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 2019年5月7日



 自分のいる部屋がどんな部屋か、今仲にも何となく分かるようになってきた。

 天井。壁。一角にトイレ。それと自分が寝ているベッド。

 今はどうやら夜で、窓の外は暗い。部屋の電気も消えていて、常夜灯の光が扉の小窓から入ってくるだけだ。

 ここは病院だと聞いた気がするが、上の空で聞いていたからか、確証は持てない。でも、病院のような気がする。

 その程度のことを考えるのが、現在の今仲の限界だった。だが、思考が制限されているという感覚はない。今考えられることが全てだった。以前の自分がどんなことを考えていたかも分からない。そもそも“以前”が何か分からない。

 ただ、上手く認識できない違和感がある――情けない、申し訳ない、謝りたい、そんな感覚なのだが、今仲はまだそれを脳内で言語化することができない。

 食事はなんとか取れるようになった。最初は目の前に出されたものをどうすればいいのか途方に暮れたが、少しずつ勝手が分かってきて、自分でスプーンを使って、ぎこちないながらも食べられるようになった。

 食べている間、白だか青だかの服を着た看護師がいつも見守っているので、その人に自分が感じている違和感を知ってほしいが、どうしたらいいのか分からない。その人が自分に話しかけてくるように、こちらも話せばいいのだが、今仲は“話す”という機能をまだ上手く選択できない。

 医者らしき人に、ご飯食べれてるね、良くなってきてるね、と声をかけられる時がある。“良くなる”のがどういうことなのか、今仲にはわからない。良くなれば、この違和感がすっきりするのだろうか。何をしたらいいか、ちゃんと選択できるようになるだろうか。


 そんなことを、脳を最大限使って考えながら、寝返りをうつ。部屋の扉が視界に入ってくる。

 扉の窓の向こうに人影が映る。

 女性がこちらを覗いている。

 初めて見る気がする顔だ。

 もう少し顔を観察する。

 いや、違う――俺はこの人を知っている。

 “あの人”だ。

 瞬間、今仲は恐慌状態に陥る。心拍数が急上昇し、呼吸が苦しくなる。汗が噴き出る。叫び声を上げることはできない。叫び方が分からない。

 女性は無表情でこちらを見ている。そして手を窓にかざす。

 今仲は驚愕する。女性の手から、目に見えない“何か”が自分に向かって伸びてくるのを感じたのだ。

 “それ”から逃れたいが、パニックのせいで、体をどう動かせばいいかわからない。

 急に体が動き、ベッドから起き上がって座る。

 違う。今のは俺がやったんじゃない。今仲は混乱する。

 来ているTシャツを脱ぎ始める。これも俺がやってるんじゃない。

 体が操られている!

 今仲は必死で頭を回転させる。どうしてこんなことが起こる? まだ“良くなってない”からなのか?

 だとしたら、早く良くなれ……良くなってください!

 勝手に涙が流れ出し、止まらない。泣きながら今仲は新しい機能――“祈る”を選択する。良くなってください、良くなってください、良くなってください、良くなってください、良くなってください、良くなってください、良くなって――。


 祈りは届かず、心の声は吹き消される。

 代わりに他所から来た考えが今仲の精神を占拠する。

 ――このTシャツを喉に詰めて窒息しよう。

 そうしよう。

 今仲はその考えを実行する。



 今仲がTシャツのほぼ全てを口の中に詰め込むのを、瞳は窓の外から眺める。

 その顔の色が赤から紫に変化し、何度か全身の痙攣を起こした後に動かなくなるのを確認してから、病室の前を去る。

 病室は施錠された区画の中にあるので、出入りするのに鍵が要るが、その鍵は看護師から“拝借”していた。瞳は区画のドアから外に出て、施錠を確認すると、巡回している夜勤の看護師――鍵の“貸主“だ――の背後から近寄り、制服のポケットに鍵を忍び込ませる。

 瞳の行ったことは何一つ認識されていない。

 看護師には〈催眠〉がかかっているからだ。

 監視カメラも〈制御〉してある。瞳がカメラの撮影範囲に入っている間は映像をフリーズさせているし、看護師との鍵の“やり取り”はカメラの死角で行なっている。映像データ上では不審な点はどこにも残らない。

 誰も、何も、自分を認識しなかった。それは、自分が存在しなかったのと同じだ。

 ただ残された結果から、人は判断するだろう。

 今仲涼太は自殺した、と。


 瞳は早足で人のいない病院の廊下を歩いていく。その間も監視カメラは瞳を捉えられない。

 病院は好きじゃなかった――好きな人間の方が変だろうけど。どうしても、家族の死を思い出されるのだ。それは自分の人生が完全に道を外れていくきっかけだった。まあ、道を外れることを選んだのは自分自身だけど。

 夜間出入り口の受付に座る守衛に〈催眠〉をかけて動きを止めてから、瞳は病院を出る。

 自動ドアをくぐり抜けたところで、院内に放送が流れる。

 患者の急変を告げる放送が。

 瞳は自動ドアが閉まるのを見届けてから、病院を去る。

 装着していたラテックス製の手袋を外し、ポケットに入れる。履いていた靴と合わせて、帰る途中に処分することにしている。


 これで終わりじゃない。

 瞳は歩きながら考える。

 誰が最初に今仲を昏倒させたのか、突き止めなければならない。

 あの“力”の使い手、一体何者なのか。

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