第二十三話 矜持が制する距離
昨日、香りは届かなかった。
ならば今日は、手順通りに届ける。触れることが怖くても、調香師として。
「……オブリエ、ちょっといいかな。パッチテストをしたいんだけど」
「ああ。パッチテストね。左腕に頼むよ」
オブリエは視線を落としたまま本を右手に持ち直し、左腕を差し出した。
よほど慣れているらしい。ジャックはありがたく思いながらオブリエの手を取り、腕の内側にオイルを軽く塗った。
香油が肌に触れると、ベルガモットが最初に揮発した。果皮の繊維が割れたときだけに立つ、淡い光をはらんだ苦みと湿気が拡がる。そこに続くのはリツェアクベバ。潰した葉のような青みにレモングラスめいた辛みが混ざり、ベルガモットをからめとる。
わずかに鋭く、揮発は速い。数秒後には、トップノートは表面をすべって逃げていく。
オブリエはふと顔を上げて、オイルの塗られた腕を見た。
「へえ。アロマみたいな香りだね」
「うん。天然香料だけで作ったからね」
オブリエは、そっと息を吸い込んだ。
「これは。……とても、馴染むな」
かすかに揺らいでいたオブリエの姿が、徐々に、だが確実に形を持ちはじめる。
空間に滲んでいた像が、香油の香りとともに、定着していく。
視線が、そこに留まる。
認識が、焦点を得る。
だが、それは持続しなかった。
次の瞬間には、オブリエの像がふっとほどける。
姿が消えるのではない。視線の内側で、彼女の存在が掴めなくなる。
明滅する光のようだ。そこに在るのに、意識が滑っていく。
一瞬だけ。これではダメだ。
ジャックは、手元の試作瓶を睨んだ。
「アルカの持続力が弱すぎる」
香りは、立ち上がりが早すぎるきらいはあったが、おおむね良好だった。
問題はそのあとだ。
(香りがすぐに飛んでしまう)
香りが一定時間とどまらなければ、オブリエの存在を支えきれない。
ジャックは唇を噛んだ。
香りが飛ぶ原因そのものはわかっている。天然香料が多すぎるのがいけないのだろう。
だが、合成香料には頼れない。オブリエの香印に馴染み、かつ安全な〈アルカ〉にするためには、天然香料――精油を使うしかない。それでいて、オブリエの肌に乗ったときに美しく香り、アルカ香料が不安定な香印を刺激しすぎないような処方にしなければならない。
そこが難しかった。
「とてもいい香りだよ。少し、軽すぎるけど」
「そうだね」
やや投げやりな返事をしたジャックを、オブリエは責めなかった。
むしろ楽しげに、冗談めかして言った。
「本当だよ、ジッキー。これは香印調整のオイルマッサージを思い出す。ちょうどこういう香油を使うからね」
瞬間、ジャックの表情がこわばる。
「それは、駄目だ」
思わず出た声は、少しだけ上擦っていた。視線が一瞬、彼女の指先に引き寄せられ、すぐに逸らされる。
オブリエが眉を上げる。その表情は少し面白そうだった。
「なぜ?」
ジャックは小さく息を吐き、香油の瓶に視線を落とした。
「安全性の検証が終わってないからだよ。香りが変質するリスクもある。意図しない反応を起こすかもしれないだろ」
「でも、パッチテストは済んでるよね」
「それすらまだ終わってない。明日にならないとわからない」
オブリエは、少しだけ目を見開いた。
その反応に、ジャックはようやく語気を和らげた。
「……これが安全であると証明できない限り、他人に使わせるわけにはいかないんだ。わかってほしい」
「それは、わたしが自己責任で使うだけでも?」
「たとえあなたが許しても、調香師としてぼくは拒否する」
ジャックはまっすぐに答えた。
この香油は、ただの香りではない。彼女の存在を、この世界に留めるために必要な処方だ。
だからこそ、揺らがせてはならない。
効果がないだけならまだいい。
だが、もしも最初の頃のように、悪化したら?
あのとき――最初につくった〝過去の香り〟がオブリエを攫いかけたように、彼女の姿が消えてしまうことだってある。それが起きたとき、気づく人間が誰もいなかったらどうなる?
「……なるほどね。そういう頑固さは、ジッキーらしいけど」
オブリエは笑った。その笑みは、ジャックが知るなかでもいっとう優しいものだった。
ジャックは背筋を正した。
「よければ、オブリエの
香印調整師はアロマセラピストの一種だ。精油とオイルを駆使して芳主の香印を整える専門家。いわば、香印医療に携わる芳主専門のケアラーである。
「君たちが知り合ってくれるのは、わたしとしてもありがたいけど」
「香印の専門家に、この香油を見てもらいたい。……評価してもらわないといけない」
「納得してもらえなかったら?」
「処方を見直す」
即答だった。だが、それ以外に答えようがなかった。
ジャックは痛感していたのだ。この香油が未完成であることを。
オブリエはわずかに肩をすくめ、軽く笑った。
からかい半分、信頼半分。そんな笑い方だった。
「了解。そういう職人気質、わたしは好きだよ」
ジャックはうなずいた。表情は変わらなかったが、そこには明確な意思が宿っていた。
香りの創造は、芸術にも、賭けにもなりうる。
だが他者に作用する以上は、まず保証でなければならない。
それが職人としての矜持であり、倫理だった。
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