オブリエをテーマにした香水は、創れなくて」


「それでもいい。おまえに課したのは、再現でも定義でもない。オブリエの魂をどのように翻訳するか、だからな」


 ジャックは黙って頷いた。そして、香料瓶を手元に集める。一つずつ手に取り、キャップの緩みがないか確かめる。

 アンシーは片付けられていく香料瓶に視線を落とすと、言葉を継いだ。


「おまえのやったことを、言葉にして残しておきなさい。処方と、香印の変化を……オブリエの回復が偶然じゃないことを、おまえの言葉で残しておくべきだ」


「論文にしろってこと?」


「書けるだけのことはしてきたろう」


「だと、いいんだけど」


「香りを創るだけで満足してたら、次が困るだろ。おまえが成し遂げたのは、奇跡じゃないんだからな。残しておけば、誰かがあとを継げる。再現可能性のない再現を、言葉にして渡すんだ。――それも、調香師の仕事だ」


 香料瓶を仕舞っていたジャックの手が止まる。


「書きなさい、ジャック。あんたはもう、うちの調香師だからね」


 最後の瓶を置いて、ラベルを指先でなぞる。その手つきは、どこか名残惜しそうだった。


「……わかりました、。命令ですもんね」


 ジャックはひとつ笑って、香料棚の扉を閉めた。


 香りを創ること。

 それを記録し、誰かに託すこと。


 それが、ジャックの仕事だった。

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