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2019年5月10日
携帯のアラームの音で杏子は目を覚ます。
時刻は午前8時。家に帰ってシャワーを浴び、眠りについたのが午前4時前だから、4時間は寝られたことになる。普段は自然と目が覚めるので、アラームに起こされるのは久しぶりだった。疲れが溜まっていたのだろう。
深く呼吸しながら体を伸ばし、静かに起き上がる。確かに、昨日は疲れた。人の話を聞いて情報を得たり、目的を達成するために他人と協力したりするのは、超能力を使うよりもずっと難しくて、疲れる。ただ、それでもやらなければならない。
杏子は手早く支度をすると、家を出て警視庁に向かう。
石井は小さめの会議室を用意して待っていた。
「今日は伊関さんだけか」
「はい。瀬崎は別件で対応中です」
「そうか。昨日は眠れたか?」
「はい、少しは。石井さんこそ……」
「俺も仮眠はとったよ」
石井の服装は、夜に会ったときと変わっていなかった。疲労の色も見えたが、まだ覇気の方が上回っていた。
「梶本さんの件は、どうなりましたか?」
「対応しといたよ。借金のことは弁護士にも相談するつもりらしい。まあそれが良いだろうな」
「ありがとうございます。……遅い時間にすみませんでした」
「気にしなくていい。これが俺の仕事だからな」
そう言いながら石井は用意していたノートパソコンを立ち上げる。
「それと、これが防犯カメラの録画データだ。この建物から持ち出すことはできないから、ここで確認しよう」
「本当に、ありがとうございます」
杏子は深く頭を下げる。
〈催眠〉で金銭を奪われた被害者の対応も、監視カメラのデータの共有も、やりがいが少なくて手間のかかる仕事だろう。それをあんな夜中に頼んだのに、嫌な顔ひとつせずにやってくれた。
それに石井は、“力”の存在を知っている。
人を操り、電子機器を乗っ取る超能力者を警視庁に招き入れ、機密情報を提供する――それがどれほどリスクを伴うものか、理解していないはずがない。でもその上で、情報提供の依頼に応じてくれた。得体の知れない“力”を持つ私を、信頼してくれた。
もちろん、彼にも目的や打算はあるのだろう。だがそうだとしても、なかなか簡単にできることではないと、杏子は思う。
石井が映像データを開いていく。渋谷区に設置された21台のドームカメラに録画された、昨日の20時から23時頃までの街の映像が目の前に現れる。
杏子と石井は、まず梶本――〈催眠〉の被害者――の姿を探すことにする。
梶本の証言によると、要所要所で後ろから声がして、その声に何の疑問も抱かずに従っていた、ということだった。犯人は梶本の後ろに付いて歩きながら、必要なときに“命令”を与えていたのだろう。つまり、梶本の姿が録画データで確認できれば、その後方に犯人がいる可能性が高い。
他に手持ちの情報としては、梶本の供述による犯人の特徴がある。杏子が作成した似顔絵もある。
それらを用いて、この情報の山の中から犯人を見つけ出す。
映像の中の梶本は、思ったより早く発見できた。
行動記録から歩いたルートとその時間を推測し、録画データと照らし合わせたところ、円山町から道玄坂に入るあたりの雑踏の中にその姿が見えた。
「梶本さんの証言が正確で良かったですね」伊関が言う。
「女癖と違って記憶力は良いみたいだな」
石井は冗談を言って笑う。
杏子はそれに合わせるように笑うと、画面に目を戻す。
この映像のどこかに、犯人がいる――そう思って目を凝らすが、見つめれば見つめるほど、自分が何を見ているのか分からなくなり、目がチカチカしてくる。
昔から、杏子は目が疲れやすかった。大量の視覚情報を浴び続けると、頭の中で処理が追いつかなくなり、それらが意味を持ったものだと感じられなくなるのだ。
硬く目を閉じ、眉間とこめかみをマッサージしてからもう一度スクリーンを見るが、あまり視覚は改善しない。雑踏であるはずのものが、ただの映像の乱れにしか見えない。
そのとき、石井が声を上げる。
「……こいつじゃないか」
石井が画面を指差す先に、杏子も目を向ける。そこだけに目を凝らすと、少しずつ画像が認識できるようになってくる。
梶本の後方、およそ5メートルほど離れて歩いている女性の姿がある。身長はおそらく160センチ台、細身、ライダースジャケット、髪は黒色で前髪を切り揃えている。梶本の言っていた特徴と一致している。
「可能性は高いですね」
杏子は画面を睨んだまま答える。
石井は背中を伸ばし、大きく息をつく。
「何というか……信じられない感じがするな。催眠術で人殺すような奴が、こんな普通に街に溶け込んでるなんてな」
杏子は黙って頷く。
「まあ、人なんて見た目によらないものだけどな。……それで、これからどう動くんだ?」
石井に訊かれ、杏子は答える。
「今、犯人の属するグループについて調査しているところです。ここで得た情報と合わせて、居場所を探っていきます。……ここから先は私に任せてください。相手が危険すぎます。石井さんには、周辺情報の捜査と……それから、他の警察官が“真犯人”に接近しないように気を付けていただけると有難いです」
「そうしよう。……信頼していいんだな?」
「はい」
「じゃあ、頼むぞ。……俺が心配することじゃないだろうが、くれぐれも気をつけろよ」
杏子は頷く。自然と背筋が伸び、気が引き締まる。
私は超能力者を片づけられるが、石井はそれができない。私には“力”があり、彼にはないから。でも、人間としては向こうの方がずっと上だと感じる。
その石井が、私を信頼すると言ってくれた。それを裏切るわけにはいかない。
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