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2019年5月12日
亜由美はそれが夢であることに半ば気づいている。
何度も繰り返し見た光景だった。だからといって、不快感が減衰していくことはないが。
爆風を受けた後のように滅茶苦茶になった部屋の床に横たわる若い男。その男を中心に広がる歪んだ空間。その中で少しずつバラバラになっていく人たち。イメージの断片を無理やり繋ぎ合わせたような映像が、亜由美の夢に投影される。
自動的に生成されるそれらのイメージを、夢の中の亜由美は直視することにする。
これが何かは知っている。
――制御できなくなった超能力が、〈
“力”の暴走。亜由美が唯一実際に経験した、〈
ふと、サラのことが心に浮かぶ。
そうだ、あの子にも、この〈空間〉の存在を教えないと。
亜由美の心は半ば無意識に夢の中で彷徨いながら、サラの姿を探す。
記憶の断片から生まれたコラージュ作品が、ザッピングのように切り替わっていく。
やがて像を結んだ風景の中で、彼女を見つける。
サラは傷つき、地面に横たわっていた。
顔からは表情が消え、力なく手足を投げ出している。
その変わり果てた姿を見て、亜由美は声を漏らす。
サラ……?
サラ!!
叫び声を上げようとしたそのとき、喉から出かかった声が、亜由美を夢から現実世界に引き戻す。
ベッドから跳ね起き、周囲に意識を向ける。
そこはいつもと変わらない、自分の部屋だった。
亜由美はベッドに腰掛け、深呼吸を繰り返す。Tシャツの下で、汗が脇腹を流れ落ちるのを感じる。
これは夢だ、と自分に言い聞かせる。夢で良かった、と。
何度も同じような夢を見てきた。でもこれまでと一つ違うのが、サラが登場したことだった。それも、瀕死の姿で。
それは……何かを暗示しているのか?
夢という現象自体、メカニズムが十分に解明されているわけではない。そんなあやふやな存在のコンテンツに、意味を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。それでもその夢は、亜由美を不安にさせた。
iPhoneを手に取り、時間を確認する。朝の6時を回った頃だった。
一瞬悩んだ後、亜由美はサラにメッセージを送る。
「ヘイ」
とりあえずそれだけ送ってみる。
送ってはみたものの、この時間にメッセージはやはり非常識だったか――と考える間もなく、サラから返事が来る。
「よっ、どしたの?」
どうやら酷い目に遭っている感じではなさそうだ。安心したのと、夢に振り回された自分が滑稽に思えたのとで、亜由美は思わず一人で笑ってしまう。
続けてサラから「次はいつにする?」とメッセージが届く。
「来週かな。予定確認しとく」と返す。
それから「私との約束、ちゃんと守ってる?」と付け加える。
亜由美がサラとした約束――私のいないところで“力”を使わないこと。
「はい、先生」とサラから返ってくる。その直後に、舌を出した絵文字が届く。
知らぬ間に、不安や緊張や、身体に纏わりつく不快感は消えていた。
シャワーを浴びて汗を流しながら、これでいいんだ、と亜由美は思う。今朝のことは全部忘れて、日常を生きよう。
亜由美は午前中の時間を勉強に充てる。勉強しなければ、進級に差し障りが生じる。上の世代の人と話すと、自分がいかに大学時代勉強しなかったかを自慢されることがあるが、今はそんなゆとりのある時代ではない。ただ亜由美自身について言えば、勉強は苦痛ではない。むしろ、新しい知識を得るのが好きな性分なので、楽しんでいる。
それから家を出て、少しだけバイト先の予備校に寄り、小テストの採点や授業の準備をしておく。日曜日でも大体何人かはバイトの講師がいて、その人たちと世間話程度の言葉を交わしたりする。
軽く食事を取ってから、ジャズ研の部室に向かう。学祭で一緒に演奏するメンバーと合流した後、そのうちの一人が予約したスタジオに場所を移す。
本番の演奏が来週に迫っていたが、なかなかバンドのメンバーの予定が合わず、全員でできるリハーサルはこの一日だけだった。そのことが逆に適度な緊張感を生み、自然と練習も熱の入るものになる。
亜由美はこの後同級生と飲み会の予定が入っていたのだが、練習が長びきそうなので、幹事の佐山に遅れる旨を伝えておく。
スタジオの延長を重ねて、解散した時には、日はすっかり落ちていた。
亜由美は急ぎ足で、飲み会の会場に向かうことにする。
居酒屋に入ると、若い店員が駆け寄ってくる。
「ご予約の方ですか?」
「はい、佐山って名前で予約してます」亜由美は店を予約した友人の名前を出す。
「かしこまりました、お連れ様ご案内しまーす」
亜由美は個室に通される。そこには同級生が5人集まっていた。亜由美は着くのが遅くなることをあらかじめ伝えていたので、彼らは先に飲み会を始めていた。
「おっすー」佐山が手を上げる。
「おっすー、ごめん遅くなった」亜由美は挨拶して席に着く。
「何してたの?」
「ジャズ研の練習。来週文化祭で弾くから」
「へー、かっけー」佐山は感心したような声を出す。「ジャズとか全然わかんないな。聴いてみたいなとは思うんだけど、どれから聴いたらいいの?」
亜由美はその質問に対するベストアンサーをまだ見つけられていない。なので毎回相手によって別の答えになる。
「何やろ……佐山くん普段どんな音楽聴くの?」
「最近ヒップホップとか好きかも。MCバトルの動画とかよく見てるし」
「へえ、良いやん。それなら最近のジャズとかから聴いたら? ロバート・グラスパーとか、ヒップホップとジャズを融合させたみたいな感じだし。大体サブスクで聴けるから色々つまみ食いしても良いんじゃないかな」
亜由美が頼んでいたビールが運ばれてきたので、みんなで乾杯をする。
「神前さんってあんまり絡んだことなかったよね」
話しかけてきたのは成田だ。確か佐山と同じテニス部だった。
「確かに。でも1年生のとき同じ授業取ってなかった?」
「取ってた取ってた」成田が答える。「あの、ちょっと思想強い感じの教授のやつだろ?」
「そうそう」亜由美は笑う。「レポートが楽だって噂だったんだよね」
「何それ、俺知らなかったよ?」佐山が話に入る。
「あの科目の一番のレジュメ何かわかる? 教授のツイッターだよ」
成田がふざけて言い、一同の笑いを取る。
それから亜由美に話を振る。
「思い出した、神前さん、あの教授のモノマネめちゃくちゃ上手かったよな」
そんなことしたっけ。亜由美は少し気恥ずかしくなる。
「いや、ちゃうやん、それはあの先生のクセが強すぎるから……」
「それだけよく観察してるってことでしょ。というわけでもう一回やってよ」
「もうちょっと場が温まってからな」
そう言って亜由美は笑う。
他愛もない会話をするのは随分久しぶりな気がした。東京に戻ってきてからこの一週間、ずっと気を張っていた。今仲の入院、その殺害、サラへの超能力のレッスンと、異常な事件や出来事が続いていた。まだまだ気を抜けない状況が続くが、今ここでは普通の大学生みたいに笑っていられる。
「前から思ってたんだよ」成田が言う。「神前さんって、落ち着いてそうに見えて実は超面白い人なんじゃないかって」
「いやいや」亜由美は苦笑する。「そんなん言われたらやりづらいわ」
「神前さんの面白いところを、こう、引き出したいのよ」
成田は話題を提供し会話を進める役割を担うことが多い。そして実際、それに成功している。ムードメーカー的な人物なのだろう。お酒が回っているのか、声が大きくなっている。
亜由美は会話を楽しみながら、ここにいる人たちに自分はどう映っているだろうかと思う。ずっと努力して作り上げてきた外面は、そんなに周りを不快にさせることはないはずだ。でも、私の秘密を知ったら、きっとみんな逃げていく。
他のクラスメイトの噂話をしたり、友達関係とか恋愛みたいな、青春って感じの相談をし合ったり、そんなことにはいくらでも対応できる。でも、本当のことを他人に打ち明けられる日は、私には永遠に訪れないんだ。
そんなことを考えていると、感じないようにしていた不安が再び迫ってくる。
病院に忍び込んで、自殺に見せかけて人を殺すような超能力者が、まだこの東京に野放しになっている。そしてその恐ろしさを、サラが十分に認識しているようには思えない。
そんな彼女に、超能力を教えることが適切な判断だったか、いまだに自信が持てない。かえって危険な行動を助長することになりはしないか。
そして、それだけじゃなくて、これは自分自身の在り方の問題でもある。
サラと会って時間を共有すればするほど――超能力者として過ごすほど――他の人たち、例えば同級生や、バイト仲間との距離が遠ざかっていくように感じるのだ。
超能力と共に生きる世界と、普段の日常の世界。亜由美にとって、その二つは層状に重なってはいるが、本質的に異なるものだ。その異なる世界を跨ぐように自分は立っていて、超能力の世界に重心を移せば移すほど、これまで努力して守ってきた日常が薄まって、他人事のようによそよそしく思えてくる。まるで、スクリーン越しに現実を見ているかのように。
本当に、それでいいのだろうか。
「神前さんはどう思う?」
不意に訊かれ、どきりとする。
「えっ、聞いてなかったの?」
成田がおどけて言う。亜由美は一応、会話の流れは追っていた。
「いや、あれでしょ、成田くんが初デートで失敗した話でしょ」
「そうそう」
「聞いてなかったからもう一回話してよ」
「いや、絶対聞いてただろ! 嫌だよ二回も恥ずかしいエピソード話すの!」
成田がそう言い、みんなで笑う。
亜由美は笑うことで緊張が少しほぐれるのを実感する。
思い詰めても仕方がない。今はせめて、サラが危険なことをやらかしさえしなければ、それでいい。それ以外のことは、後で悩もう。
夕食の後、サラはいつものようにランニングに出る。
街路樹の並ぶ表参道を曲がり、細い道に入る。小さなブティックやカフェ、コインパーキングの並ぶ道からさらに角を曲がる。
誰も人がいないことを確認してから――素早く建物の屋上に飛び乗る。
別に家族には嘘はついていない。「走ってくる」と言ったが、屋根の上を走らないとは言っていない。
サラは屋上から屋上に飛び移りながら、感覚の変化を味わう。ただ並んで建っているだけのビルが、自分にしか認識できない“道”を教えてくれているように感じる。まるで川を渡す飛石のように。
大きく手を広げて空気を吸い、自由の香りを楽しむ。
新たな“力”――〈念動力〉が開花して3日経つが、自主練の方は順調だった。目を閉じなくても空間を〈認識〉したり、〈念動力〉を発動できるようになってきた。物を〈念動力〉で動かす向きや速度のコントロールも上達したし、机やベッドのような重量の大きなものも浮かせられるようになった。
今度会った時、不意打ちでアユミを浮かせてみようか。そんなことをサラは考える。どんなリアクションを取るか想像すると、何だか笑えてくる。
次に飛び移る建物の奥に、一際高いビルが見える。自分が今立っている場所と比べても、倍以上はある。
サラはすぐそばまで近寄り、見上げる。〈身体強化〉を使っても、垂直跳びで飛び移るのは、今の自分には難しそうだ。かといって、足場にできそうなものも周りにはない。
でも――この上に登りたい。
しばし考えたサラは、思いつく。〈念動力〉を自分自身に使うことはできないか。
これまでは、自分と他の物体との間の“引力”――実際のところはわからないが、そんな感覚だ――を操っていた。自分に使う場合はどうなる?
目を閉じて、空間を〈認識〉する。自分の重さを感じ、“引力”を感じる。ただそれは――不思議な感覚だが――地球と引き合っているわけではないようだ。なら、自分の身体が別の方向――例えば、上方――から引っ張られるような感じで……。
サラは自分の身体が地を離れるのを感じる。
これだ。この感覚だ。
ぐい、と宙に引っ張られ、夜空に舞い上がる。それから先は、他の物体を操作するのと同じようにできた。
バランスをとりながら、高層ビルの屋上に向かって飛翔する。
到着すると、〈念動力〉を切り、両足で着地する。
「やった!」サラは叫び、両手を突き上げる。叫んでも聞かれる心配はない。
その場で座り、一旦息を整える。まだ船に揺られるような浮遊感が残っている。
深呼吸を繰り返し、感覚が元に戻ってくるのを確かめてから、屋上の端に歩み寄り、そこから地表を見下ろす。縦横に走る道路を街灯の光が満たし、その中を無数の車が行き交う。
自分一人の力で、こんなに高いところに辿り着けたのだという実感が湧いてきて、笑みが溢れる。もっとこの“力”が上達したら、東京スカイツリーとかブルジュ・ハリファの先端まで飛べるようになるんじゃないか。
「フゥーッ!」サラは高揚感のままに、声を上げる。
このまま私は、どんなところにだって行けるし、何だってできる。
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