第五十五話 最初の一本
読みかけの本には乾いた紙繊維の粉っぽさが、古い写真立てや窓ガラスには触れた指の皮脂が沈んでいる。小さな花瓶からわずかに立つのは、水分が抜けて濃縮された花の澱んだ甘さ。中は見えないが、枯れた花弁が底に貼りついているのだろう。
……読める。
だが、体の奥はまだ後ろに
わかるのに、触れたくない。
また香りに呑まれるのが怖い。
それでも、もう一度香りを掴みたいという渇きが消えない。
そんな恐れと欲望の中で、呼吸だけが宙ぶらりんだった。
扉の向こうから足音が近づいた。二つ。迷いのない一歩と、それに続く柔らかな足取りだった。
すぐにドアが開く。
「見舞いだ、ジャック。起きてるか?」
反射的に目を向ける。
グラントの顔。その後ろには、オブリエ。
遅れて、彼女と視線が交わった。先に視線を切ったのはジャックだった。胸の奥がざわめく。マリスの香印で増幅されたとはいえ、オブリエに対する負い目の気持ち自体は本物だった。それはまだ、残っている。
グラントが椅子を引いて、オブリエに座るよう促した。そして自身は立ったまま、ジャックに話しかけた。
「顔色は、まあ……相変わらずひでえな」
ジャックはかすれた声で笑った。
グラントの横で、オブリエが口を開く。
「少し痩せたんじゃない? 食事はできてる?」
「……うん」
それから、三人でしばらく言葉を交わした。取りとめのないやりとりが続き、時間がいくらか過ぎていったあと、グラントが言った。
「俺はそろそろ帰る。お前の顔も見れたし、長く外に出てるといろいろ面倒でな」
言いながら、少し肩をすくめる。そしてポケットから何かを取り出し、無言のまま、それをベッド脇のナイトテーブルの上に置いた。
小さな包みだった。無地の包装紙に包まれている。
それを見たジャックの手がほんのわずか、包みに伸びかけた。
(……誕生日のこと、覚えてたのか)
扉が閉まった。グランドは一度も振り返らなかった。
ジャックはゆっくりとオブリエを見た。彼女はすでにこちらを見ていた。
やがて、オブリエが静かに口を開いた。
「本当によかった。ジッキー、あなたが無事でいてくれて」
ジャックは少し間を置いてうなずいた。
「うん。オブリエも……」
オブリエはかすかに笑った。
無事だった。
だから、それで良かった。
それ以上のことは、今はまだわからなかった。
ジャックはナイトテーブルから包みを取り上げて、ゆっくりと開けた。
中から現れたのは、シンプルな銀軸のボールペンだった。手に取ると、見た目以上に重みがある。ペン軸が光を弾くのを、ジャックはいつまでも見つめていた。
***
ジャックはコートを着込み、庭のベンチに深く腰掛けていた。雪は降っていなかった。植え込みのローズマリーとタイムの青さは、冷たい空気の中で硬く沈んでいる。
植え込みは視界に入らなかった。ただ、離れのほうをひたと見つめていた。
そこにある調香室を。
肩にふっと温もりがのしかかり、意識が現在へ引き戻される。毛布だと気づくのに少し時間がかかった。
毛布をかけたオブリエは、さらに身を乗り出してジャックの横顔をうかがう。ジャックはなお調香室から視線を外さない。
彼女はためらいがちに、隣へ腰を下ろした。
「ジッキー。もういいんだ。無理に作らなくてもいい……」
オブリエの声は静かだったが、語尾には緊張が滲んでいた。ジャックは視線を調香室に固定したまま言った。
「でも、やりたい……」
そのとき、庭の奥から足音が近づいてきた。つなぎ姿のアンシーだった。
ジャックが何か言う前に、アンシーはきっぱりと告げた。
「却下だよ」
毅然とした声が、正面から孫に向けられる。
「お前の言葉を借りるなら、香料は身体に入る。体調が万全じゃないと判断も狂う。……何より、体を壊すぞ」
ジャックはかすれた声で答えた。
「無茶はしないよ。ただ、最初の一本を、オブリエに贈りたい」
そこには頑として譲らない固さがあった。
沈黙が落ちる。
やがて、アンシーがふうっと長く息を吐いた。白い息が溶けて消える。
「……
先に反応したのはオブリエだった。意外そうに目を瞬かせ、ほんのわずかに眉を上げた。
――調香を連続してできるのは、せいぜい四十五分。一時間よりも早く限界が来る。
ジャックの表情がゆるむ。鼻から息を抜いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなった気がした。
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