第四十七話 保存された愛 ②
その香料工場では〈アルカ〉の調合試験が行われていた。〈治癒〉系の香印香料を基盤としたアルカだった。工場の現場責任者や職員に混じって、ネファストは香料供給元ノブレサント・ラボの代表として立ち会っていた。
監査というものは、普段通りの仕事を見なければ意味がない。
ネファストはそう考えていた。
派手な身分を明かす必要はない。安っぽい服をまとい、偽名を告げるだけで十分だった。彼の香印は相変わらず静かすぎて、すれ違う職員たちは誰一人として彼をノブレサントとは思わなかった。
……他人とすれ違うのは嫌いだ。
物事が思い通りに運んでしまうことに、ネファストはうっすらと苛立ちを覚えた。
工場責任者の案内で、ネファストは観察用のモニタールームへと通された。
壁一面のパネルには、数値やグラフが並んでいる。分厚いガラスを張った大窓からは、調整室の様子も俯瞰できた。
「……そういや、医療局じゃなくて香特にいるんだよなぁ。ほら、あのメモアロームの息子さ」
「香特の? 現場仕事? あんな香印を持ってるならメモアロームを継げばいいのに」
作業の合間、職員たちは声を潜めて囁き合っている。
〈治癒〉系の香印を語るならば、彼の名を避けては通れない。
〈癒し〉のシニストル・メモアローム。
「何でだろうねえ。聞くところによると、ますます強くなってるらしい」
「ええ? まだ成長するのかよ……。規格外だな、まったく」
ネファストはその会話に沈黙で肯定する。
モニタールームのパネルに目をやり、香気センサーが捉えた波形を何気なく眺める。
そこに、わずかな違和感を覚えた。
異常と呼ぶほどではない。ただ、濃度を示す補助グラフは許容値ギリギリを示していた。
ネファストは眉をひそめる。
(香印をうまく封入できていないな……)
おしゃべりに興じる職員たちをそのままに、モニタールームを出る。調整室の扉をゆっくりと開けた。
中には職員が二人いて、工場規模の調合を模した小型
状況から察するに、片方は香料として封入する〈治癒〉系の芳主。もう一人は香印の香料化作業を担う〈保存〉系の芳主だった。
そこの空気を吸った途端、ネファストは確信した。
アルカに溶け込むはずの香気は逆に吸い上げられ、〈治癒〉を持つ職員のほうへと流れ込んでいる。彼から洩れる香りは、浮足立つように跳ねては沈む。
彼らがどういう表情をしているかは、顔を見るまでもなかった。
怯えている。
「とめられ、な……」
その声は震えていた。傷をふさぐはずの力が、右へ左へと転がっている。〈治癒〉は行き場を失い、鉄の壁を
だが、それは補修ではなく、過剰な力の押し付けだった。
〈治癒〉の香印は、設備そのものを
タンクの接合部が悲鳴を上げている。
「――離れろ!」
ネファストが叫び、香印抑制具を壁から引きはがす。〈治癒〉を出し続けている職員を抱きかかえるように引きはがし、抑制具越しに上から押さえつける。
だが、遅かった。
瞬間、配管がねじ切れた。
タンクがひしゃげたように潰れ、フランジがはじけ飛ぶ。熱風が先に押し寄せ、耳をつんざく衝撃音が続いた。甘い溶剤の匂いに、鉄の臭いが混ざる。
撹拌翼が床に転がり、何かがガラスを叩き割る音がした。
ネファストの身体は後方へ吹き飛んだ。
重たいものが
***
オーベルナ地区の
香印事故の現場へ真っ先に投入されたのは、香特の現場対応班だった。
遅れて現場に立った青年の周囲には、うっすらとラベンダーが漂っていた。
すでに現場入りしていた第七機動班の隊長――グラント・フォッサーは、彼を見つけると片手をあげた。
「シニストル。もう着いたのか」
「飛ばしてきたんだ。……香印の暴走だって?」
「ああ。セルジュがデータを取り終えたところだ。もう突入できる」
「状況は?」
「〈治癒〉系の暴走だな。同系統のおまえに意見を仰ぎたい」
「わかった」
「待て、シニストル。これをつけていけ」
グラントが差し出したのは、マフラー型の香印抑制具だった。首元から胸にかけてを密閉するように巻く仕様。生地は重く、しっとりと吸着する。体温で活性化する香印を、肌と空気の間で閉じ込めるためだ。
それを見たシニストルは、やや呆れたようにグラントを見上げた。
「信じられない。香印が暴走してて、爆発までしてるのに? こんなときこそ僕を使い潰すべきでしょ」
「駄々を捏ねるなよ。〈治癒〉系が暴走してるんだぞ。同系統のおまえまで香料に当てられたらどうするんだよ。……それに、おまえの香印が不安定だって報告を受けてるからな」
シニストルは眉をひそめたが、何も言わずマフラーを受け取った。
しぶしぶ首に巻く。途端に、喉元の熱が閉じ込められた感覚がする。
「暑い……。逆効果じゃない? これ」
「我慢しろ」
「不安定ってどういうこと? 何か手違いがあった?」
「いや……俺にもよくわからん。
その言葉に、シニストルの表情がわずかに陰る。
(ああ……)
息を吐く。
そうだ。わかっている。なんとしてでも抑えなければならない。
すべてを壊してしまう前に。
グラントは、黙り込んでしまったシニストルを見つめていたが、追及はしなかった。代わりにこう言った。
「癒すな、とは言わない。マフラーじゃ完全な封印にはならないしな。だが、頼む。必要以上には使うな。怪我人がいても応急処置にとどめろ」
「わかってる。命令は守るよ」
「……本当は、おまえを投入したくはなかったんだが」
「それこそ冗談じゃない。僕以上の適任がいるわけないでしょ」
苦笑を残し、シニストル・メモアロームは熱の残る実験棟へ足を踏み入れた。
***
熱気と煙の中を、ほとんど手探りで進む。足元でガラスが砕け、煙のにおいが鼻腔を刺す。火は消えているはずだったが、呼吸のたび喉が乾き、余熱で視界が滲む。
幸い、怪我人は多くなさそうだった。
「負傷者一名、応急処置を行う」
通信機に短く告げ、シニストルは片膝をついた。
抑制具の内側から、静かに〈癒し〉を滲ませる。命令通り、応急手当だけ。
「傷は塞ぎました。痛みはありませんか?」
負傷者が弱くうなずくのを見届けて、シニストルは立ち上がる。
「すぐ医療班が来ますからね」
「あそこに、調整室に、まだ……」
「人がいるんですね? ありがとう。見てきますから。ゆっくり休んで」
彼はもう一度うなずくと、それきり目を閉じて、意識を落とした。
弱々しい姿に胸が痛む。この程度の傷なら、平時の〈癒し〉ならものの数分で彼を健康体まで戻してあげられたのに。
だが、命令には逆らえない。
(『聖人は命令違反を悪びれない』。そう言ってたのは誰だったかな……)
浮かんだ記憶の残滓を拾いつつ、一人、また一人と〈癒し〉を与えていく。
ひしゃげたタンクの前に人影が倒れているのを見つけて、シニストルは駆け寄った。全身に切創があったが致命傷ではない。脈も呼吸も保たれていた。
素早く止血と固定だけを施し、意識のない体を抱え上げて扉の外まで運び出す。
ひとまず安全圏に下ろし、再び視線を奥へ向ける。
煙の向こうに、さらに大きな影が沈んでいるのが見えた。
迷いなく煙の中へと突っ込む。
近づいてみると、二人の人間が折り重なって倒れているようだった。
上にいる者は、まったく動かない。
下にいる者は仰向けで、わずかに胸を上下させている。
視界より先に、香りが届いた。
記憶に染みついて離れない、瑞々しいプチグレン。新しい紙のように鋭いセージ。
静かで、誰のことも拒絶しない、優しい香り。
「……ネファスト?」
弾けるように記憶が蘇る。
評価会で出会った青年。あの、まだ名前を持たない香り。
(なぜここに? ……そうか。彼はノブレサントだった。香料業界の重鎮なんだし、工場にいてもおかしくはない、けど……)
動揺で身体の奥が揺れる。めまいにも似た感覚だった。
だが、訓練の染み込んだ足は勝手に走り出し、傍で膝をついている。
先に、ネファストの上に圧しかかっている男をそっと床に寝かせる。
脈はなく、すでに事切れていた。
込み上げてくるものをぐっとこらえながら、ネファストのほうへ向き合う。
ネファストの呼吸は途切れがちで、弱々しい。仰向けでは呼吸がしづらそうで、横向きに寝かせて回復体勢を取らせる。
顔を覗き込んでみるが、視線が合わない。どこを見ているのかもわからない。
香印を発動させる。ゆっくり、ゆっくりと、傷が塞がる。
(……だめだ。遅すぎる)
この速度では、間に合わない。
ネファストの血まみれの指が、シニストルの服を掻く。その動きがあまりにも弱々しくて――あんなに冷静で、不遜な物言いが似合うネファストとはあまりにもかけ離れていて、シニストルは思わずその手を強く握りしめてしまった。
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