第36話
「あ、柳澤さん熱は?どうだった?」
くるっと振り返った琴ちゃん先生は明るい表情で、いつもの琴ちゃん先生だったから。
「なかったです…全然」
どうせなら熱があってくれたらよかったのに。
そしたら熱のせいにしてこのまま…
「そっか、じゃあ…少しだけ休んでいく?」
いつもならやったーってその言葉だけで元気になれるのに、この空気の中にいることの方がしんどい…かもしれない。
「寒くない?ココアでも入れようか、冷えるようになったから体も追いついてないのかもしれないからね」
「…ありがとうございます」
なんとなく敬語で返しちゃった、琴ちゃん先生に初めてそんな言葉遣いしたかも。先生だからあたりまえだけど、つい友達感覚で馴れ馴れしく話しちゃってたから。
「はい、どうぞ」
コトンっと机の上に湯気立つマグカップが置かれた。甘くていい香りがスーッと流れてくる。
「柳澤さん甘いもの好きでしょ?」
「うん、…大好き」
その香りには勝てなくて、暖を取るようにマグカップを包み込んで両手で囲った。
同じようにココアの入ったマグカップ持った琴ちゃん先生がにこっと笑いながら机を挟んだ前のイスに腰かけた。
「チョコ研だもんね」
「…うん」
ココアをひとくち飲みながら、笑て見せた。愛想笑いみたいな。
私、なんて言えばいいのかな。
「小鳩くん…、チョコ研辞めちゃったんだよね」
「え、…うん」
静かにごくんとココアが喉を通ってく。
小鳩がチョコ研辞めたこと、琴ちゃん先生も知ってたんだ。
「急に辞めたって聞いたから心配してるの、柳澤さんは何か聞いてない?」
「うん、私は…何も」
私には教えてくれないし。
きっと琴ちゃん先生は小鳩本人からチョコ研をやめたことを聞いたんだと思った。
そんなニュアンスだった。
「そっか、…最近どうしてるか全然わからなくてね、前はそんなことなかったのに。高校生って難しいね」
笑ってるのにどことなく寂しそうで、ますます2人の関係がわからなくなる。
あんな小鳩だって見たことなかったけど、今目の前にいる琴ちゃん先生だって私たちに普段見せる琴ちゃん先生じゃない。
「ねぇ、琴ちゃん先生…」
「何?」
それは、踏み込んでもいいのかな。
「琴ちゃん先生と小鳩ってどんな関係なの?」
小鳩は嫌がるかもしれない、けど。
どこからか冷っとした空気が流れてきた。
どこも開いてないはずなのに、暖房の付いたこの保健室で。
ココアを飲んだ琴ちゃん先生がゆっくりマグカップを置いて静かに口を開いた。
「私と小鳩くんね…幼馴染なの」
「幼馴染…?」
小鳩と琴ちゃん先生は幼馴染…!
「そう、家が隣なの。今は1人暮らししちゃってるから、昔はだけど…子供のころはよくうちに遊びに来てたの小鳩くん」
そう話す琴ちゃん先生は少し微笑んで、少し寂しそうだった。
「今でもしょっちゅう保健室来てるけどね、子供の頃からあんまり丈夫な子はなかったからよくうちで一緒に遊んでたの」
じぃっとマグカップの中を琴ちゃん先生が見つめてる。甘い香りがするココアの入ったマグカップを。
「それがお菓子作りだったのね」
少しずつ繋がっていく気がした。
疑問だったことが、点と点が線になっていくような。
私の思っていたことが少しずつ形になっていく。
「最初は私の方が教えてたんだけど、小鳩くん器用だし丁寧だし吸収もいいからすぐに私より上手くなっちゃってて…気付いたら私の方が教えてもらってた」
ふふっておぼろげに笑った。
何かを思い返してるみたいに、懐かしいような表情だった。
「小鳩くんの作るチョコレート、柳澤さん食べたことある?」
「うん、部活で!…あるかな」
「おいしいよね!それでいて可愛いし、本当お店で売ってるみたいな!」
今度はさっきと表情を変えて身を乗り出して瞳を輝かせた。
もうぬるくなってしまったココアの前に両肘を置き、目の前で手を合わせる。
にこやかに笑って、…でもそのあと静かに目を閉じた。
「あれは小鳩くんの愛が詰まってると思うの」
何を思い出したんだろう。
私のココアも飲み切る前にすっかり冷めてしまってもう飲んだところで温まることさえできない。
「昔は敬語で話す子でもなかったのに高校入ったら急に話し出して距離感じちゃうし」
琴ちゃん先生と小鳩の思い出は、温かくて胸がきゅっとなるのに。
「なんでチョコ研辞めちゃったのかな…、あんなに好きだったのに」
あの日私に託したチョコレートはどのチョコレートより想いが込められていた。
小鳩の想いがいっぱいいっぱい。
ひしひしと痛いほどに伝わって来た。
だから羨ましいと思ったの。
それはどうして?って聞かれたら…
小鳩がチョコレートを届けたい人だったから。
小鳩が何より大切にしてるチョコレートを、届けたい人だったから。
「柳澤さんには話してるかと思ったんだけど」
「…なんで?」
「だって柳澤さんといる小鳩くん楽しそうだったから」
笑った顔が眩しい。
私なんて全然、琴ちゃん先生の足元にも及ばない。
チョコレートを開けた瞬間から伝わった小鳩の気持ち。
きっと小鳩は琴ちゃん先生のことが好き。
だから最後に渡したかったんだ。
でも渡せなかったんだよね。
“もうすぐ結婚するの”
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