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 武政瞳は玄関の前に立ち、ドアの下を確認する。

 外出するときはドアに髪の毛を一本挟んである。誰かがドアを開けて侵入した場合、髪の毛が地面に落ちる仕掛けだ。

 瞳の住んでいるマンションはエントランスと各フロアに防犯カメラが設置され、各部屋にも防犯センサーが備えられている。それでも、カメラやセンサーを欺ける超能力者がこの世に存在する以上、古典的な侵入対策と組み合わせた方が安心できる。

 髪の毛が落ちていないのを確認してから、瞳は鍵を開けて家に入る。

 2LDKの間取りのうち、一部屋は猫のためにある。帰宅した瞳は餌と換えの水を用意し、猫の元に向かう。

「おはぎ」瞳は猫の名前を呼ぶ。「ただいま」

 おはぎはメスの三毛猫で、保護猫の譲渡会で手に入れた子だ。今は部屋の一角にあるキャットタワーの最上階で眠っている。

 瞳は少しの間おはぎを眺めてから、残った仕事に取り掛かる。

 まずは、殺した今仲の穴を埋める方法を考える。あの男は自分が風俗に沈めた女の子達と連絡を続けていて、仕事を続けるように宥めたり脅したり、〈催眠〉をかけ直したりしていた。そういった関わりを彼自身楽しんでいたように思う。瞳は“商品”との交流は時間の無駄だと思っているので、全員に片っ端から「働き続けろ」と〈催眠〉をかけて済ませることに決める。

 今仲を従える前は、瞳自ら“スカウト”をやっていた。といっても、繁華街で見つけたルックスの良い女の子に〈催眠〉をかけて、個人情報を聞き出して、使えそうならそのまま働かせていただけだが。今仲が消えたので、また“スカウト”も再開する必要があるか。

 それから傘下の店の代表たちと一人ずつ連絡を取り、トラブルがないか確認する。ややこしい客や、店の金を盗んだ女の子が現れたら、瞳が対処する。奪えるだけ奪って、この世から消す。

 今日のところは、どの店も順調のようだ。瞳はリビングのソファに座り、目を閉じる。



 ふと、兄の“気配”を感じる。

 そっちも仕事中なのかな、と瞳は思う。兄・陸斗は特殊詐欺を中心に活動していて、最近はドラッグの取引にも手を広げようとしている。金や物の受け渡しを行う実行部隊にはツイッターで応募してきた人間を使用するので、陸斗自身が表に出ることはほとんどない。しかし、いざというときには、いつでも実力を行使する用意がある。

 今まさに、兄はその“力”を存分に振るおうとしている。

 心配はしていない。

 きっと大丈夫だ。これまでだって生き延びてきたから。


 過去を振り返る。物心がついた頃からずっと、瞳の人生には暴力の影が付きまとっていた。

 父親は医学部の助教だった。やがてクリニックを開業したが、代々医学部教授を輩出していた一族の中で、父は落ちこぼれ扱いだったようで、その劣等感を紛らせるかのように家族に暴力を振るった。

 最初に根を上げたのは母親で、家を出て行ったきり戻ってこなかった。それからは子供たちが標的になった。長男の陸斗、長女の瞳、それから次男の空。父は外面が良く、家庭外から内部の異変に気づくものはいなかった。

 子供たち3人で身を守るしかない中、陸斗が妹と弟を庇う役割を担った。父の部屋で、兄が一身に折檻を受ける間、瞳と空は子供部屋でその音を聞いていた。瞳はすすり泣く弟を抱きしめながら、自分も涙を抑えられなかった。今でも瞳は思い出す。恫喝する父の低い囁き声。家具が倒れる音。振り回されたベルトが空を切る音。

 陸斗が高校生になる頃には、身長も体重も父を上回るようになり、やがて家庭内暴力はおさまった。そしてその頃には、陸斗と空は筋金入りの不良として地元の中心にいた。

 瞳が家を出たのは高校に入る時だった。父にそのことを伝えるとき、陸斗も立ち会ってくれた。その時点で陸斗に逆らえる人間は周りに存在せず、父も例外ではなかった。

 別の地方の、寮のある高校に進学し、そのままその地方の大学に進学した。臨床心理士を目指そうと考えていた。心に傷を負った人間を癒す仕事がしたかった。

 その頃には、自分の持つ“力”に気づいていた。

 何気なく他人にかけた言葉、励ましやアドバイスが、現実のものになっていくのだ。最初は偶然だと思っていたが、次第に自分自身と相手との間に出現する“つながり”を感じるようになった。それも、最初は幻覚か何かと思ったが、どうやらそうではないらしかった。これを上手く使えば、他の治療で改善しないPTSDや、パーソナリティ障害の患者を救うことができるのではないか、そう考えるようになった。

 家を出てから、父と連絡を取ることはなかった。くも膜下出血で父が死んだ時も戻らなかった。陸斗も空も、瞳が帰ってくることを望まなかった。「お前は俺たちとは違う世界で生きていてほしい」と二人は言った。瞳は兄弟のことを深く愛していたが、同時に心のどこかで恐れてもいた。足を洗って欲しいと思っても、それを伝えることはできなかった。別々に生きた方がお互いにとって良いということは分かっていた。

 瞳は実家に戻ることは一度もなかった――あの日、空が死んだと聞くまでは。


 変わり果てた空の姿の前で、瞳は陸斗から事情を聞く。

 空を襲ったのは、対立する半グレグループ・《裂羅卍蛇サラマンダー》のメンバーだった。縄張り争いが発展した結果、空が一人でいるところを十人がかりで襲撃したのだ。鉄パイプと金属バットが凶器として使用された。

「後のことは俺がやる。落とし前も俺がつける。だからお前には元の生活に戻ってほしい」

 陸斗は瞳にそう言った。瞳はその時初めて、兄にも自分と同じような“力”があることに気づいた。

「私もやるよ」

 瞳は言った。兄もその時、瞳が持つ“力”の存在を認識したようだった。


 復讐は拍子抜けするほど上手くいった。

 “力”による〈催眠〉は、人を傷つけるのにもこの上なく有効だった。「教えろ」と命じればどんな情報も吐いたし、「飛び降りろ」と命じれば、相手はどんな高いところからでも飛び降りた。

 “力”は〈催眠〉を可能にするだけでなく、身体能力を〈強化〉させた。華奢な瞳でも、暴れ者の不良を組み伏せられた。それでもパワーに関しては、陸斗の比ではなかった。

 陸斗は弟の仇を解体ヤードに拉致しては、〈強化〉した手でその腕や足をもぎ、首を引き抜いた。瞳はそれをそばで見ていたが、何も感じなかった。ぶくぶくに変形した空の死に顔を見た時の衝撃と比べると、魚を捌いている程度にしか思えなかった。

 実行犯の最後の一人をヤードの隅に立たせ、瞳は「動くな」と命じた。陸斗はその反対側の隅から廃車になったハイエースを宙に放り投げた。放物線を描いたハイエースが実行犯を叩き潰すと、復讐劇は幕を閉じた。

 復讐の後、瞳は兄の“稼業”を手伝うと言った。もう元の世界には戻れない、と。

 陸斗が泣くのを見たのは、覚えている限りではその時だけだった。アイロンで背中を焼かれても涙を流さなかった兄が、声を漏らして泣きながら、瞳に謝った。


 それからは、兄妹二人で“ビジネス”を大きくした。瞳は自分にも兄にも商才があることを初めて知った。詐欺や風俗で資産を増やし、近隣の不良グループやアマチュア格闘技団体を取り込んで、ヤクザとも渡り合えるくらいの勢力になった。

 いつか《裂羅卍蛇サラマンダー》を破滅させよう――二人はそう誓い合った。そのためには、慎重にことを進めていく必要があった。不必要な抗争は避け、なるべく目立たずに力をつけていかなければならなかった。

 《裂羅卍蛇サラマンダー》は強大だった。幹部が代替わりしてからは、さらに勢いを増していた。それに――断片的な情報から推測すると、向こうにも超能力者がいる可能性があった。もしそうだとしたら、自分が“力”を使えるからといって決して安全ではない。不用意な行動一つが命の危機につながる。毎日が戦場にいるように感じられた。

 歩んできた道を振り返ると、我ながら、人生選択の振れ幅が極端だと思う。かつては人を助けようと志していた時期もあった。今は争い、傷つけ、奪うばかりで、それにも大して何も感じなくなった。大切に思っていた弟を奪ったこの世界の全体が、もうどうでも良かった。

 じゃあなんでまだ生き続けているのか。復讐か。惰性か。

 それとも、唯一残された家族である兄を、独りにしたくないからだろうか。



 その兄の気配が、少しずつ移動するのを感じる。

 標的に狙いを定めたのかな、と瞳は考える。その標的が超能力者かどうかは、うまく感知できない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにせよ、そいつの運命は同じだ。

 かわいそうに、と瞳はほんの少しだけ、その標的に同情してみせる。

 楽に終わらせてもらえるといいね。





 女性を病院の近くまで運んでから家に帰る途中、サラは異変に見舞われる。

 最初は息切れから始まった。立ち止まって呼吸を整えようとしたが、息を吸っても全身に行き渡らない。空気の中で溺れていくような感覚を覚える。

 手が震え、足に力が入らなくなる。

 身体から体温が失われていくのがわかるのに、汗が止まらない。

 壁にもたれかかり、ずるずるとへたり込む。

 サラは突然の体調変化に動揺する。おかしい。私に何が起こってる?

 こんな状態になった原因を突き止めなければ。何かまずいことをしたのか?

 必死に記憶を辿っていると、アユミに言われた注意事項を思い出す。

 ――超能力を使うと、低血糖発作が出て、最悪意識を失う危険もある。

 もしかして、これがその症状? 

 ……待って、私はどれくらいこの力を使った?

 ビルの上を駆け回り、〈念動力〉で宙を飛び、男どもと格闘し、女性を抱えたまま病院まで屋根伝いに走った。

 サラは悟る。私は力を使いすぎたんだ。

 ……まずい。

 ……動けない。

 ……このままじゃ……。

 人の通らない道路の片隅で、サラの意識は暗転する。



 サラの目を覚まさせたのは、炎のような“気配”だった。

 反射的に立ち上がり、周囲を見渡す。

 サラの正面、数メートル先に、その“気配”の主がいた。熊のような巨軀の男だった。

 サラと男の目が合う。男の目の奥には闇が広がっていた。この世に開けられた穴の隙間から地獄を覗いているようだった。

「起こしたか?」男が尋ねる。

 サラは答えることができない。

「疲れてるんだろ」男は話し続ける。「疲れるはずだよな。“力”を使ってあんなに暴れ回ったんだもんな。俺の縄張りで」

 サラは男を睨む。それが今の自分にできる精一杯だった。口が震えるのを抑えようと、必死で歯を食いしばる。

「ただでは済まさないが、その前に聞きたいことがある。一緒に来い」

 男はサラの方に足を踏み出す。

「うああっ!」

 サラは叫びながら〈念動力〉を発動し、男を捉えると、後方に向かって投げ飛ばす。

「うおっと」男は短く驚きの声を上げ、地面に転がる。

 その隙に、サラは残りの“力”を振り絞って、目の前の建物の屋上に駆け上がる。


 サラの“力”は長くは続かない。

 すぐに体力が尽き、ビルとビルの間を飛び移ることができなくなる。今の状態では、地上に飛び降りるだけで大怪我をしかねない。

 屋根に登ったことは失敗だったとサラは気づく。普通に走って、人の多い場所に逃げ込むべきだった。

 屋上の手すりにしがみつきながら、必死に頭を働かせる。

 一体、あいつは何者なんだ。何で、私が“力”を使えるって知ってたんだ。

 アユミから注意された記憶が蘇る――超能力を使えば、他の超能力者に察知される。“力”を使えば辿られる可能性がある。

 意識から抜け落ちていた。“力”を磨くことばかりに気を取られていた。

 もっとちゃんと、アユミの言うことを聞いておけばよかった。


 背後に“気配”を感じる。

 手すりを支えにしながら振り向くと、さっきの男が仁王立ちになっている。

「まさかあれで終わりってことはないよな?」

 男は薄い笑みを浮かべている。

 サラは全身の血の気が引いていくのを感じる。足に力が入らなくなる。今立っている場所が、塵になって崩れ落ちていくようだ。

 これから起こることを想像する。今まで抽象的なものでしかなかった“死”が、少しずつ実体を得ながら近づいてくるのを感じる。

 アユミの声が、心の中で再生される。

 ――“力”を使い過ぎて動けなくなったところで敵の超能力者に追いつかれたら、命はないよ。

 命はない……?

 そんな。

 嘘だ。

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