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 5月2日


「亜由美ー、そろそろ起きたら?」

 リビングから母の声が聞こえる。時計を見ると午後1時を回っていた。

 結局昨日は、帰宅してからシャワーを浴び、ベッドに入る頃には明け方近くになっていた。それから昼前まで眠り、目が覚めてからもしばらくごろごろと横になっていた。

「昨日何時に寝たん?」

 自室から出た亜由美に母が訊く。

「わからん、4時ごろかな」

「どこまで散歩行ってたん?」

「川沿いをずっと歩いてた」

「ほんま。あ、昼ご飯あるから食べといて。お母さん先食べたし」

 母の作った昼食を食べてから、電子ピアノを弾いたり、本を読んだりして過ごす。少ししたら、母と一緒にお店に行き、仕込みを手伝う。その日は開店から閉店まで、店の手伝いに入る。


 5月3日は、合気道の稽古に参加する。高校まで通っていた道場で、上京してからも帰省するときには顔を出すようにしている。

 ブランクがあったので、最初はゆっくりと、身体操作を思い出していく。基本的な型の稽古で、技をかけ、そしてかけられる。

 亜由美は投げられるとき、自分が投げるときと同じかそれ以上に身体感覚に注意を払う。合気道では、上手に投げられるのが重要だ。力の流れを全身で感じながら、緊張せずに、適切な方向に受身を取る。そうすることで、技のかけ合いはただの“約束事”ではなく“稽古”になり、理合の理解が深まっていく。

 夜は仲の良かった高校時代の先輩2人と食事に行く。木屋町で鉄板焼きを食べて、何軒かバーをハシゴしてから、クラブで盛り上がる。


 5月4日は、高校の同級生5人で琵琶湖の湖畔でバーベキューをする。肉は友達が調達してくるので、亜由美は野菜と、母に教えてもらったおつまみを作って持っていく。

 輝く湖面を眺めながら、ちょっと贅沢したくて買った長濱浪漫ビールのIPAを飲んでいると、サラからメッセージが届く。そういえば、もしもの時のために、渋谷の駅前で連絡先を交換していたのだった。

 一家で沖縄の離島に旅行に行っているようで、ハンナとサラの自撮りや、二人でスタンドアップ・パドルボードをしている写真が送られてきた。二人とも華があって、キマっていて、ブランド服のモデルのように見えた。

 今後サラとどんな距離感で関わっていくべきか、亜由美は決めかねていた。

 彼女が超能力者じゃなければ、そもそも交流が生まれることもなかっただろう。そういう意味では、この“力”が自分とサラを引き合わせたことになる。

 でも、だからといってこれからも超能力を使い続けるべきだとは思えない。そんなものに頼っていたら、きっと自身や周りを破滅させる。

 超能力なしで、友達としてやっていけたらいいかもなと思う。でもサラは、それだけでは満足しない気がする。

 どうすれば、この“力”の危険さをサラに伝えられるだろうか。

 酔っ払った友人の一人が、一発芸をやり始める。それを見ていると笑えてきて、思い詰めても仕方がないような気がしてくる。一人で考えていても仕方がない。あの子と接して、話を聞かないことには、何も前に進まない。

 亜由美も悪ふざけがしたくなって、みんなで撮った変顔の写真をサラに送りつける。するとすぐに、泣き笑いの絵文字が返ってきた。


 5月5日は日曜日で、《割烹居酒屋 NAO》は定休日だ。亜由美はその日一日母と過ごす予定にしていた。東京行きの新幹線は遅めの便を予約してあるので、時間には余裕がある。

 朝起きて、普段よりはきちんとした服装に着替えると、二人で兄の墓参りに行く。

 寺院が運営している納骨堂の中、黒漆に金箔で模様が描かれた納骨壇が並ぶ。その中の一つに、兄の遺骨が入っている。二人はお供物のお菓子を置いてから、手を合わせて祈る。

 こういう時、亡くなった人に声をかけるべきか、かけるとしたらどんな声をかければいいのか、亜由美はわからなくなる。他の人たちはどうしているんだろう。

 兄に何を言うべきだろうか。ありがとうか。ごめんなさいか。

 天国の兄はそう言われてどう思うだろうか。

 結局、脳内で下書きしては消してを繰り返し、何も言えずに祈りを終える。いつもそうだった。


 夕食は亜由美がバイト代で母にご馳走することにしていた。

 夕方、まだ少しディナーには早い時間だが、母を連れて平安神宮のそばのフレンチレストランに行く。予約しておいたテラス席で、アラカルトを頼み、スパークリングワインを飲む。

 空が暗くなり、明かりが灯っていくのを眺めながら、親子の時間を楽しむ。


 家に帰ってから、亜由美が東京に行く準備をしていると、母が声をかける。

「こっち来てからよう寝とったね」

「うん」亜由美は答える。「最近まし」

「薬も飲んでへんの?」

「うん。頓服も飲まんくても平気」

 母は安心した様子で笑みを浮かべる。

「前はよくうなされとったで」

「えー、ほんま?」

「うん」

「何か言ってた?」

「兄ちゃん、翔ちゃん、て」

 瞬間、背後から心臓を鷲掴みにされるような衝撃を感じる。言葉が出なくなる。

「覚えてへん? 翔ちゃん」

 覚えてる。忘れるわけない。

 宮下翔ちゃん。私の幼なじみ。

「ちっちゃい時、あんたとお兄ちゃんと翔ちゃんとで、よう遊んでたやん」

「覚えてるよ。おもろい子やった」

 亜由美は何気ない感じで答える。震える心の中で広がる感情に蓋をして、鍵をかける。

 これまでずっとそうやってきた。この作業に慣れすぎて、自分自身も騙せるようになった。

 蓋の内側には何もない、と。

「何か、勢いのある子やったよね」

 亜由美は笑って話を続ける。

「悪ふざけするときは、兄ちゃんが考えて、私が煽って、翔ちゃんが実行犯やったわ。兄ちゃんが放送作家で、私がADで、翔ちゃんが芸人さんみたいな感じで」

 母もそれを聞いて笑う。

 二人で笑った後、母が言う。

「今どこで何してるんやろうねえ……風の噂で、暴走族になったとか、家出したとか、聞いたことはあるけど」

「もう10年、とはいかんけど、7年、8年くらい前やしなぁ」

 本当は知っている――翔の最後の瞬間を。

 そしてそれを知っているのは、この世で私しかいない。



 帰りの新幹線の中で、亜由美は過去を振り返る。

 私は生き残った。でも、失敗した。為すべきことを為せなかった。

 もしやり直せたら、あそこでこうしていたらと、何度も、何度も考えた。何の意味もないのに。結局それも、現実から逃げているように思えてきて、やめた。

 繰り返し自分を責めた。でも、周りにそれを悟られてはいけない――他人に気を遣わせたくないし、「どうしたの?」とか聞かれても、あの経験を他人に言えるわけがない。

 だから、普通に生活を送るように努力した。絶えず周囲に注意を向け、家族や友達に対して適切に振る舞い、試験勉強やアルバイトに集中した。

 そうしていると、後悔や自責の念の上に“普通の生活”が重ね塗りされていって、“演技”じゃなくて、本当に普通に暮らせるようになってきた。

 亜由美は学んだ――自分を責め続けることは難しいこと。そして、自分の心は意外と簡単にごまかせること。

 今回みたいに、ふとしたきっかけから過去が眼前に迫ってきて、普段意識に登らない罪悪感が胸を締めつけることはある。そんなときは、生き残った者として、これからどうするべきかを考える。

 考えるが、結局できることはあまり思いつかない。せめて先に逝った二人に恥ずかしくないように現実世界を生きていくしかない。せめて犯した過ちを忘れ去らないようにするしかない。

 それが欺瞞的なのはわかっている。それをやったところで、二人は生き返らないし、何の償いにもならない。

 結局どんな理屈を立てても、自分のためにやっているのだ。それはわかっているけど、そうしていくしかない。他にやりようがない。

 そんな私のような人間に、悲劇に終わった過去の中の、楽しかった一部分を取り出して懐かしむ、そんな資格はあるのだろうか。

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