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現場検証を終えた三人は病院を後にする。桜田門のあたりで石井を車から下ろし、それから瀬崎と伊関は新宿にある探偵事務所に戻る。
瀬崎の運転する車の助手席で、伊関杏子は窓の外の景色を眺める。新宿通り沿いの、色彩と統一感のないビル群。森の下に潜るように走るトンネル。それを抜けると高い建物が増える。ビル壁面のガラスに空が映る。東京都庁の二つ並んだ摩天楼が遠くから頭を覗かせる。
取り立てて言うほどのことでもない景色を見ているだけなのに、すぐに視界がぼやけ、両目の奥から鼻の裏側のあたりまでが凝り固まってくる。目を瞑り、こめかみや目元をマッサージしてから、もう一度車外の景色を眺める。視覚を意識的に使うようにする練習のつもりだった。効果があるかはわからないが。
杏子は生まれつき、普通の五感を使わずに外界を認識できる〈感覚〉を持っていた。そして周囲の情報を得るのにその〈感覚〉に大きく頼っていた。自分では覚えていないが、小さい頃から視線が合いにくく、そのくせ大人があやすと明後日の方向を向いているのに反応するので不思議がられていた、と後になって聞いた。杏子は小さい頃から視力が悪かったが、おそらく目を使わなすぎたせいで、視覚が十分に発達しなかったのではないかと自分では思っている。
物心がつく頃に、その〈感覚〉は自分にしか備わっていないことに気づき始めた。例えば背中側の何かが気になるとする。自分はそちらに〈感覚〉を集中させるだけで把握できるが、他の人はそちらに顔を向けなければいけない。
視線がコミュニケーションにおいて重要になることも、少しずつ学習していった。例えば後ろから話しかけられたとする。そのとき、そちらに〈感覚〉を集中させるだけでは、自分が話を聞いていることが相手に伝わらない。振り向いて初めて、反応したと受け取ってもらえる。
それは自分以外の人間には当たり前のことなのかもしれないが、視覚よりも〈感覚〉に頼りがちだった杏子にとってはなかなか実感が湧かなかった。それで周りの人のように自然に視線を動かすことができず、「目が泳いでる」とからかわれたり、話を聞いていても「無視された」と責められたりすることもあった。
なので、周囲から浮かないための練習の一環として、意図的に〈感覚〉を無視したり、視覚に集中し視線を適切に動かす訓練をしてきた。今では自然に振る舞えるようになったが、今日みたいな場面――集中しなければいけない場面では、どうしてもアイコンタクトが疎かになる。石井という刑事に私はどう映ったかだろうかと杏子は思う。どこ見てるかわからない妙な奴と思われなかっただろうか。
「なあ杏子、石井のことをどう思った?」
運転しながら瀬崎が杏子に話しかける。
「そうですね」杏子は少し考えてから、瀬崎の方を向いて答える。「かなり驚かせてしまったかなと思います」
「あいつの心配ならしなくていいよ」
瀬崎はそう言って笑う。
「でも……超能力のことを知ろうとされていました。私なんかが言うのは恐れ多いですが……強面ですけど、柔軟でオープンな思考を持っておられるんだと思います」
杏子はそう続ける。
これまでも警察と仕事をしたことはあるが、瀬崎以外の一般人の前で超能力を披露したことはなかった。いたずらに怖がらせたり、警戒させたりする必要はないと考えてのことだ。
今回は、事前に瀬崎から石井がどんな人物か聞いていた。二人で話し合い、敢えて超能力を見せることにした。先のことを考えると、少しずつこの“力”の存在を知る人を増やした方がいい、という点で二人の意見は一致していた。
「味方になってくれると心強い男だよ」
瀬崎はにやりとする。
探偵事務所に戻ってから、杏子は報告書や事務作業を片付ける。
杏子は今回の事件に関わる前に、浮気調査の依頼を受けていた。妻が夫の不貞を疑って相談に来る、よくあるケースだ。普段受ける仕事のほとんどは浮気調査か身元調査で、超能力を使う犯罪者を追う仕事なんて、例外中の例外だ。
対象の夫の尾行、張り込みは済んでおり、あとは調査報告書を作って妻に説明するだけだ。報告書には調査期間、対象者の情報、行動記録、全て正確に記載してまとめる必要がある。適切に結果を説明できなければ、顧客の利益にならないし、信頼も得られない。どんな特別な“力”を持っていても関係ない。
そういった仕事の作法を、杏子は瀬崎から学んだ。瀬崎は超能力者ではないが、探偵として――もっと言えば社会人として、杏子の師というべき存在だった。
夕方になって、杏子は再び外出する。
新宿御苑の外周に沿って走る道路の歩道を、公園の樹々を右手に見ながら歩いていると、一台の車が杏子の横を通り過ぎる。
黒のランドローバー・ディスカバリー。
それは杏子を追い抜いたところで、路肩に寄せて停車する。
杏子はその車の助手席のドアを開ける。
「よう」
運転席から杏子に挨拶したのは若い男だ。黒い髪の耳周りと首のラインを刈り上げ、トップは七三に分けて後ろに流している。掛けている眼鏡は縁の細いボストン型。オーバーサイズTシャツと黒のテーパードパンツに、ティンバーランドのブーツ。左の手首にはApple Watch。バンドは付属品ではなく、シルバーの金属製のものに付け替えてある。
杏子の求めに応じて参上したこの男、名前は庵原颯介という。
「久しぶり。新しい車だね」杏子が言う。
「ちょっと前に買ったんだよ。良いだろ」
「こんな派手な外車で仕事するの?」
「まさか。これはプライベートの車だよ。普段の仕事は会社の車でやる」
颯介と杏子は“同業者”だ。それも二つの意味で――二人とも探偵で、かつ超能力の使い手でもある。
普段は別々に仕事をしていて、接点を持つことはない。ただ、気になる事件――主に超能力者の関与が疑われる事件――があれば、お互いの利害が一致する範囲で、情報を共有したり協力したりしている。
「まずは、分かってることを教えて欲しい。協力できるかどうか、どこまで協力するかは、聞いてから判断する。言うまでもないが、ここでの会話は決して他言しないことを約束する」
そう言って、颯介は車のアクセルを踏む。いつもドライブをしながら、二人の密談は行われる。どこを走るかは颯介が適当に決める。
杏子はこれまでの経緯を話す。渋谷の路地裏で超能力者1名とスタンガンで武装した一般人5名が攻撃され、昏睡状態に陥ったこと。襲った側は2名の超能力者であること。被害に遭った超能力者・今仲涼太は大学病院に入院中に、侵入した超能力者――先の2名とはおそらく別人――により、自殺に見せかけて殺害されたこと。
「へぇ……大胆なことするな」
颯介は眉をひそめる。
「俺は基本、“力”で何しようが好きにすればいいと思ってるけど……そうか、そこまでやる奴も出てくるようになったか」
「時間の問題だったと思うよ」杏子がぼそりと言う。
「いつこんな事件が起こってもおかしくないと思ってたのか?」
「うん。というか、いつか必ず起きると思ってた」杏子は答える。「証拠を残さずに病院で人を殺したり、大勢を一瞬で廃人にしたり――そんなことくらい超能力者なら、やろうと思えばできる。もっと酷いこともできる。もちろん、“できる”のと実際に“やる”のとは違う。警察にバレないやり方で気に入らない奴を殺したり洗脳したり“できる”からといって、超能力者が全員いつもそうするわけではない。でも、その超能力者の気質とか、置かれた状況や背景が重なり合うと、常軌を逸した暴力は普通に起こり得る。それは確率の問題で、時間の問題だよ。そう思わない?」
「……ま、そうかもな」
颯介は運転しながら呟く。
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