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 2019年5月6日


 連休明けの初日、亜由美は病院に向かう。

 外来受付に行き、手続きを済ませた後、看護師が亜由美に声をかける。どうやら松宮は今救急外来の方にいるらしく、少し待ってもらうか、救急の診察室で手短に診察するかを決めてほしい、とのことだった。

 亜由美は救急外来に行ってみることにする。どうせそんなに話すことはないし、待たない方が良い。それにしても、精神科で救急って、あまりなさそうなイメージだ。


「ごめんなさいね。急に患者さんが転院してくることになって、バタバタしてまして」

 今日の松宮は白衣の下にブルーのスクラブを着ていた。失礼かもしれないが、あまり似合っていない。

「調子はどうですか?」

「最近は割とよく眠れてます」

「そうですか。何か、改善したきっかけに心当たりはありますか?」

 きっかけ、か。亜由美は考える。

 そういえば、“力”を使った夜から寝やすくなったし、悪い夢も見なくなった。もしかして両者は関係しているのだろうか――どう関係しているのかはわからないが。

 でもさすがに、超能力のおかげで寝れるようになった、なんて精神科医に言うわけにはいかない。

「いや、わからないです」

 亜由美は無難に答える。

「連休はどうでしたか」

「はい、実家でゆっくりできました」

「いいですね。京都で連休」

「高校時代の友人に会って、食事に行ったり」

「充実してますね。いいですね。そういえば、文化祭は何かするんですか」

「一応、ジャズ研で生演奏のジャズ喫茶やります」

「へぇ、すごいですね。ジャズ良いですよね」

 そんな感じで、診察を終える。

 そういえば、去年の連休明けもこんな感じの話をしたなと亜由美は思い出す。寝れているか、食べれているか、連休中の過ごし方、文化祭の出し物、などなど。

 深い含蓄のある精神療法を受けているわけではないが、それが必要になるような事態が発生していないことを確認し合うだけでも、何らかの意味があるのかなと思う。



 診察室を出たところで、ストレッチャーが置かれていて、医療スタッフが周りを囲んでいる。

 さっき松宮先生が言ってた、転院してきた患者さんかな――。

 そう思い、亜由美は何気なくストレッチャーに横たわる人の顔を見る。

 どこか見覚えのある、若い男だった。

 血の気が引いた。私はこいつを知ってる。

 今仲涼太だ。


「どうしました?」

 後ろから松宮が声をかける。

「いや……」

 まさか知ってる奴だと言うわけにはいかない。

「あの人、何だろうなと思って……意識障害、ですか?」

 松宮は答えない。実習生でもないただの学生に、患者の個人情報は話せないのだろう。

 代わりに亜由美に質問をする。

「意識障害の鑑別診断とか、わかりますか。まだ教養学部だし習ってないか」

「えっと、Aがアルコール(Alcohol)で、Iがインスリン(Insulin)、Uが尿毒症(Uremia)……」

「うん、そうそう」松宮が遮って頷く。「よく知ってるね。どこで習ったの?」

「ファーストエイドの講習会に参加したときに、聞いたことがあって」

 亜由美が覚えていたのは、“AIUEO-TIPS”という語呂合わせだった。意識障害の原因になる疾患や状態を英語にした上で、その頭文字を並べたものだ。アルコール(Alcohol)。インスリン(Insulin)――血糖の異常はここに入る。尿毒症(Uremia)。電解質異常(Electrolytes)、内分泌疾患(Endocrine)、脳症(Encephalopathy)。低酸素血症(Oxygen)、薬物中毒(Overdose)、麻薬(Opiate)。外傷(Trauma)、体温異常(Temperature)。感染症(Infection)。精神疾患(Psychiatry)、ポルフィリン血症(Porphyria)。失神(Syncope)、脳血管障害(Stroke)、痙攣(Seizure)。

 こいつに関しては、診断はわかってる。

 “P”――超能力者(Psychic)による攻撃だ。


 若いレジデントの医師もやってきて、診察の準備に取り掛かる。ここに居続けても邪魔になるだけなので、亜由美は松宮に挨拶して、その場から離れる。

 会計を済ませ、病院を後にするときも、内心の動揺はおさまらなかった。自分の行為の結果を、こんな形で突きつけられるとは予想していなかった。

 あの時の自分の判断は、あの場で下せる最善のものだったとは思う。

 今仲がこれ以上〈催眠〉で他人を傷つけないように、超能力を封じた。

 奴や奴の仲間が、サラや私やバイト先に“お礼参り”に来ないように、記憶を消去した。

 奴が関わる性犯罪について、自首するように命令した。

 事態に深入りしない範囲で、最大限正しいことはしたつもりだ。連中が超能力の影響でしばらく動けなくなるのも、想定の範囲内だった。

 それでも、自分が倒した男が大勢の医療スタッフに囲まれてストレッチャーに横たわっているのを見ると、心がひりつくように痛んだ。自分がやったことの異常性や残酷性を、眼前に突きつけられるように感じた。

 あの場では、彼は原因不明の意識障害に苦しむ患者だった。彼を囲む全員が、病気の原因を突き止め、彼を回復させたいと望んでいたのだろう――すぐ後ろに“原因”がいたことなど知る由もなく。

 最後に見た今仲の顔が脳裏をよぎる。

 バーや夜の路地裏で見たときとは別人のように、弱々しくなっていた。

 私が変えたんだ。

 私は、この人を倒して、ちょっとでも得意になっていなかったか。浮かれていなかったか。

 暴力を振るうのを愉しんでいなかったと言い切れるか。




 病院を出て少し歩いたところで、亜由美は立ち止まる。

「なあ」亜由美は心の中で言う。

「どうしたの」“分身”が返事をする。

「兄ちゃんはさ、超能力を使ってハッキングもしてたらしい」

「うん」

「それ、私らにもできるかな」

「……できると思う」“分身”は答える。「何をハックするの?」

「あそこの電子カルテ」

 亜由美は病院の方を振り返る。

「今仲のカルテが見たい」

 正直、今仲本人に対する個人的な思い入れは皆無だ。でも、彼をこんな状態に陥れた張本人としては、彼が昏迷状態から回復し、警察に自首するまで見届けるのが筋なような気がした。



 夜になってから、亜由美は再び病院を訪れる。

 人がいないのを確認してから、〈身体強化〉と足場の〈生成〉を使って一気に屋上に登る。ここなら誰も来ないはずだ。“力”に集中する間、他の人に近寄られると困る。

「始めよか」 

 亜由美は屋上で足を組んで座り、Mac Book Air を広げる。

「うん」

 “分身”が亜由美の正面にかがみこむ。

「私がネットワークに侵入する。そして、必要な情報を取ってきて、そのスクリーンに表示するようにする」

「どうやって侵入する?」

「コンピュータのデータは、究極のところ、電子回路の中の電子の状態。私たちの“力”は、電子を操作できるし、認識できる。私は、電子の世界を自在に動ける」

 亜由美は不思議な気分になる。途方もない話なのに、できそうな感覚があるのだ。

「電子の世界を動く時に、痕跡を残したり、システム自体を壊したりせんよな?」

「大丈夫」

「じゃあ、行くか」

「うん」

 “分身”は亜由美の目の前から消える。

 亜由美は自分を落ち着けようと、大きく深呼吸する。この“力”の使い方は初めてなので、緊張する。

 何かが視界を横切る。

 静電気火花のようなそれは、すぐに幾何学的な模様に変化する。視野の辺縁から形を変えながら広がっていき、目の前の風景全体を覆う。閉眼しても消えることはなく、瞼の裏を埋め尽くした図形パターンは形を変化させながら明滅する。そこに何らかの規則があるのかどうかもわからない。

 亜由美は両目の奥が攣るような痛みと心窩部のむかつきを覚える。

 “分身”が病院のネットワークにアプローチを始めたのがわかる。

 わかる、としか言いようがない。どうわかるのか、何故わかるのか、自分でも説明できない。自分が目標を捉えつつあるのが、ただわかる。ある意味、人間の知覚を超えた体験なのかもしれない。

 自分の一部である“分身”がやっていることがわからないのは不思議だ――亜由美は一瞬そう思うが、よく考えるとそうでもないなと思い直す。手を伸ばしてグラスを掴むときだって、運動野や小脳が何をやっているかを知覚しているわけではない。

 唐突に、フラッシュのような閃光と、眼球を動かす筋肉が裂けるような鋭い痛みが襲ってくる。亜由美は深呼吸をしてそれをやり過ごす。

 それが過ぎ去ると、目の前の模様のパターンに、質的な変化が生じる。“手応え”が変わった感じがある。

「電子カルテのネットワークに入った」

 “分身”の声が聞こえる。

「よし。……ネットワークのどこにおる?」

「場所をうまく説明するのは難しいけど……電子の動きと放出する電磁波を〈制御〉して、端末をエミュレートしてる」

「病棟のパソコンのフリをしてる感じやね?」

「そうなるかな。そっちは大丈夫?」

「ちょっと目が痛くなったくらい。体調的には全然問題ない」

「私はあなたの一部だから、私の感覚があなたにも影響を与えるかもしれない。変化があれば、早めに教えて」

「了解。こっからやけど、データサーバーを見つけて直接入り込むのは難しい?」

「サーバーの場所は見つけられるとは思うけど、その中から直接欲しいデータを探し出すのは多分大変。電子カルテシステムの真似をしながら、サーバーに問い合わせて、答えをもらう方が簡単だと思う」

「わかった、任せる」

 少しすると、また“分身”の声がする。

「電子カルテのシステムに入るにはパスワードが要る。片っ端から当たると、だいぶ時間がかかる」

「どれくらい?」

「明日の朝までかかる。強引に入ることもできるけど、その場合システムに障害が出るかもしれない」

「アクセス権があればいいんやね?」

「うん。……持ってるの?」

「松宮先生のなら知ってる」

 亜由美は松宮が電子カルテにログインするところを何回か見ており、そのIDを覚えていた。

 パスワードも、指の動きでわかる。“1qaz2wsx”だ。

 簡単だ。キーボードの左から1列目と2列目を上からなぞってるだけだから。

「それがわかるなら、こっそりカルテを使ったらいけないの?」

 “分身”が訊く。

「ログインしてカルテを開いたら、履歴とか残るやろ?」

「そっか」

「あなたが侵入するとき、ログは残さんよな?」

「残さない。証拠は隠滅する」

「なら、これでいこう」

「わかった」

 しばし、“分身”との会話が途絶える。

 “分身”は、亜由美の一部であると同時に、超能力が人の形をとったような存在だ。そして、亜由美の一部でありながら、どうやら独立した自我らしきものを持っているようにも見える。

 亜由美は不思議に思う。誰かの一部であるというのは、どんな感覚なのか。あの子に主観的経験のようなものが存在するとして、それはどんな感じなんだろうか。通信ネットワークに侵入するのは、どんな感覚なんだろうか。

 たまに、“分身”と目が合うことがある。そのとき彼女の目には、私が視えているのだろうか。私をどう認識しているのだろうか。


「あった」

 “分身”の声が聞こえる。

「今から、パソコンの画面に映すね」

「なあ、私の脳内で再生することはできへんの?」

 亜由美は訊いてみる。

「不可能じゃないけど、バイナリの情報を視覚イメージにするのは、かなり慣れが必要だと思う……網膜の光刺激から視覚的な認知が生まれるのと似てはいるから、慣れたら問題なくいけると思うけど」

「なるほどなあ。まあ、今日はパソコンでやろう」

「わかった」“分身”は答える。

「じゃあ」亜由美は“分身”に依頼する。「今仲涼太の今日のカルテで、医師が書いた記録を、引っ張ってきてほしい。できればテキストファイルで」

「やってみる」

 しばし沈黙が流れた後、Mac Book AirにAirdropでファイルが届く。電子カルテの内容が転記されたものだ。

「完璧やん。ありがとう」

 亜由美は言う。思わず笑みがこぼれる。

「うん」

 “分身”は亜由美の隣に戻ってくる。

「よし、読むか」

 亜由美は記載を読む。レジデントの医師が、生活歴と病歴をまとめていた。


 21歳、男性。父は会社役員。母は専業主婦。同胞なし。出生時に異常を指摘されなかった。発達、発育に特記なし。小学校、中学校、高校では成績は中の上。友人は多く、いじめ、不登校、非行はなし。現在は大学在学中。

 これまで精神科受診歴なし。家族から聴取した範囲では薬物使用歴なし。4月29日未明に道路に倒れているところを通行人が発見、近医に救急搬送された。搬送時JCS300。薬物反応は陰性。血液検査、画像検査、脳波検査、髄液検査が施行されたが、異常所見は認められなかった。身体疾患は否定的で、精神科的疾患が疑われたため、精査加療目的で当院精神科に転院となった。


 今仲は下衆野郎だ。けど、下衆野郎にも父親と母親がいて、学校に通ったり友達と連んだりした歴史があるんだな、と亜由美は思う。当たり前のことなのだが。

 カルテには、入院後の状態についての記録が続いていた。診察の記録によると、ベッドに寝たきりだが、目を開けることはできるようになり、頷きなどで簡単な意思疎通はできるようだった。検査結果は、いずれも異常はないとのことだった。

 亜由美は少し安心した。このまま徐々に回復していけば、問題ないだろう。それで、退院したら、警察でおのれの悪行を全部吐けばいい。

 それを見届けたら、今度こそ、私は普通の生活に戻る。

 亜由美はそう自分自身に言い聞かせる。

 でも、一方で、別の予感もあった――これで終わりじゃない、と。

 もう、普通には戻れない、と。

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